朝鮮舞踊に打ち込む日々、アイデンティティの揺らぎに関する個人的な話
2026/7/28
個人の話が大きな主語に呑み込まれて、たった一面で語られてしまうことがあります。在日コリアンというルーツを持つ孫明雅監督は、自身が憧れた朝鮮舞踊が社会から異様なものとしてまなざされることに「変な感じがした」と話します。
映画『トロフィー』は朝鮮学校を舞台に、親子関係や朝鮮舞踊部の活動など、さまざまな悩みと格闘する14歳・ソヒが主人公。K-POPがきっかけで生まれたかけがえのない友情と社会への違和感が共に語られ、在日というルーツを持った一人の少女の話として受け止めることができます。それは、どんなこともひと括りでは語れず、人それぞれ異なる価値観があるという、他者を想像する力につながるものです。
監督助手を務めた西川美和監督から「あなたの中にある爆弾を作品にしてみたら?」という提案を受けて、作品づくりが始まったという本作。今回は孫監督と、同じく朝鮮学校に通い、朝鮮舞踊の先生役として本作にも出演したちすんさんのおふたりに、朝鮮学校で過ごした日々について伺いました。まるで学校の先輩と後輩のような空気のなか、楽しかった思い出や生活にある違和感などが語られる、青春と今が交錯した時間となりました。
─おふたりは小学校から高校まで、朝鮮学校に通われていたんですよね?
孫:通っていました。私は小学校の1学年が20人くらいで、中学校は他の地域の学校と一緒になるので、1学年で150人ほど生徒がいました。ちすんさんはどうでしたか?
ちすん:小学校は1学年20人くらいでした。中学校は29人で、高校で150人ぐらいになりました。
─映画の中で、ちすんさんは朝鮮舞踊の先生を演じられていました。手先の美しさがひと際輝いていましたが、実際に学生時代は朝鮮舞踊を習われていたんですよね?
ちすん:小学校4年生から高校まで朝鮮舞踊を習っていました。きっかけは、学校の部活です。小学校の部活は、女の子は楽器部か朝鮮舞踊部の2つしかなくて。4年生になるとどちらか選ばなければいけなかったんです。2人の姉も舞踊を通ってきたので、自然と朝鮮舞踊を選びました。
孫:華形の部活ですよね。私は運動神経が悪かったので楽器部を選んでキーボードを弾いていたのですが、今思えば舞踊を選べばよかったです。とても綺麗で、なんとも言えず好きで……ちすんさんの、高校のときの話をしてほしいです。
─気になります、どんなお話があるのですか?
孫:私とちすんさんは同じ大阪の朝鮮高校出身だけど、7つも年が離れているので関わりがないはずなんです。なのに、友だちのお姉ちゃんから「朝鮮舞踊が伝説的にうまい人がいる」と、7歳下の私にも名前が聞こえてくるくらい、ちすんさんは超有名人でした。会ってみたらこんな大阪感満載の気さくな人やったんや、と思いました。
ちすん:そんな、ちいさな世界での話ですよ!
孫:でも、中学のときの舞踊部の友だちが、ちすんさんが出ていた高校の競技大会の様子をビデオで撮って、ずっと見ていたくらいです。
ちすん:独舞(集団で踊る群舞と異なり、一人で踊る形式のこと)のときですね。あの大会は、未だに忘れられないです。独舞は選ばれし者が踊れる大事な場面。しかも高校3年生で最後の大会だったので、ものすごく気合いが入っていました。真っ赤な衣裳を着て、お花の妖精のようなイメージで堂々と踊っていたら、最後の最後にズルっと……衣裳を踏んでしまって、仰向けに転んだんです。何が起こったのかわからず、まるで何もなかったかのように笑顔で演技を続けました。
お辞儀をして冷静になったとき「コケた! コケた!」と大騒ぎ(笑)。でも、審査員の先生から「コケたことなんて、まるでなかったかのような踊りだった」と褒められました。結果は、金賞のない銀賞。コケていなかったら、金賞をもらえていたかもしれません。
─『トロフィー』は、友だちや家族と向き合うソヒの個人的な感情に思いを馳せることができ、朝鮮学校に通ったことがない自分にとっても、まるで少女たちの青春を追体験しているようでした。おふたりの学生生活のお話も伺いたいのですが、学校はどうでしたか?
孫:とても楽しかったですね。
ちすん:私も楽しかったです。とにかく朝鮮舞踊一本で、高校生になると週6日活動して、四六時中踊っていました。朝練も放課後練もして、とても厳しかったんですが、それでも“楽しかった”という思い出がありますね。よく覚えているのが、先輩に対する挨拶。学校で会ったら、一人ひとり先輩の名前を大きな声で呼んで、しっかり会釈するんです。やってみますね。「안녕하십니까(アンニョンハシンミカ、おはようございますの意味)」!
─(ちすんさんが実演してくださいました)お腹から声が出ていて、とても迫力がありますね……!
ちすん:今思い返すと、学校を出た駅のホームでもやるので、自分が先輩の立場になったときに恥ずかしくて「やめて〜!」と思っていましたね(笑)。
─個人的な話なのですが、学生時代に朝鮮学校に通っていた方とお付き合いしていた時期がありました。でも、どんな学校生活を送っているのか、全く教えてくれなかったんです。まだ学生だったので、お互いの生活をわかっていなかったところもあり、ドラマやクラスメイトの話など同級生と変わらない会話をしていました。でも、修学旅行や運動会の話で違いを感じることもあり……うまく聞けないままでした。なので、本作を拝見して、同じ学生同士、特別視する必要はなかったんだと思えました。あの学校の様子は、孫監督の学生生活が投影されているのですか?
孫:そうですね、教室や部室の美術、先生や生徒が話す言葉の感じは、わりとリアルだと思います。いわゆる一般的な中高生と変わらずいつもふざけていて、友だちと悪ノリすることもありました。ずっと女子更衣室でギャーギャー騒いでる感じで。なので、恋愛なんて全く想像できなかったです(笑)。
─監督のコメントで「朝鮮学校の窮屈さから逃げるように日本社会へ足を踏み入れた」とありましたが、朝鮮学校時代に感じていた窮屈さや閉塞感といったものはどのようなものだったのでしょうか?
孫:学校自体はすごく楽しかったんですが、母が朝鮮学校の先生だったんです。偶然にも、ちすんさんは私の母の教え子で。
ちすん:中学のときの英語の先生が、孫監督のお母さんでした。
孫:母は仕事が忙しすぎて、家のことは二の次でした。そのことで夫婦喧嘩も多かったので、早く朝鮮学校の先生を辞めてほしいと思っていたんです。「家族よりも大事な朝鮮学校ってなに?」と考えるようになってしまった。それから、学校や友達関係は楽しかったけれど、母の仕事や朝鮮学校そのものに対しては、あまり応援できなくなってしまったんです。
─映画でも、お父さんが朝鮮学校の校長先生で、学校の存続のために必死になっていることにソヒは納得できていませんでした。まさに、孫監督の気持ちが反映された場面だったんですね。
孫:劇中に出てくる「家族よりも大事な学校ってなに?」という言葉は、私も母に聞いたことがあります。子ども心としては家族も大変だし、学校を辞めてほしかったけれど、母は「学校が大変だから」の一点張りでした。辛かったのが、途中から私の学校に異動になったんです。
─なんと……自分の親が教室にいると思うと、つらいですね。
孫:親が教壇に立って自分の子どもを教えているなんて、先輩や周りにも冷やかされますし。そういう小さなことが積み重なって、だんだんと窮屈さを感じるようになっていった気がします。
─ちすんさんは、朝鮮学校で窮屈さを感じることはありましたか?
ちすん:正直言ってなかったです。舞踊の練習が大変で、夏はレオタードに塩がふくくらい汗をかいて。でも、それは熱心な部活に入っている学生となんら変わらない悩みですよね。
孫:私は、舞踊部のことを羨ましいなと思っていました。楽器部を選んでしまったので、中学で「やりたいな」と思ったときにはもう遅かったんです。
─憧れる気持ちが、映画の軸に朝鮮舞踊を描くこととつながったのでしょうか?
孫:何度か見る機会があって自然と醸成されたんだと思うんですけど、憧れの気持ちは強かったですね。私にとって舞踊部は、日本で言うと宝塚歌劇団のような女の園感があったんです。私は入れなかったけど踊ってみたくて、高校の休み時間には舞踊部の友だちに教えてもらっていました。
ちすん:だいぶ、監督は変わっている人ですね(笑)。舞踊部以外で踊ってくれる人を、見たことないです。
孫:変わっていたと思います(笑)。友だちからは「舞踊部でいちばん下手なやつよりうまい」と褒められて、嬉しくなっていました。
─映画のなかで朝鮮舞踊は輝きを感じるような、煌めいているシーンだったので、孫監督の憧れから生まれたシーンだと思うと納得です。
孫:それと、印象に残っているのが、自分たちの代の朝鮮舞踊部が大会に出たときの映像をYouTubeで見たら、「喜び組。洗脳されてまじ可哀想」といったコメントが書かれていたことです。朝鮮学校では舞踊部は花形の部活だったので、内側と外側でまったく違う見え方になっているんだなと思いました。
─映画の中でも日本の北朝鮮愛好家の人たちが「喜び組」に対して好奇のまなざしで消費するような態度が映されていました。学生たちはただ憧れの先輩をまなざしているのに、世の中には偏見を持って見ている人がいる、という差があまりにも大きいですよね。
孫:舞踊を踊っていたちすんさんは、そういう世間の声をどんな気持ちで聞いていたんですか?
ちすん:「喜び組やて」って、ものすごく客観的に見ていました。朝鮮舞踊は細かくジャンルが分かれていて、在日コリアンのコミュニティで受け継がれてきた民族的な舞踊と、国家のためにおこなう思想的な内容の舞踊は異なるものなので、完全に別モノとして捉えていました。なので、私はまったく傷つかなかったです。
孫:でも、私は子どもの時から本場の北朝鮮の子ども達の踊りをビデオなんかで観る機会があって、可愛いとかかっこいいとか本気で思っていたんです。それが拉致問題以降、テレビで同じ踊りが「喜び組」と言われ始めて、変な感じがしました。
ちすん:本場の人たちの舞踊はめちゃくちゃ上手なので、「こんな風に踊りたいな」って純粋な気持ちでしたからね。ただ、日本のテレビでは当時喜び組の映像ばかり流れていたので、どうしても朝鮮舞踊=喜び組という印象が強くなるとは思います。監督の言うように、良く言われていないことについて傷つくというより、「変な感じ」という感覚が一番近いかもしれません。
孫:ちすんさんは、アイデンティティがしっかりしていますよね。もっと揺らいで、傷ついている人もいるなと思います。
ちすん:それで思い出すのが、高校卒業後に進学した短大に、本名のキム・チスンで通っていたんです。でも、大学に通う在日の子の多くが通名(*)で通っていることを入学してから知って。いじめられたり仲間はずれにされたりするのが怖くて、馴染もうと通名にすると思うのですが、私は初めての日本の学校でも何も気にしていなかったです。
*編集部注:外国籍の人が日本で日常的に使用する日本式の名前(通称名)。
─本名で通ったことで、苦労されたことはありましたか?
ちすん:私の場合は特になかったです。日本の子から一番多かった質問は「いつ日本に来たん?」でした。当時はまだ在日を知らない子が多くて、一から在日の説明をしなきゃいけないのが一番大変だったかもしれないです。ただ、そうやって説明したからといって変な態度を取られることもなく、「へー、そうなんや」という感じでした。
でも、孫監督がおっしゃるように人それぞれですよね。短大の卒業間際に「実は私も在日やねん」と打ち明けてくれた子がいました。その子は、ずっと日本の学校に通っていて、自分を日本人だと思っていたけれど、中学のときに役所での手続きで在日であることに気づいたそうです。彼女から「自分は今まで在日であることをネガティブに捉えていたから、ちすんみたいに本名のまま堂々と生きているのが羨ましい」と言われたことがありました。
─先日、me and youに登場いただいた在日コリアン四世であるsaki・soheeさんも、10歳まで韓国にルーツがあることを知らなかったとおっしゃっていました。
ちすん:私は朝鮮学校に通ったおかげで、はじめから自分という存在がわかっていたけれど、育っていく途中で聞かされたらどうなっていたのだろうと思います。
孫:想像つかないですね……私も、在日であることをマイナス要素として考えてきたことがなかったです。在日が日本の学校に通うとき、ルーツをオープンにして通う場合も、隠して通う場合も、それなりの辛さがあると思います。「なんで自分だけ違うんだろう」と引け目を感じる人は一定数いるはず。特に昔なんかは。でも子どもの頃から朝鮮学校に通っていると、そういうことを思わずに済む。自分は在日で当たり前。そう思えるところが朝鮮学校のいいところだとは思います。
─映画の中にある「日本人として育ったほうが傷つかずに済む」というソヒのセリフに込められた思いを伺っても良いですか?
孫:ちすんさんは、思ったことはありますか? 「日本人だったらよかったのに」と。
ちすん:(首を振る)
孫:私は中高生だったときに拉致問題が起きて、報道によって「拉致」という言葉が世間に知れ渡ったんですよね。その頃、日本の友達がノリで「あいつ拉致って遊びに行こう」みたいに言うんですよね。「拉致」って言葉が流行語だった。自分も同調して「拉致ろう」と言っていましたが、それでいいのかな? とふと思う瞬間があった。在日コリアンの立場として複雑に感じる場面がある度に、「日本人だったらそんなこと気にせずに済むのにな」と思うことはありました。
─映画のシーンで、北朝鮮から弾道ミサイルが飛んだニュースが報道された朝、集団登校をしている姿や、韓国語が書かれたフェルトを隠すような何気ない行動に、いろいろなことを思いました。
ちすん:私も高校生のときに、制服のチマチョゴリが切り裂かれる事件(*)が日本各地で起こったんです。その影響で、ジャージで通わなきゃいけなくなり、怖い思いをしたことはありました。チマチョゴリでは行き帰りが危ないという理由で、後輩の代からブレザーの第二制服ができて、こうやって変わっていくんだなと思いました。
*編集部注:1980年代から90年代にかけて、一部の日本人によって朝鮮学校の女子生徒の制服であるチマチョゴリを切られるヘイトクライムが多発した。
孫:外側ではそういう違和感を抱えていて、内側では家庭の窮屈さを感じていて。でも、在日のコミュニティから抜け出した先にあった日本の大学や会社でも、「自分は日本社会のなかで、完全に日本人のようにはなれない」と思うことがありました。どっちつかずな自分が嫌で、「日本人だったらよかったのに」と感じていたんだと思います。
─世の中が寛容さを失い、異なる他者を排除する方向に向かっている危機感を、ここ最近感じます。あからさまな差別ではなく、監督のおっしゃるような違和感を感じた経験は、ちすんさんにもありますか?
ちすん:ふと思い出したんですけど、私が『パッチギ!』(*)に出演した頃だったと思います。在日としての意見を取材で求められて素直に答えたのに、「在日コリアンの代表」としてのスタンスを求められるような空気感があって、自分が本当に伝えたかったニュアンスとは少し違う形で記事になってしまうことがありました。自分の発言はまだ目をつむれたのですが、親の話がそうやって変えられたことはショックで。
そのときに、「私って何人?」と考え込んでしまうときがあったんです。そうしたら、京都のお寺で在日の和尚さんが「ちすんは朝鮮人でも、韓国人でも、日本人でもない。“ちすん人”として生きていきなさい」と言葉をくださって。これがね、めちゃくちゃしっくりきたんです。
*編集部注:井筒和幸監督による2005年公開の日本映画。1968年の京都を舞台に、日本人の高校生と朝鮮学校の高校生の葛藤と友情を描いた。
─国籍や民族にとらわれることなく、自分として生きていきなさいと。
ちすん:実際に私も仲良くなる相手を属性ではなくて、人として見ているなと思ったんです。朝鮮籍のままにするのか、韓国籍に切り替えるのか、あるいは日本国籍に帰化するのか(*)。国籍については働きやすさや生きやすさも含めた複雑な観点から選択しなければならないけれど、私はそれよりも“自分”という人間としてのアイデンティティをしっかり持つことで、誰とでも話ができるし、していきたいと思うんです。どちらかの国を誇らなくてもいいし、決めなくてもいい。私は私として胸を張れることが、大事じゃないかと思います。
*編集部注:在日コリアンの多くは、戦前の日本の植民地支配期における渡航や定住といった歴史的背景から日本に居住し、世代を重ねて生活基盤を持つ「特別永住者」で、一般的な移民とは異なる歴史的・法的な複雑さが深く関わっている。1945年の日本敗戦後、朝鮮半島は解放されたものの米ソに分割占領され南北に分断。終戦時の外国人登録で一律に記された「朝鮮」の表記から「韓国籍」への切り替えが進んだが、分断体制への考えなどから日本政府が北朝鮮を国家承認していないため無国籍と同様に扱われている「朝鮮籍」に留まる人もいる。こうした背景から、朝鮮学校には朝鮮籍・韓国籍・日本国籍などさまざまな生徒が共に通う。
─属性を超えて、自分として生きていくことはとても大切なことですよね。一方で、その人のルーツや歴史を尊重し、違いを認め合う寛容さが社会に足りていないなかで、誰もが自分を保てるわけではないという難しさもあると思います。個人の心がけだけでは超えられない、社会的な壁や制度の複雑さについてはどう感じていますか?
孫:この映画を撮るときに、在日側と日本側、両者の協力を得なければいけなかったのですが、大変でした。日本と北朝鮮の溝って本当に深いんだなと痛感させられました。朝鮮学校からは在日がどう描かれるのか最初はとても警戒されましたし、日本の制作サイドは資金集めやキャスティングなどが難航しました。常にこの映画は本当に成立するのか、窮地に立たされていました。それでも中には、この映画の趣旨を理解した上で協力すると決断してくださる方がいらっしゃいました。そんな方々のおかげでやり遂げられたと思います。
─大きな言葉で語ろうとすることの難しさと、一人ひとりの物語の大切さを映画からも感じますし、広くいろいろな人に観ていただきたいと思いました。
孫:企画当初から、在日コミュニティに限らず、広く届いてほしいと思っていました。朝鮮学校に対して、負のイメージが拭えない部分もあると思うのですが、そこに通っている子どもたちは日本社会の子どもたちと同じように、親子関係や友だち、学校生活のことで悩んでいます。“変わらない”ということを知ってほしい気持ちがあって作った映画です。そして、補助金の打ち切り問題(*)など朝鮮学校の金銭面の苦しさ、窮地に立たされている側面を知ってもらいたいです。
*編集部注:日本は2013年、拉致問題や朝鮮総連との関係を理由に、朝鮮学校を「高校無償化(就学支援金支給制度)」の対象外とした。これを不当とする全国の裁判では国の裁量を認める判決が確定している。また、自治体独自の補助金についても政府の通知を背景に停止・減額する動きが広がり、不支給が10年以上長期化している。政治・外交上の問題を教育に持ち込む行政の姿勢や、子どもたちの教育環境悪化に対する懸念から、現在も各地で当事者や保護者、市民による支援金の再開を求める抗議や要望活動が続けられている。
ちすん:大阪の試写会で私の友だちが観てくれて、全員ウルッときたと言っていました。ある特定のセリフやシーンというよりも、映し出されるものに対して感じることがあったと思うんですよね。自分たちが過ごした頃ともまた異なる、今この時代に朝鮮学校に通っている女の子の青春とその家族の姿をリアルに描いていて。その姿を、まずは知ってもらいたいなと思っています。
孫明雅
1989年、大阪府出身。映画監督。関西大学を卒業後、テレビの制作会社に勤務し、2017年より是枝裕和監督率いる分福に所属。西川美和監督『すばらしき世界』、是枝裕和監督『ベイビー・ブローカー』で監督助手を務めた。初監督作品である短編映画『夢のつづき』が、ショートショートフィルムフェスティバル&アジアで上映。初の長編映画『トロフィー』は在日コリアン3世であり、朝鮮学校に通っていた監督自身の経験を重ねた、オリジナルストーリー。
ちすん
1982年、大阪府出身。女優。映画『パッチギ!』、『無限の住人』、NHK朝の連続テレビ小説『風のハルカ』や『マッサン』をはじめ、数々のドラマや舞台で活躍している。特技は朝鮮舞踊とバレエ、本作ではソヒが所属する朝鮮舞踊部の先生を演じる。
プロフィール
『トロフィー』
2026年7月10日よりテアトル新宿ほか全国で公開
監督・脚本:孫明雅
出演:恒那、井浦新、市川実和子、ちすん、笠松将ほか
製作・配給:K2 Pictures
公式サイト https://k2pic.com/film/trophy/
ストーリー:
朝鮮学校に通い、朝鮮舞踊に打ち込んでいた14歳のソヒ(恒那)はある日、日本学校との交流会で未来と出会い、お互いにK-POPが好きという共通点で仲良くなる。ソヒと未来は推しのライブチケット代を稼ぐため、家の不用品をフリマサイトで売ることに。高値で売れたことに味をしめ、やがて朝鮮学校の校長であるソヒの父が授与された勲章までも売ってしまう。
作品情報
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