ゆうしゃんさん
1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。
日本の植民地だった台湾にもアメリカの空襲があった。
母方の祖母は1年だけ国民学校に通っていた。空襲が頻繁になると学校に行けなくなり、空襲警報が鳴るたびに防空壕に隠れる。幸い実家が北の海岸沿いで市内ではなかったため、直接の被害はなかったが、一家は危険を感じ45年夏に山奥にある親戚の家に避難し、電気のない牛舎でしばらく生活していた。市内在住の親戚が機銃掃射に遭い、頭のない状態で発見された話も聞かされたという。カタカナは勉強したが終戦までひらがなを勉強できず、今は日本語が全く話せない。
台北の空襲は知っていた。しかし、家族に体験した人がいることは一度も頭に浮かばなかった。戦争の記憶を語り継ぐことが台湾で今まであまり重視されてこなかったからかもしれない。それより、多くの人は植民地支配下の政治・社会・教育に関心を持っている。私自身も母方の祖母より、6歳上で日本語の喋れる父方の祖母の方に目が向いていた。
仕事で東京の空襲について聞く機会があり、祖母はそれに似たような体験をしていた。聞き取りでできるだけ共感したかったが、頭のどこかで「他国=他者の戦争を学ぶ」感覚になっていたかもしれないと、改めて気付かされる。
父方の祖母は、台湾の中部にある「員林」というところの出身、ネイティブ言語は台湾語。小4まで日本の教育を受け、日本語が話せる、教育勅語を覚えている、神社も参拝したと、色々教えてくれた。どこの神社だったの? と聞いて、連れて行ってもらったら、その敷地は中華民国の兵士を祀る「忠烈祠」に生まれ変わり、残されている鳥居に中華風の屋根が載せられていた。
祖母は戦後、国民政府による教育をほとんど受けなかったため、中国語(≒北京語)は片言程度しか話せない。戦後大陸の人が村にやってきた時のことをよく覚えていた。
「ひどかったよ、彼らは、ぞうりとか履いてたし。私たちは日本の教育を受けたので、ちゃんとした格好だったの。彼らは国語(中国語)を喋るが村の人たちにはそれがわからない。それで彼らはピーナッツ黒糖売りの村人の屋台をぶち壊した。村の人はすごく怒って、彼らのことを「外省豚(グァシンアディー)」と呼びはじめ、あいつらにものを売らないようにした。しかしその後その一人から話を聞くと、彼は元々兵隊というわけではなくて、(ジェスチャーで表しながら)美容師だったのに、国民党が台湾に逃げる途中で強制的に連れてこられたそうだ。台湾人も戦争の時たくさん南洋に連れて行かれたから、同じくかわいそうな人だなと思った。」
「おばあちゃんは日本がとても好きだよね」と、小さい頃から親はずっと言っていた。美空ひばりの歌を繰り返し再生し、日本製のニット帽や靴下を買ってあげると喜んでくれる。特に父方の祖母の話は前半だけ見ると、よく言われる「親日台湾人」のイメージにピッタリかもしれない。その立場の人は「やっぱり日本はいいことをしてあげたから日本が好きだった」と大喜びするだろうし、一方の人たちはおそらく「皇民化教育の洗脳がヤバかった」「近代化に対して無反省」と批判するだろう。もちろんいわゆる「犬去りて、豚来たる」という言葉に表されるように、日本もひどいことをしたが後から来た国民党はもっと酷かったから日本の方がまだましだ、という解釈もできるだろう。
しかし果たして父方の祖母は本当にいわゆる「親日」に当てはまるだろうか。後半の話はむしろ、話し合っていく中で「権力者の戦争のために一般住民が連行される」経験で共感と連帯ができたことを示していると、私は読み取った。政権の転換を経験させられた一般庶民にとって、支配者は誰であれ、戦争に巻き込まれて日常生活を失うことに変わりはない。
祖母は去年亡くなってしまった。話を聞いたのは7年前で、特にコロナもあって最後の数年間は台湾に帰る機会があったとしても中部まで会いに行けない時は少なくて残念だった。母は家族親戚の噂話を全部知っているのに、ついこの前この話をしてみたら、「いつ聞いたの」と驚いた。日本が単純に好きだったと思っていたようだ。すごく身勝手だが、父方の祖母のような経験を「親日」で片付けられないために私は今日本にいるのではと、たまには思っている。