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同じ日の日記

猫が必要だ/marika braun

ロンドンに住み続けることが決まって。「誰にも奪わせない静けさがいまの私の居場所」

毎月更新される、同じ日の日記。離れていても、出会ったことがなくても、さまざまな場所で暮らしているわたしやあなた。その一人ひとりの個人的な記録をここにのこしていきます。2025年9月は、9月20日(土)の日記を集めました。Podcast『STEM』を配信しながら、イギリス・ロンドンでセラミシストの仕事をしながら暮らしているmarika braunさんの日記です。

猫が必要だ。青白く光る画面を指でなぞるたび、めくるめく猫たちが目の前を通り過ぎ、心を揺らす。朝から寝ぼけ眼で猫の里親募集サイトを彷徨っている。ロンドンでの生活が落ち着き始め、今後もこの街に住み続けることが決まったため、猫との時間をようやく検討できるようになった。ここまで二年かかった。月のかけらでできた目、やわらかくほとんど餅のように伸びていきそうな肢体。肌寒い日には横たわる人間の足のあいだに丸まり、憂いをそっと溶かし、ときに思いもよらないユーモアで笑わせてくれる存在が、ただそこにいる日々が恋しい。

あるサイトでは10ポンドから1500ポンドまで値がつけられていた。その終わりのないページを眺めていると、これだけの猫が新しい家族を求めている現実と、血統や見た目で決められる「価値」なるものについて思いが及び、気持ちに影が差してブラウザを閉じた。

眠る直前に投稿した動画の通知を見ると、アーティスト本人にリポストされていた。Spotifyで偶然知って気になっていたベルリンのコンポーザーがロンドンに来ていたので、昨夜ひとりで踊りに行ったのだ。到着した頃には既に音が鳴り始めていて、カウンターでビールを頼みたい喉の渇きよりも好きな音楽を一秒も逃したくない気持ちが勝り、誰の目も気にせず、ただただ自分と踊った。

「いつもひとりでどこへでも行ってしまうね」と友人に指摘されたことがある。確かにそうかもしれない。だけど時々、こうして誰でもない自分と出掛けることがやめられない。音楽の好みはかなり偏っているほうだと思うし、気に入らない曲を聴くのは耐えられずすぐにその場を離れたくなってしまうけれど、この日は最初の数秒で身体が反応する音楽に出会えたからか、酒の一滴も飲んでいないのに心と身体がどんどん軽く、不思議なほどなめらかに動き、指先ひとつひとつまで自分だけのものだと疑いなく確信できた。そうしてひとしきり汗をかき、音が止み、乾き切った喉にようやくビールを流し込むと、自然に足が家へと向かう。とても軽く軽く。胸のあたりが温かく満ち、生きることそのものの証明のように感じられた。自分の思うままに歩き、踊り、帰る。完璧な夜。

そんな記憶の中にしばらく引き戻されたあと、ぐいと起き上がって、平日のあいだ置き去りにした色々を一気に片付けた。午後の予定まで時間があったのでアラームもかけずにうたた寝をしたら、気づけば15時。慌てて支度をして家を出る。ロンドンで最も美しい季節は完全に去ってしまったけれど、地面に積もる落ち葉を踏みしめるたびに立ちのぼる、甘く湿ったにおいが心地よく、こんな秋晴れの日は悪くない。

この日は友人が参加するポップアップに誘いを受けていたので、ヴィクトリア線に乗り換えて、フィンズベリーパークへ。ロンドンで初めて住んだ街で、引っ越してから訪れるのはおよそ一年ぶりだ。駅の改札を出た瞬間、懐かしさよりも名付けようのない奇妙な違和感が身体じゅうを駆け巡った。

見慣れた店の数々、ホームレスの顔ぶれまで以前と変わらない。何も変わらないのに、すべてが違う。まるで時間の断層の狭間に立っているようでひどく居心地が悪かった。数分後、合流できた友人の顔を見れて少しほっとする。

「私たちがかつて知っていた場所は、便宜上その位置を置く空間の世界だけに属しているわけではない。それらは、当時の私たちの人生を形作っていた連続する印象の中のほんの薄い一片にすぎなかった。ある特定の風景を思い出すということは、ある瞬間を悼むことにほかならない。そして家々も、道も、大通りも、ああ、年と同じく、はかないのだ」
——マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(筆者訳)

会場は偶然にも以前住んでいたフラットの一本隣の通り沿いで、作業をしに訪れたこともあるカフェだった。参加者のほとんどが日本人で、それぞれが服や書籍、レコード、絵などを販売していて、久し振りに日本人が大勢集まる場に足を運んだ気がした。どのようにロンドンで暮らしているか何人かと言葉を交わす。

今年の夏、イギリスのビザ要件がさらに厳しくなり、就労ビザの最低年収や雇用側の負担金が引き上げられたこと。ビザの更新が無事承認されたメールが届いた翌日に、大規模な反移民デモが起きたこと。政府は永住権の申請に必要な居住年数を5年から10年に引き上げる提案もしていて、もし10年になるなら日本に帰国するだろうとバリスタの彼は話していた。社交の場が苦手な私は顔だけ出して帰るつもりだったけれど、琥珀色に透き通るワインを何杯か飲むうちに気分がよくなって、少し話しすぎたかもしれない。

結局、夜が深まる頃に友人とその場を後にして、身体に記憶された駅までの道を歩きながら、この街での生活を思い返していた。初めての海外生活、今より英語も何もかもがままならなかった手ぶらの状態で初めて手に入れた、自分のための小さなセーフスペース。フラットシェアは絶望的に向いていないと思い知った日々。恋しいのはただ一匹の猫、キットラーだけだ。名前の由来は口元の小さな黒ひげから、子猫の“kitten”と“Hitler”を組み合わせたネットスラングだという。飼い主は私の拙い英語や異文化への無知を陰で笑うような人だったけれど、彼女の知らないところで、私たちは時々、静かに眠ったこともあった。

考えなければいけないことは山程あるのに、やはり気を抜くと猫のことばかり考えてしまう。今のパートナーと暮らす家にはまだ自分ひとりの部屋もなく、猫もいない。けれど、確かにここにいて、拾い上げてきたものが片手に収まるくらいにはある。誰にも奪わせない静けさが、いまの私の居場所だ。

marika braun

ロンドンで暮らしているセラミシスト。2025年にポッドキャスト『STEM』をはじめる。映画や音楽、社会の揺らぎやフェミニズム、海外生活のなかで感じることなどを話している。

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ささいなできごとや、ふとした違和感。それらを“話の種”に、ロンドンと東京で離れて暮らすふたりが、ことばを耕しながら心の奥を見つめ、広がるように育てていく⸺そんな声が響き合うなかで生きていきたいという想いを込めたpodcastです。

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