13年前に仲良くなったパートナーと、法的に配偶者同士になって今年で10年。ささやかなプレゼント交換に私が選んだのは、2010年代のコムデギャルソン・オム・プリュスのカーディガンだった。
ちょうど私たちが出会った頃につくられたのかもしれないそれは、「修繕しようっと」と思いながらネットで選んだ中古品。届いてみて、全体的に状態はよかったけれど、注文時にMacBookの画面で確認した襟元に空いた小さな穴は、確かにそこにあった。先月の記念日的な日にパートナーに渡したものの、「ダーニングするから」とすぐに返してもらい、気づけば1ヶ月経つ……いよいよ寒くなってきたし、やらなくちゃ。
今日もいつも通り、ブルックリンの自宅からフリーランス仕事。その合間に、カーディガンの修繕にもとりかかる。
私は普段、服をつくり、世に発表し、売る——そういった業界で働いているにもかかわらず、中古の服を買うことが多い。今回のような「デザイナーもののヴィンテージ古着」を見つけるのも、スリフトストアやフリーマーケットで「ただの古着」と出会うのも好き。「がんばっているねぇ」と声をかけたくなるようなほころびが見られる、つかわれてきた服の修繕も嫌いじゃない。とはいえ裁縫が得意なわけではないので、もしかしたら台無しにしてしまうかもしれない……そわそわしながら、ちくちく縫っていく。
するとふと気づく——その作業は、まるで私たちが生きていくうえでの、社会や政治との付き合い方を投影しているかのようだな、と。身を守る服と、人生や生活を守る社会……。実際、この秋ニューヨークシティで起きた政治的動きには修繕の意識を感じたから、なおさらそう思う。
穴が空いたり、毛玉ができたり、ほつれたり。それは私たちが服を着ている限り、起きること。しかも服の構造上、そういったほころびは、脇下や股下、肘や膝のようなよく動かす部分や、袖口や襟元など接触が多い箇所にこそ現れやすい。とはいえ服の場合は、なにも修繕しなくても、ほころびを「味わい」や「過ごした時間の印」として愛でてもいい。
けれども、人生や生活となると、それを支える構造にほころびがあると、生きづらくなったり息苦しくなる。将来も見えにくくなる。かといって、じゃあそろそろ新調しようっかな! という選択肢は、服のようにはいかない。そして、よく動かす部分や接触の多い箇所にほころびがあると、「機能」はより鈍っていく。
ちょうど今月行われたニューヨーク市長本選で選ばれたゾーラン・マムダニ氏は、まさにそういったほころびに目を向けていたように思う。彼が掲げていた、家賃凍結や賃金確保、富裕層や大企業への増税、移民の尊重や保護、公共交通やチャイルドケアの無償化などのキャンペーンは、ニューヨークシティで生きる市井の人びとに響いた。実現可能かはまだ見えにくいものもあるけれど、内容は地に足がついていて、しっかりと響いた。きっとそれは、この街とそこに生きる人びとを大事にしたいのに、その大事なものが存在し続けていくうえで放っておけないほころびがこの街にはあることを、多くの人びとが認識していたからなんじゃないかな。
であれば、一緒にちくちく修繕していこうよ——人びとの間で、その思いはどんどん輪郭を持ち始め、形になった。それは私の胸のなかでもじんわりとあたたかいものとなった。個人的には、2020年以降のアジアンヘイトによる痛みと悲しみを与えた大統領が今年初めに戻ってきて、移民をあからさまに標的にする動きに怯えてきた。悔しくもあった。だからなおのこと、この移民の街での移民の人生を深く知る新市長は心強い。その人をこの街の人びとが選んだということも、移民である自分に安堵と喜びをもたらした。
アイ・ラブ・ニューヨーク! そんな気持ちを久しぶりに思い出した。ごちゃごちゃしているし、しばしばとんちんかんなことが起きて、何をしてもお金が飛んでいく——それでも、この街が、ここの人びとやカルチャーが、大好きだよ。これからも、大好きでいたいよ。
そしてこの秋の市長選で、そのラブを個々で抱くだけではなくみんなで共有できたことは、疲れが出ていたこの街に新しい希望の光をはなった。そういえば、「集う」「助け合う」「一緒にやってみる」という連帯から生まれる希望も、服の修繕から感じたことがある。その時間と空間が呼び起こされた。
以前はYouTubeの見よう見まね+自己流でダーニングをしていたけれど、昨年の一時帰国中、友人が東京の焼き菓子カフェで開催している「おしゃべりダーニングの会」というワークショップに参加した。きちっと基礎から教えてくれると同時に、ゆるっとおしゃべりもできる集い。すると、すぐには上手にならないものの、不安はだいぶ和らぎ、修繕することの尊さを改めて知った。
友人先生と、はじめましての参加者たちと一緒にちくちくしたあの時間と空間——その優しさは、今も覚えている。だから、自宅で一人のちくちくも、なんだかさみしくない気がする。そうっか、あそこで身につけたのは、ダーニングの手法だけじゃない。自分にもできることがあること、一人でも独りじゃないことを、身体で知った気がする。
ハッと、東京からニューヨークに戻ってくる。ダーニングの手を止める。ぐっと日が短くなり、窓の外では夕暮れが滲み始め、針の先の光が柔らかく揺れた。それは、この秋、ニューヨークシティがみんなでつかんだ希望の光と重なった。
今日は出勤したパートナーがもうじき帰ってくる。先月渡したプレゼントを、今日、もう一度贈れるかな。
パートナーと私は、大親友のように仲良し。でも、この街で二人で暮らしていくなかで、私たちのすぐ近くや二人の間にも、どうしてもほころびはある。ニューヨークはクイーンズ出身のパートナーと、東京から移住した私——ときに「当たり前」が違って、思いがけず穴が空く。白人男性のパートナーとアジア系女性の私——属性の違いにより、同じ出来事が起きても感じ方や経験が異なるような場面が重なると、毛玉ができる。けれどほころびに気づいた時には、話し合い、助け合い、共にちくちくする。その作業は、彼と私の間でもやってきたんだよな。
誰かが着ていた古着のカーディガンに、最後のひと針を刺す。ダーニングが完成した。わちゃわちゃしていて、愛嬌がある仕上がり。でもそれでいい。だって修繕は、必ずしも、今を過去にきれいに戻すための作業ではないって思うから。むしろ、未来のための作業だと思うから。
これからも生きていくために、今ここにあるほころびと向き合うこと。(ときには針を置いてひと休みしたり、どうしても繕えない部分を受け入れて次へ進む選択も重ねながら、)自分の手を動かすだけでなく、他者とも手を取り合って、縫い直していこうと努めること。
ちょっとくらい不格好でもかまわないし、あとでまたやり直すこともできる。だって、そうやって動かし続ける針に希望の光が宿るかぎり、私たちを守るあたたかさは失われないはずだから——それを、指先でまさに感じた日だった。


