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声のポスト

だれかから聞いたことのある戦争のはなし。24人の声

「集団自決」から生き残った祖母、フィリピンにいた曽祖父、ウクライナに住む知人…

言葉にならない違和感が生まれるきっかけになったできごとや、社会に存在する問題まで、ひとつの「問い」を立てて、公募を含めたさまざまな人の声を集める「声のポスト」の企画。複数の声から、それぞれの思いや語りが同時に存在する社会そのものを見つめていきます。

第二次世界大戦の「終戦」から今年で79年。日本は広島・長崎の原爆投下、沖縄の地上戦をはじめとして、あらゆる場所で市民を含む多くの人々が甚大な被害を受けました。そして、太平洋戦争以前から日本が押し進めていたアジア各国や南洋諸島への植民地化・占領などによっても、多くの命が奪われました。先日は広島・長崎の平和式典におけるイスラエルへの対応も話題になりましたが、現在もイスラエルによるパレスチナの人々の虐殺をはじめとした中東における戦闘、ロシアによるウクライナ侵攻など、戦争は今もまさに世界中で起き続けており、「過去にあった話」では決してありません。

自分自身が戦争を直接的に経験していなかったとしても、祖母や祖父、曽祖母や曽祖父、知人や友人などからいつか聞いた「戦争に関する印象に残っている話」は覚えていることがあるかもしれない。それぞれ異なる場所で生まれ育った一人ひとりが聞いたことのある戦争に関する話を、一つの場所に記録していけたら。そんな思いから「誰かから聞いたことのある戦争のはなし」というテーマで声を集め、24名の話が集まりました。

🤍質問
1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。
2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

🕯️声を寄せてくださった方々
・燈里さん:フィリピンにいた父方の曽祖父、山崎弘幾の日記に書かれていた話
・小山田浩子さん:広島県呉市の軍需工場で働いていた祖母から聞いた話
・富沢櫻子さん:満州で残留孤児となった祖母から聞いた話
・熊谷充紘さん:海軍に配属されていたヒロオお祖父ちゃんの話
・児玉浩宜さん:ウクライナ・ブチャに住むコンスタンティン・モロトフさん(70歳)の話
・齋藤レイさん:沖縄・伊江島で「ヌチドゥタカラの家」館長の謝花悦子さんから聞いた話
・saki・soheeさん:広島にいた友人が言った言葉、戦時中に殺された在日朝鮮人の話
・スクリプカリウ落合安奈さん:ルーマニアの宿で食卓を共にしたウクライナの人から聞いた話
・生物群さん:東京に住んでいる1920年代・1930年代生まれの人から聞いた話
・竹中万季:東京で風船爆弾をつくった祖母の話、母から聞いた海軍にいた祖父の話
・扉野良人さん:約百年前の女学生だった大伯母の日記、母の伝え聞くひょうきんだった大叔父が原爆で命を落とす前に綴った手紙が教えてくれた話
・中橋健一さん:戦後シベリアに抑留された経験がある祖父の話
・西由良さん:渡嘉敷島で「集団自決(強制集団死)」から生き残った祖母に聞いた話
・野村由芽:大阪の練兵場で、扇を手に舞った祖母から聞いた話
・平野暁人さん:一家で満州に暮らし、命からがら引き揚げてきた父に聞いた話
・モリテツヤさん:「福島原発20キロ圏内ツアー」でイスラエルで生まれ育ったダニー・ネフセタイさんから聞いた話
・lisaさん:長崎で被ばくした祖母から聞いた話、ベルリンで友人と話した長崎・台湾・パレスチナの話
・rino.さん:職業体験で行った先の老人ホームで聞いた話
・Shizukuさん:樺太で玉音放送を聞き終戦を知ったという祖父から聞いた話
・阿部愛美さん:広島空爆後、一週間ほど救援活動を行った祖父から聞いた話
・関かおるさん:サンフランシスコで生まれユタ州の日系人強制収容所へ入れられた祖父から聞いた話
・なぜならばさん:関東大震災があった年に生まれ、終戦を22歳の頃迎えた祖母から聞いた話
・morikawa reikaさん:満州国に渡り、敗戦をそこで迎えた曾祖母から聞いた話
・ゆうしゃんさん:日本の植民地だった台湾で二人の祖母から聞いた話

集まった戦争の話は、どこで、いつ、どんな状況で経験したのか、どう捉えていたのか、そして語り方もそれぞれで、その話を聞いた一人ひとりの記憶の思い出し方もそれぞれでした。この記事が、自分がいまいるこの場所から戦争について考え、調べ、平和について話し続けるきっかけになったらうれしいです。戦争の中で生きていた/生きている人たちの言葉や思いを知って語り継いでいくことが、この世界から戦争がなくなる未来へと繋がっていくようにと祈りながら。

※本文中、現在では不適切だと思われる語彙・表記が含まれている可能性がありますが、「誰かから聞いたことのある戦争のはなし」という企画の特性上、話をした人が生きていた時代背景を考慮し、原文のままとしております。

フィリピンにいた父方の曽祖父、山崎弘幾の日記に書かれていた話

燈里さん(翻訳者、執筆者)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

父方の曽祖父、山崎弘幾が13歳の時から日記を書き続けていたことを最近初めて知り、一部残っているものを少しずつ読み進めるようになった。曽祖父は明治25年兵庫県出石に生まれ、國學院大学を卒業後、国語教師になった。言語に尋常ならぬ関心と熱意を持ち、押韻の日本詩歌の詩作を生涯続け、日記には彼が音韻にこだわり作った詩が大量に残されている。第2次世界大戦が始まると、「海外に日本語を広めるということに限りない夢と悦びを抱き」、フィリピンでの日本語普及のために自ら進んでマニラに飛ぶ。軍政の教育要員として昭和17年末から21年まで約3年間マニラで日本語教育を指導した。しかし、大戦末期になると、アメリカの激しい爆撃により町を追われ密林に逃げ込み、何とか生き延びたところを捕虜として捕えられた。非戦闘員であったがためすぐに解放され、帰国後、疎開していた家族と岡山県岡山市に住む。その一連の体験が日記に残されている。

敵機動を逃れてマニラ、バギオ、そしてルソン島北部の山林に逃げ込み、いつ死ぬかも分からない爆撃と飢えと怪我に苦しむ日々を次のように書いている。「昨日は生きて 今日の身の明ければ 敵の偵察機が飛び 偵察を済ますと爆撃機が爆音を上げ 森の中に銃弾をぶち込む 迫撃砲が森を揺さぶる 部隊は一ヶ所に停まってはいられない 厳しい法度は 昼間の煙と 川原の砂に足跡・轍を残すこと 移動の途には屡々死骸に突き当たる 先発の落伍に果てたものだろう 獣が荒らした腐肉には黒山の虻蠅が集り 肉を舐め取り やがて異境の土に 骨ばかり消え残るのであろう」

日記には死にかかった惨い経験が続くが、夜だけ攻撃は止んだようだ。夜の森でのその束の間の安息と静寂の描写は、昼間とは対照的で詩的でさえある。「森の夕は早く来て しばし安静を與える トモン川の上流の川原に出て 水浴をして星を仰げば 月も樹海の上にある その蒼白い光の下で蓬々と伸びた 墓に埋める髪を刈り合う 夜の涼しさは秋を思わせ 山河相似て故郷は遠い 悲涼の感が侘しく九段刈りに響く」

その後、日本の敗戦と降伏が明らかになり、曽祖父は機銃の雨を生き延びた。将校2人のピストル自殺には続かず、彼は自決用だった手榴弾を川に投げ込み、森を出たらしい。捕虜となり、収容所まで運ばれる道中が印象的だ。「我々が奥山を出たのは9月3日、武装解除を受けて後、アパリ方面に運ばれ海行と陸行に分かれ、私達はトラック行列昼夜兼行、ラグナ湖畔のカンロパン収容所に送られた。山を下った村々から最後まで、至る所の沿線に比島人達は老若男女群がって我々を見、口々に罵り続けた。しかもそれが日本語である。ああ私達が情熱を傾け、島人も自ら求めよく覚えてくれた日本語教育はこんな結果になって、あとは虚しく消え去るのかと思うと云うに云えない敗戦の悲しみはこんな所にもあった。<略>(腹が立ったのは)敵にというよりも、向こう見ずに事を起し、拾収を意とせず祖国と国民を、未曾有の恥辱と困苦に陥れた人たちに対する憤り、否それは又深く自嘲悔恨に通う憤りであった」。

帰国から10年後、昭和31年3月の日記では、曽祖父は改めてこのフィリピンでの経験を振り返り、以下のように文章を締め括っている。「ただに身近な方面ばかりでなく世界人類の平和と福祉に貢献するところがなくてはなるまい」。曽祖父はその後、岡山県でエスペラント語の普及、発展に貢献する。エスペラント語は国際補助語として考案された人工言語であり、どの国にも属さない。英語を国際共通語とする言語帝国主義への抵抗の言語して反言語差別の理念を掲げ、また、労働者連帯のためのアナキストの共通言語にもなった。戦後曽祖父がエスペラント運動に尽力したのは、元々の言語への強いこだわりに加え、日本語教育という植民地主義の同化政策に加わった深い後悔から、言語による平和の希望をエスペラント語に見出したのではないだろうか。彼はエス和辞典の発行に関わり、子供達をエスペラント語で名付けた。そのうちの1人、私の祖父である山崎アジオもエスペラント語を流暢に話した。azioには「アジア」という意味がある。私は大叔母のチエロの名前をもらった。cieloは「空、天国」の意だ。あの森で夜、死を覚悟して髪を刈り合った蒼白い月明かりが曽祖父が見たアジアの空だったのだろうか。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

山崎弘幾『草笛 韻の詩句集』(1998年)
曽祖父の日記を一部祖父が書籍化したもので、彼が作った詩と戦争体験の記録を読むことができます。

せたがや未来の平和館
世田谷区の戦争資料の収集と保存をしている資料館。戦争に関する資料や実物を展示している他、平和への取り組みとして地域に根差した教育普及活動を行っています。従軍日記が展示されており、第2次世界大戦時の日本兵の戦争体験が読めます。当時の日本兵による強姦、略奪、中国人の酷使などに対する内部からの批判が含まれていました。

燈里(翻訳者、執筆者)

1992年茨城県出身。台北在住。翻訳者、執筆者、作曲家。思い通りにならない不完全な自分の体を出発点に、女性性を取り巻く歴史と政治と呪術を探りエッセイを書く。
Akari is a translator, writer, and composer from Ibaraki, Japan, currently based in Taipei, Taiwan. Her writing focuses on the history, politics, and witchcraft surrounding womanhood and uses her imperfect and unwieldy body as a starting point.

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広島県呉市の軍需工場で働いていた祖母から聞いた話

小山田浩子さん(小説家)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

女学生だった祖母は、学徒動員で広島県呉市の軍需工場で働いていた。戦闘機の部品関連のものを作っていたらしい。山間部の裕福な農家だった親元を離れての寮生活、本当は従軍看護婦になりたかったが親に泣いて止められた。陸軍関連の施設が多くある軍都にもかかわらず8月6日まで大規模な空襲がほぼなかった広島市とは違い、海軍の施設があった呉には戦時中たびたび空襲があり爆弾のひとつが近くに落ち同じ工場で働いていた女学生が亡くなった。爆風に飛ばされ電信柱にひっかかった彼女の肉は鶏肉に似ていた。

朝昼晩三交代制の工場勤務、食事は雑穀米にうすい味噌汁ばかりで祖母たちはいつも空腹だった。ある日憲兵がやってきて◯◯はおるか、と祖母の名前を出した。慌てた工場長に呼び出された祖母に、ほかの女学生たちは一体どんな違反をしたのか、検閲で引っ掛かるような手紙でも出したのかと尋ねたが祖母には覚えがない。憲兵はおろおろする祖母を連れ出し官舎の食堂で白米と煮た肉をご馳走してくれた。聞けば憲兵は祖母の父親の遠い知り合いで、娘の様子を見てきてほしいと頼まれたらしかった。久しぶりの白米と肉はそれはもう信じられないくらいおいしかった。そのあと寮に戻った祖母は、突然憲兵に引っ立てられた祖母がどんな目に遭っているか案じていたほかの女学生たちに涙ながらに迎えられ、きまりが悪く、遠い親戚が顔を見にきただけだ、と答えた。

1945年8月6日朝、工場の夜勤を終え、休む前に朝食を食べようとしていた祖母の味噌汁が窓の外の轟音とともに揺れて倒れた。祖母は、空襲だとか恐ろしいだとか思うより先に、ありゃあもったいない、お味噌汁が、と思ったという。それが呉から20キロ以上離れた広島に落とされた原子爆弾の衝撃によるものだとは夢にも思わなかった。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『新版 屍の街 他11編 大田洋子原爆作品集』(著者:大田洋子、編著:長谷川啓、発行:小鳥遊書房/2024年)
ゲンみたいに逞しさと反骨精神に満ちているわけでもない、すずさんみたいに穏やかで独特の感覚を持っているとも限らない、いや満ちていて持っていたかもしれないけれど原爆によってそれどころではなく弱く醜く病んで狂って奪ってでもどうにか淡々と細々と生活を生きる人々を描く作品集、アメリカの人から大田洋子の作品をどう思いますかと聞かれ、恥ずかしながら読んでないですすいませんと答えてから読み始めいまも読んでいる最中で、しんどいけど面白く身につまされる、最近新版が出たので入手しやすいと思います。

小山田浩子(小説家)

2010年「工場」で第42回新潮新人賞受賞。2013年、同作収録の単行本『工場』で第30回織田作之助賞受賞。2014年「穴」で第150回芥川龍之介賞受賞。著書に『工場』『穴』『庭』『小島』(以上新潮文庫)、『パイプの中のかえる』『かえるはかえる パイプの中のかえる2』(以上twililight)。生まれてからずっと広島に住んでいる。

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満州で残留孤児となった祖母から聞いた話

富沢櫻子さん(ekot spectrum works主宰)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

この国土にあって自然の力はあまりに強いから、我々はそれと対決するのではなく、受け流して再び築くという姿勢を身に着けた。そうでなくてはやっていけなかった。我々は諦めることの達人になった。

我々は社会というものもどこか自然発生的なものだと思っている節がある。この社会では論理に沿った責任の追及などはやりにくい。「なぜあんなことになったのか」と問うても、「あの頃の空気を知らない」と言って済ませてしまう。

大戦の後、ドイツは戦争の責任をしつこく問い、戦争犯罪人を徹底して追訴した。同盟国であって同じくらい惨めな敗北を喫して資産の喪失と社会の崩壊を経ても、あの時、日本人は戦争の災禍を一種の天災と受け止めたのではないか。愚かな指導者の責任を追及して次の世代が同じような不幸がないようきちんと後始末することを避け、速やかに忘れて前に出る道を選んだのではなかったか。

『春を恨んだりはしない』(著:池澤夏樹、発行:中央公論新社/2011年、p.59-61)

池澤夏樹『春を恨んだりはしない』は著者が東日本大震災をめぐり綴った一冊だが、この考えに触れ腑に落ちたことがいくつもあった。陸続きの隣国がなく、おかげで近代まで侵略・被侵略の歴史は他国より少ない反面、抗い難い自然の脅威との結びつきが強固な日本で、長らく武士道や潔い諦観が醸成し勧奨され、私自身にもその価値観は骨肉にまで浸透している。

国土の三倍に及ぶ広大な土地を侵攻し獲得した満州で、残留孤児となった祖母はあれから79度目の夏を迎えた今も、周囲がたしなめるほど自責的な性格だ。父がソ連兵に連れ去られ、母が餓死したのも、終戦後40年帰国が叶わずそれゆえ日本語を忘れたことも、現地家庭に拾われ虐待を受けたのも、娘や孫に苦労をかけたのも、「要領の悪い祖母自身のせい」らしい。そんなわけがあるか。でも、そう思わずには祖母は今日まで生きてこれなかったのだろう。

戦後を生きる私たちは、あの戦争で受けた被害を知る機会はあっても、我々がどれだけのことをしたのか、知らないことがまだ沢山ある。それは「知らなくてもいいこと」ではないはずだ。降伏して、謝罪が済めばゲームセットでノーサイド、美しいのだろうか。何十年経ても清濁を見つめ紡ぐ未来を諦めたくないと思う。それがどれだけ痛々しくても。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『鬼が来た!』(チアン・ウェン監督/2000年)
戦時下の日本軍と中国人の奇妙な友情と厳しい悲劇を描いている本作は、日本では反日映画扱いで上映当時も荒れたが、中国ではそもそも上映禁止で発禁処分、のちに『ローグ・ワン』などに出演した監督兼主役のチアン・ウェンも本作をきっかけに映画制作・出演禁止処分を5年以上受けていた。国枠に収まらない、骨のある反戦映画。日本兵役として香川照之が出演。そのほかの日本兵もすべて日本人が演じている。2000年カンヌ国際映画祭にて審査員特別グランプリを受賞。

『ルック・オブ・サイレンス』(ジョシュア・オッペンハイマー監督/2014年)
9・30事件の百万人大虐殺の加害者を追ったドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』(2012年)の姉妹編、被害者目線の本作はあまりにも暗澹で言葉を失う。両作に通ずるのは、末端の実行役たちの直視しきれない罪を大義で誤魔化さざる得ない都合の悪さと、どれだけの力を持っても折ることできない、鑑賞側にまで刺さる被害者側の視線。

大義という言葉を背負って、あまりにも容易に気が大きくなりやすい、ナショナリズムや保守における「責任」。一個人としてその言葉や思想に責任は負えるのか? という視点は失ってはならない。個人の罪として背負えなくなった瞬間、大義名分をかざして誰かを蹂躙しないと済まなくなった時点で、突き詰めれば主義や属性は“加害意識”を緩和するための材料にしかならない。この大虐殺に至る背景まで理解すると日本も無関係ではなかったことを知ります。

富沢櫻子

ekot spectrum works主宰
1992年、東京都生まれ。
幼少期から日本、香港、大陸各地での生活を経て、現在は東京を拠点に活動中。 2015年からナラティヴでアンニュイ、無国籍な佇まいのアロマワックスサシェを制作する[ 檸檬はソワレ ]として活動を始める。その後、より裾野を広げた活動を目的とした[ ekot spectrum works ]を立ち上げ、作品は全国の百貨店やセレクトショップなどで取扱い中。創作活動の傍ら、エッセイ、書評の執筆やPodcastパーソナリティと、インディペンダントに活動の幅を広げている。Podcast「よもやまトゥーマッチ」配信中。

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海軍に配属されていたヒロオお祖父ちゃんの話

熊谷充紘さん(twililight)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

ミツヒロは、ヒロオお祖父ちゃんの話をしていると、だんだんヒロオお祖父ちゃんになっていく。お祖父ちゃんになっている間は、ミツヒロと呼んでもまったく反応せず、「ヒロオお祖父ちゃん」と呼ぶと応える。演じているのか本気なのか。まあそんなこともあるかと、ミツヒロがヒロオお祖父ちゃんになっている間は、お祖父ちゃんとして話す。

話題はお祖父ちゃんが地元の自動車会社に入社した頃から、下の娘、つまりミツヒロの母親が小学校を卒業する頃までの、およそ25年間を行ったり来たりする。喋り方はお祖父ちゃんそのもので、声はミツヒロともお祖父ちゃんとも、どちらにも似ているようで、似ていないような。でも声に触り心地があるとしたら、きっと同じ。優しく、包んでくれるようなあのタッチ。

「お祖父ちゃんは空軍希望だったんだけど、目が悪くて海軍に配属されたんだ。将校をシンガポールに輸送する護衛艦の乗組員で、無事に送り届けて帰る途中、台湾近くの海でアメリカ軍に爆撃を受けた。衝撃。沈没間際の船を見限り、黒い海に飛び込む。目に入るコールタール。奪われる視界。手を振り回し、瓦礫に掴まる。体が重い。軍服が邪魔だ。臭い。皆は無事か。

「無事ですか!」

無事だ! 無事だ!

「視界が良好な方はおられますか!」

駄目だ! 駄目だ! そのうち助けの船がくる。しばらく辛抱して浮かんでいろという声。田村兵長か。サメは大丈夫ですか! 山崎二等兵の声か。波の音が高まったかと思ったら、全身をさらわれる。水面から顔を出し、耳をかっぽじる。耳だ。耳だけは聞こえるようにしておかなくては。繰り返す波の間から、大丈夫、サメの目くらましにふんどしを広げろという田村兵長の声。軍服を脱ぐのですかという山崎。こんなもの重いだけだ。水温は低くない。助けもすぐくる。脱げ! そしてふんどしをゆるめてたらせ! 僕は軍服を脱ぎ、ふんどしをゆるめる。サメは本当に僕ではなくふんどしに興味をしめしてくれるのか。あとは一刻でも早く助けの船に見つけてもらえるように、叫べ。助けてくれ! という田村兵長。助けてくれ!

「助けてくれ!」

腕が痺れてくる。水中の体がだんだん無くなってくる。自分の輪郭がふやけて、海に溶けていってしまう。それもいいかもしれない。体をさすれ! 山崎の声が僕を叩く。ハッとして、僕は体をさする。それにしても、爆撃からどれくらい時間が経っただろうか。視界は一向に開かない。助けの船なんかくるはずがない。らっきょうだ! 山崎が叫ぶ。辺りを漂っている缶詰、らっきょうだ! うまいぞ、水分補給にもなる! 僕は手探りで缶詰を探す。どれだ、どれがらっきょうだ。丸みを感じろ! 山崎が叫ぶ。丸み、丸み、これか。血だらけになっていた手で缶詰に瓦礫を刺す。飛沫。さらに刺す。刺す。飛沫。飛沫。缶詰をめくる。震える指を伸ばす。舌を伸ばす。体中が震えている。指に何かがあたる。舌に転がす。水分。水分が口に、喉に、全身に広がっていく。らっきょう!」

「それでお祖父ちゃんはらっきょうが好きなんだね」
「ああ、なにもなくてもらっきょうさえあればなんとかやっていける」
「ミツヒロもらっきょうが好きなんだよね」
「うん、らっきょうって一口でも食べるとなんだか元気が出る気がするんだよ」

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『水平線』(著:滝口悠生、発行:新潮社/2021年)
舞台は太平洋戦争末期に激戦地となった硫黄島です。太平洋戦争は白黒写真の中の出来事のような遠い出来事かもしれません。でも当時の記録方法が白黒だっただけで、実際は今ここにいる世界と同じようなカラーの空間がそこにはあった。

ある時、1940年代の硫黄島を生きる人たちの声が、2020年を生きる現代の人に伝わってきます。それは不思議なことかもしれません。でも、それはおじいちゃんに、「戦争の時、どうしてた?」と話を聞くことや、いずれ自分が、孫世代に今の日本の話を聞いてもらうことに近いことかもしれない。
過去・現在・未来の語りの場を作ることは、わたしの声を誰かに伝えることにもなるのかもしれません。

熊谷充紘

三軒茶屋で本屋&ギャラリー&カフェ『twililight』を営む。出版社としても、きくちゆみこ『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』、大崎清夏『私運転日記』などを刊行。三軒茶屋をテーマとした冊子「sanchapbook」シリーズも創刊。第1号は竹中万季『わたしを覚えている街へ』。
本と出会う場を広げるべく、イベント企画や選書、執筆も行う。これまでに「SHIPS HAPPY HOLIDAYS」選書、渋谷PARCO「あいとあいまい」選書&出店、LUSH「BATHING & POETRY」選書&インタスレーションなど。
屋上でぼんやりする時間が好き。

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ウクライナ・ブチャに住むコンスタンティン・モロトフさん(70歳)の話

児玉浩宜さん(写真家)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

2022年から続くロシアによるウクライナへの全面侵攻。
キーウ近郊のブチャではロシア軍によるとみられる民間人の虐殺がありました。
取材で訪れた際に出会った地元住民のコンスタンティン・モロトフさんの証言を紹介します。
彼の自宅に1週間ほど滞在させていただきながら、少しづつお話を伺いました。

犬が吠えて目が覚めた。朝5時ごろだった。
なんだろうと思ったら爆発音が聞こえた。
それで戦争が始まったとわかった。

ブチャのこの家には娘夫婦や孫たち7人が住んでいた。
すぐにみんなで逃げようと話し合ったが、私は断って家族を見送った。
私は飼い犬のアーシャの面倒をみなきゃいけない。
逃げていった隣人の家にも犬や猫がいて、食べ物をあげる必要があった。
怖いと言うよりもやるべきことがあったから忙しかった。

三日後、ロシア軍の兵士2人が私の家の庭に入ってきたのが窓から見えた。
私は彼らにロシア語で「お前たちは怖くないのか?」と聞いた。
兵士たちは「怖い」と答えた。
彼らは小柄の兵士で幼い顔だった。
水が欲しいというので飲ませてやった。
「ロシアに帰ったほうがいい。ウクライナ軍に殺されるぞ」と彼らに説得しようとした。
降伏させるために警察の電話番号を教えようとしたとき、もう1人の兵士がやってきて彼らに「早く行こう」と言うと彼らは去っていった。

別のロシア兵は犬のアーシャを殺そうとした。
吠えて威嚇するから怖かったのだろう。
「殺さないでくれ。私はこいつのために生きているんだ」と頼むと彼らは殺さなかった。

それから数日は地下倉庫で生活していた。
400人のロシア兵がこの街を通過していったが、生きて戻ってきたのは80人ほどだったらしい。
外に出ると道路には千切れた手や足、頭のない遺体が散らばっていた。
家の近くでも殺された4人の遺体を見つけたが、みんな近所の人だった。
その後、ウクライナ軍によってブチャは解放された。

戦争が始まってから私の生活は止まったままだ。
この家には家族がたくさん住んでいた。
学校が終わった孫たちが私のところにきて、私がヴァレニキ(郷土料理)を作って、一緒に食べることがよくあった。
家族みんなは海外に避難した。
娘や孫たちと電話で話しても満たされることはない。
私はアーシャとともにここで孤独にいる。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(アグニエシュカ・ホランド監督/2020年)
ソビエト連邦時代にウクライナで発生した大規模な飢饉で、数百万人が餓死したホロドモールを題材にした映画。ソビエト政府がウクライナ民族を対象とした意図的な政策として飢饉を引き起こしたとされている。

現地を訪れて取材した人間が、事実を伝えようとすることさえもままならない時代や背景があり、そこには個人の弱さや葛藤がつきまとう。作家ジョージ・オーウェルのファンの方にもおすすめです。

児玉浩宜(写真家)

写真家。兵庫県生まれ。

NHK報道映像カメラマンとして、ニュース番組やドキュメンタリーを制作。
のちにフリーランスの写真家として活動しながら、東京・高円寺にある小さなフィルムカメラ店を営む。
香港民主化デモを撮影した写真集『NEW CITY』『BLOCK CITY』を制作。
2022年からロシアのウクライナ侵攻の取材を続け、雑誌やWebメディアへの写真提供、執筆など行う。
手記『ウクライナ日記1』『ウクライナ日記2』写真集『Notes in Ukraine』(イースト・プレス)を制作。

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沖縄・伊江島で「ヌチドゥタカラの家」館長の謝花悦子さんから聞いた話

齋藤レイさん(抵抗する美術学生のためのネットワーク 呼びかけ人)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

今年の5月に訪れた沖縄・伊江島で、とても大事なお話を伺いました。話してくださったのは、ヌチドゥタカラの家・館長の謝花悦子さんです。謝花さんは幼少期の1944年に本島・今帰仁村に疎開、1945年に伊江島の戦闘でお父様が戦死され、1947年に帰島、戦後は伊江島で土地返還闘争の先頭に立って活動した阿波根昌鴻を秘書として支え続けた方です。
お話を伺った直後に覚えている範囲で要約した内容を以下に記します。

「私はあと1年も生きられたら良いくらいの命なので焦っています。戦争を経験し今も伊江島に残っている者の中で記憶を語り継いでいるのは私だけです。怒りはますます増しています。日本はアメリカのことを知ろうともせずに攻撃した。私が許せないのは、内地(沖縄からみた本州)で決めた戦争なら内地の中心でやるのが筋であるのに、この小さな伊江島を足の踏み場もないほど死体が転がった戦場にしたことだ。阿波根が農民学校を作るために所有していた土地は米軍に奪われ、そこに核模擬爆弾の演習地が作られ、いまだにそこにある。このことを知っている人は少ない。戦争は自然災害と違って人災なのだから止められるはずだ。命に勝るものはない。政治家は国民の命を守ることが仕事のはずだ。今の日本は国や政治家の金ではなく、国民から集めた税金で軍拡を進めている。国民からむしり取った金を軍備に使うようなことは、あなた達の世代で終わらせてください」

謝花さんの怒りの滲んだ語りに圧倒されながら、内地、それも国の権力が集中する東京からやってきた身として、なにか大事な種を受け取るように聞きました。国内で唯一の地上戦の舞台となった沖縄に今も押し付けられている基地負担、敗戦から79年が経っても戦争は形を変えて続いていることについて、沖縄以外の土地で暮らし、戦争を経験していない立場からも、自身の当事者性と接続する点を見出して語っていく必要があるのだと思います。

だれかから聞いたことのある戦争のはなし。24人の声

ヌチドゥタカラの家 外観

だれかから聞いたことのある戦争のはなし。24人の声

ヌチドゥタカラの家 展示物の一部

だれかから聞いたことのある戦争のはなし。24人の声

ヌチドゥタカラの家 内観(いずれも筆者撮影)

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。』(著:具志堅隆松、発行:合同出版/2012年)
こちらも沖縄について。沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんの著書『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。』は、私たちが生きる今この時代も、過去の戦争の地続きにあるのだということを強く感じさせる一冊です。沖縄に残る戦没者の遺骨と遺留品、戦闘に使われた武器の破片を長年にわたり観察してきた具志堅さんの語りによって、島民の4分の1が犠牲となった沖縄戦の加害者にはアメリカ軍だけでなく日本軍も含まれていたことが明らかにされます。

『骨を掘る男』(奥間勝也監督/2024年)
今年公開されたドキュメンタリー映画『骨を掘る男』では、具志堅さんによるガマ内部での遺骨収集の様子と、本島南部の遺骨土砂が辺野古新基地の埋め立てに使われようとしていること、その計画に対する抗議の様子も映されています。
基地建設が本格化した今、より一層多くの方に触れていただきたい作品です。

齋藤レイ

1998年生まれ。多摩美術大学芸術学科卒業。大学ではアメリカ西海岸のカウンターカルチャーを中心に研究。2023年秋から東京でパレスチナ解放運動に関わり、2024年1月にNetwork for Art Students in Resistance / 抵抗する美術学生のためのネットワークを発足。抗議活動に参加しながら、布パッチやグラフィックの制作などを行なっている。
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抵抗する美術学生のためのネットワーク
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広島にいた友人が言った言葉、戦時中に殺された在日朝鮮人の話

saki・soheeさん(『Decolonize Futures』『over and over magazine』)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

「みんなの黙祷がどんどん適当になっていくのに、一人、悲しさと怒りを覚えた」と、広島にいた友人が言った。その「みんな」のなかに、いつかの私もいただろう。ナイーブさに潜り込んだ、帝国主義が取るポーズ。こうして自己と国家の輪郭を曖昧にし、戦争の恐ろしさは今日も続いている。歴史的側面を捨象された私たちは、自己への眼差しがぼやけ、その恐ろしさが分からない。

戦時中に殺された在日は、殺された女たちは、私とよく似た人間だった。彼人らの特徴が私と重なるのに気づくまで時間がかかった。彼人らの戦争のはなしを、私はどこで聞けるのだろうか。彼人らの目の前に繰り広げられた現実を想像するための言葉は、今日、どこにあるのだろうか。ないならばここは、平和でも自由でも、何でもない。

史実、そしてその中に生きた人間の記録が、私たちには必要だ。それは、私たちの生の眼差しを取り戻すことでもある。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

ドラマ『Pachinko パチンコ』

saki・sohee(『Decolonize Futures』『over and over magazine』)

兵庫育ち、済州島の血が流れる在日コリアン。日本からアオテアロア・ニュージーランド、そして現在居住する台湾と、拠点を変えながら渡鳥のような生活を過ごす。ディアスポラの生と人権、インターセクショナリティや多言語空間に焦点を置く。

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ルーマニアの宿で食卓を共にしたウクライナの人から聞いた話

スクリプカリウ落合安奈さん

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

2024年1月、私はもう一つの母国ルーマニアでの、約1年に渡る伝統の研究を終えて日本に戻ってきた。帰国後は、生まれ育った国での生活に大きな安心感を覚えた。しかし、日本に帰ってきて一番良かったと正直に感じたのは、ルーマニアの隣国ウクライナでの戦禍が「ふとした瞬間に自分の身に降りかかってくるかもしれない」と、もう毎日怯えなくてもいいという事だった。

戦争のことを考える時、空間的にも時間的にも「距離」というのは不思議な力を持つ。ルーマニアへ向かう前の2022年、ウクライナからある程度安全な距離のある日本の中に漂う空気感と、もう一つの母国が戦地になるかもしれない可能性、そして自分がこれから戦争の終わりの見えないウクライナの隣で1年間研究生活を送らなければならないという状況に大きな温度差を感じていた。

2023年の初夏、ルーマニア北部の村の宿のオーナーと仲良くなり、1週間家族のような時間を過ごした。その宿をリフォームするために、この付近の町と、車で1時間もかからないウクライナの町から、彼の友人の2人のウクライナの人が手伝いに来ていた。

ある夜、家庭料理を食べながら、彼らと食卓を囲む機会があった。戦争のことはなかなか口にできるような空気ではなかったが、自然とそのような話題に一瞬なった。隣の男性がスマートフォンで一部が赤く塗られた地図を見せながら、戦況が今どうなっているかを少ない言葉で語った。

幼少期から、日本の祖父母に戦争の話を聞く機会が少なくはなかった。また、トルコではシリア内戦から逃れてきた人、シンガポールでは第二次世界大戦下の日本軍の占領時代の話を現地の方と交わす瞬間があった。それらは、教科書で学んできたこととは異なる「戦争」を私に見せた。

同時代に戦禍の中にいる人から聞いた話はとても短いが、言葉以上に、肩に温度を感じるくらいの距離で食卓を囲んだあの夜の時間は、私の中に強く残り続けている。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

日常と地続きにある戦争を描いた映画
『この世界の片隅に』(片渕須直監督/2016年)
『ライフ・イズ・ビューティフル』(ロベルト・ベニーニ監督/1997年)
『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督/2024年)

スクリプカリウ落合安奈

美術家。1992年埼玉県生まれ。2016年東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業(首席・学部総代)。2022~2024年公益財団法人ポーラ美術振興財団令和4年度在外研修(ルーマニア)。主な展覧会に、埼玉県立近代美術館コレクション展「MOMASノ海」(埼玉県立近代美術館、2023年)、「Art Collaboration Kyoto Special Programs “Ladder Project”」(国立京都国際会館、2023年)、「TERRADA ART AWARD 2021 ファイナリスト展」(鷲田めるろ賞受賞、寺田倉庫/東京、2021年)、個展「Blessing beyond the borders−越境する祝福−」(埼玉県立近代美術館、2020年)「Y.A.C. RESULTS 2020」(ルーマニア国立現代美術館、2020年)など。

9月13日~「北アルプス国際芸術祭2024」/長野県大町市 、9月14日~「新・今日の作家展2024」/横浜市民ギャラリー、2025年3月「VOCA展2025」/上野の森美術館にて展示予定。

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©Kotetsu Nakazato

東京に住んでいる1920年代・1930年代生まれの人から聞いた話

生物群さん(医師)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

2024年の東京で、1930年代生まれの人と家族について話していて「母と弟は昔3月10日に亡くなりました」とその人が言った。これだけで、この人が墨田区周辺で生まれ育って10代で東京大空襲に被災し、遺族となったことが推しはかれる。1945年3月10日の夜間空襲だけで死者が9.5万人出ている、彼の家族はその中の2人だとわかる。

病院で働いていて人生の/命の終わりを診ていると、1920年~1930年代生まれの患者さんは8月になると戦争の話をふとしたときに始めるタイミングがある。それはもちろん、全員ではない。しかし、今まで誰にも言わなかったことを亡くなる前だからこそひもといていく人は多い。そのとき、終末期を伴走する私は何気ないふうを装いながら心のなかでは齧りつくようにしてその話を聞く。なるべく空気のように聞くのがいい。

数年前までは1920年代(2024年の今年で95~104歳 終戦のときに16~25歳)の人によく話を聞いていた。1920年代生まれの人たちは10代後半から20代前半のうつくしい青春の時期を暗い戦争の影が覆っていて、その悲しみの話をしていた。その世代の人たちは順番にこの世から去っていって、今では1930年代(今年で85歳~94歳 終戦のときに6歳~15歳)の人たちに話を聞くことの方が多い。

今東京に住んでいる1930年代生まれの人たちは、幼い時代の疎開と空襲の思い出を話す。集団疎開で親や自分の家から離れて暮らす途方もなく寂しい毎日。一夜にして一緒に暮らしてきた家族が空から降る焼夷弾に殺されてしまった翌朝からの毎日。そのあと79年を生きて、あと少しで自身の今生の別れが来ようとしている。生きることから離れることの寂しさは、彼らが小さな子供だったときの強く揺さぶられた感情を蘇らせ、語らせる。

「死んでしまうことは寂しい。でもやっと母と弟に会える。」と話す人の話を、私はただ聞いている。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『沖縄03 SKY』(写真・編集:岡本尚文/2024年)
『沖縄島建築』『沖縄島料理』で知られる岡本尚文さんの2024年7月発行の写真集『沖縄03 SKY』。これは決して戦争についての写真 集ではありません。沖縄の空を飛ぶ航空機たちを撮った写真集です。市井の人たちが暮らす場所から見上げる美しく抜けた青空。だけど旅客機、ドクターヘリ、自衛隊機にまじって、さまざまな米軍機が飛ぶ空。この美しい写真集を見たあとには語るべき言葉が出てこない。

現時点ではAmazonでの流通はありません。岡本さんの公式サイトのWebshopで買うことができます。

生物群

インターネットユーザーです。最近noteを毎日書き始めました。

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東京で風船爆弾をつくった祖母の話、母から聞いた海軍にいた祖父の話

竹中万季(me and you)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

小学生の頃、「おじいちゃんやおばあちゃんに戦争体験を聞いてみよう」という宿題があって、二人の祖母に話を聞いた。戦時中、東京で女学生をしていた母方の祖母からは、家の窓を目張りし空襲警報が鳴ると防空壕に逃げ込み、疎開したという話を聞いた。茨城にいた父方の祖母からは、当時の食事がいかに貧しかったかという話を聞いた。話を聞いたときのメモは残っていなかった。二人の祖母が亡くなった今、聞きたかったこと、書き留めておきたかったことがたくさんある。

昨年夏頃から、祖母が戦争についてどんな話をしていたのか、母に尋ねている。『女の子たち 風船爆弾をつくる』の音楽朗読劇を観たことがきっかけだ。そこでは風船爆弾という秘密兵器をつくらされていた女学生の姿が描かれていて、山の手言葉で「ごきげんよう」と挨拶するのを耳にした。そのとき、亡くなる直前の朧げな状態で「ごきげんよう」と女学生のように言っていた病室の祖母を思い出した。劇を観た後に母から、祖母も女学生時代に風船爆弾をつくっていたことを教えてもらった。秘密兵器で口外をしてはいけないと当時言われていたことから、積極的に話す感じではなかったけれど、母には「蒟蒻でつくっていたのよ」と溢していたという。

青春を戦争時代に費やすことになった祖母は、亡くなるまであるノートを枕元に大切に置いていた。そこには女学生時代の友人たちからの寄せ書き、ピアノが好きだった祖母のお気に入りの曲が書かれていた。とても印象的だった寄せ書きの一文がある。美しい筆致の崩字で、今の私には読み取れないところが多々あったので、一部抜粋しながら。

「学校工場になってから殆どお会いできないままで今迄毎日すごして来てしまいました 本当につまりません/せっかくの女学校生活 最後の学年まで一緒の所で働くなんて…/そして卒業後 一緒の所へおつとめ出来るかと思って 貴方も疎開で一緒になれず 本当にいつもいつも離れてしまふのネ/でも心はいつもいつも通じているワネ/貴女の上手なピアノ疎開で聞けなくなるなんて本当淋しい」

私が生まれる前に祖父は二人とも亡くなっていて、会ったことがない。母方の祖父、祖母の夫は、大学時代に学徒出陣で海軍として出兵した(父方の祖父も同じく海軍だった)。祖父は洋画や写真が趣味で、英語が大好きで“アメリカかぶれ”だったという。戦後は米軍の基地で働き、その後、祖母と出会った後は石油関連の仕事でクウェートに単身赴任していた。毎年、終戦記念日に戦争の話で盛り上がっていた祖父は、終戦記念日の次の朝に心筋梗塞で若くして亡くなった。その日はいつになく饒舌だったという。日本軍として出兵し、それまで敵として戦っていたはずの米軍と働き、中東のクウェートで暮らした祖父に、戦争のことを聞いてみたかった。その日、どんな話をしていたのだろうか。どんな心の動きがあったのだろうか。会って、話してみたかった。写真を見ながら、いつも話しかけている。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『女の子たち 風船爆弾をつくる』(著:小林エリカ、発行:講談社/2024年)
音楽朗読劇を観たあと、小林エリカさんが私と母に祖母について聞き取りをしてくださりました。風船爆弾をつくっていた数多くの女学生のうちの一人の「わたし」として、祖母の姿が物語の中にいるようでした。me and youでも近々記事を掲載予定です。

『戦禍の記憶 娘たちが書いた母の「歴史」』(著:今川仁視、発行:大学教育出版/1995年)
高円寺の書店ヤンヤンさんで購入した本。教師だった筆者が学生に対して続けていた「母の歴史を書く」という夏休みの課題をまとめたもの。この記事同様に、さまざまな地域で戦争の中を生きていた人たちの姿がそれぞれの言葉で綴られています。どの方も「戦争なんて二度と起こしてはいけない」という切実な思いだけは共通していました。また、同じ戦争であっても、暮らす場所や裕福さなどによって大きな格差があり、それが平等であるはずの人間の生死を分けてしまっていたことについても考えました。

竹中万季(me and you)

1988年、東京都世田谷区生まれ。野村由芽と共にShe isを立ち上げた後、2021年にme and youとして共に独立。主に編集や企画などを行う。共編著に『わたしとあなた 小さな光のための対話集』『me and youの日記文通』。生まれ育った三軒茶屋の街と歴史と記憶について書いた『わたしを覚えている街へ』をtwililightから刊行。

約百年前の女学生だった大伯母の日記、母の伝え聞くひょうきんだった大叔父が原爆で命を落とす前に綴った手紙が教えてくれた話

扉野良人さん(詩人、僧侶)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

昨秋、わたしは大伯母(母方の祖父の姉)が女学生のとき書いた6冊の日記を編纂し、『ためさるる日 井上正子日記1918 – 1922』(法蔵館)として刊行しました。それはまさにこの企画の趣旨に記された「それぞれ異なる場所で生まれ育った一人ひとりの記憶」が詰まったものでした。日記は、大正デモクラシーの時代に書かれ、世の中は一見平和に見えますが、しかしよく読むと日常の一幕に戦争の影が忍び寄ることにハッとさせられました。たとえば1918年8月10日夜、京都の町は米騒動で騒然とします。大伯母は、「柳原町の貧民が米が高くなったと云うて一き(一揆)を起した」(1918/8/24)と記しています。わたしは米騒動のことを「一揆」と呼ぶことなど面白く感じて、いろいろと調べてみると、その一因が〈シベリア出兵〉という対外進出を伴う軍事行動が引き金であったことを知りました。軍の動向を見越した地主と米商人の投機買い占めが米の値段を吊りあげ、その皺寄せが庶民の胃袋を直撃したのです。「(ロシア革命で成立した)ソヴィエト政府の打倒」の大義名分に始まったシベリア出兵は、じつに7年間(1918〜25年)にも及んだのですが、私たちの記憶からは欠落しているようです。シベリア出兵の最中に生じた〈尼港事件〉も、700余名の日本軍守備隊、居留民がパルチザンに殺害され、その一報は国民を震撼させ、戦争(近年は〈シベリア干渉戦争〉と呼ばれる)による惨劇の報道は加熱して世論は沸騰したと言います。日本における反ロ感情の一縷の芯に、ニコラエフスク(尼港)の悲劇で培われた反ソ世論が埋め込まれているのではないでしょうか。

母から原爆で亡くなった大叔父(母から見て)がいたと聞いたことがありました。曾祖母の弟でしたが、広島の爆心地から1キロも離れていない寺の住職で、1945年8月6日の原爆による爆風と熱線は本堂や庫裡を焼き払い、大叔父はその犠牲となりました。母によると大叔父はひょうきんな人柄だったそうで、その一端は大伯母の日記からも窺えました。

話で聞いていた大叔父の遺骨を寺の納骨堂で見つけたときは驚きました。驚くと同時に、親族が原爆の犠牲になった事実、煤けた遺骨がわたしをHIROSHIMAへ、爆心へと誘ってくれました。それは、大伯母の日記と同様、家の記憶を呼び覚ます発見だったのです。

曾祖父の葬儀(1945年4月24日)の案内や悔やみ状、会葬者の名刺などを入れた手文庫の中に同年4月26日付の大叔父の手紙(曾祖母宛)が含まれていました。大叔父が原爆で命を落とすわずか3ヶ月余り前の手紙です。そこに書かれることが、8月6日を境に喪われてしまった記憶の断片だろうと直観しました。

ここに掲載する大叔父の手紙は、現在解読中です。筆跡を眺めて、読める字を探して部分部分から翻刻をしています。明治生まれの大叔父の筆は、くずし字に慣れないわたしの目には、まだまだ読むのに時間がかかるようです。そうした地道な作業も含めて、「それぞれ異なる場所で生まれ育った一人ひとりの記憶」の発掘は、大伯母の日記編纂のときもそうでしたが、深い深い井戸を掘っていく作業だと思っています。

※(9/5追記)記事掲載後に、扉野さんが手紙を翻刻したそうで、その内容が扉野さんのブログに掲載されています。

だれかから聞いたことのある戦争のはなし。24人の声
だれかから聞いたことのある戦争のはなし。24人の声

桑門 幹「井上峰子」宛書簡(1945年4月26日朝擱筆)

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『ジョニーは戦場へ行った』(ダルトン・トランボ監督/1971年)
もう30年以上も前、映画友の会の席で淀川長治さんがこの映画を身振り手振りを交えて紹介してくれました。しかし、映画を振り返るとこの映画の主人公ジョニーは、戦場で目耳鼻口の感官を失い、両腕、両脚も切断された「意識を持つ生きた肉塊」として描かれていました。わたしが鮮明に覚えているのは、映画よりも淀川さんの身振り手振りの方で、ジョニーは身振り手振りを奪われた存在であることが淀川さんの話芸の凄みを際立たせています。

扉野良人(詩人、僧侶)

1971年(昭和46)京都市生まれ。德正寺 住職。アマチュア出版〈りいぶる・とふん〉を主催。本名の井上迅(いのうえじん)で『ためさるる日 井上正子日記1918 – 1922』(法蔵館、2023年)を編集、著書に『ボマルツォのどんぐり』(晶文社、2008年)。

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戦後シベリアに抑留された経験がある祖父の話

中橋健一さん(KEN NAKAHASHIオーナー)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

私の祖父は、戦後シベリアに抑留された経験がありました。その期間はとても長く、家族も祖父がもう帰ってくることはないかもしれないと諦めていたほどです。しかし、この経験について家族は今でもあまり触れたがりません。

私の幼少期の祖父の思い出は、家族経営の中華料理店で自家製麺の仕込みをしたり、盆栽や菊の世話をする日々を過ごしていたことです。特に、祖父が畑から虫を捕まえて虫籠に入れて持ってきてくれたことは、今でも鮮明に覚えています。祖父の戦争体験は彼の内面に深い影響を与えたに違いありませんが、日常生活ではその影響を感じさせないように過ごしていたように思います。

中橋健一

KEN NAKAHASHIオーナー。石川県出身、1982年生まれ。青山学院大学文学部フランス文学科卒業。金融機関勤務を経て、2014年3月にギャラリストとして東京・新宿に「matchbaco(マッチバコ)」を開廊。16年、現在のKEN NAKAHASHIに改称。(撮影:任航)

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渡嘉敷島で「集団自決(強制集団死)」から生き残った祖母に聞いた話

西由良さん(コラムプロジェクト「あなたの沖縄」主宰)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

沖縄生まれの私は、小さい頃から祖母の戦争体験を聞いて育ちました。
祖母の生まれは、那覇から船で1時間ほどの場所に位置する渡嘉敷島という小さな島。11歳の時に沖縄戦に巻き込まれ、その時に経験した「集団自決(強制集団死)」の話をよくしてくれていました。

79年前の3月27日の夜、米軍が渡嘉敷島へ上陸を開始。祖母は、母親や親戚と一緒に北山(ニシヤマ)へ移動しました。もう最後だからと一張羅の着物を着せてもらい、口には紅もさしてもらったそうです。
自決場に着くと、祖母たちは親族同士で集まり、お互いの足を紐で括りました。死んだあと離れ離れにならないように。夜が明けると、山の中に「天皇陛下万歳」と声が響き、あちこちで自決が始まります。祖母たちも、配られた手榴弾を地面に叩きつけますが、爆発しない。信管が抜けていなかったのです。おじいさんが手榴弾をコンコンと叩く中、祖母の横にいたおばさんが話しかけます。「玲ちゃん、あの世に行って元気に学校へ行くんだよ」。その言葉に祖母は猛烈に怒り「あの世に学校なんてあるか!」と叫びました。そう言って足の紐を解いて逃げ出す祖母を、大人たちは「ありあり、逃げよった」と慌てて追いかけ、結果家族が助かりました。
逃げる途中の光景も、よく話してくれました。頭がパックリ割れて死んだ親戚のおじさん。首を切られた友達。生き残った意味を確認するかのように、自分の体験を何度も何度も話してくれました。

多くの住民が犠牲になり、県民の4人に1人が亡くなったと言われる沖縄戦。戦後79年が経った今、戦前に生まれた人は人口の1割を切りました。当時のことを知る人がいなくなる日も近いと思います。私の祖母も、認知症で昔のことは話せなくなりました。戦争の記憶を聞くことはもうできないけれど、孫の私が受け取った言葉や記憶があります。次は私が、祖母の記憶を誰かに渡していきたいと思っています。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『沖縄戦を知る事典 非体験世代が語り継ぐ』(編:吉浜忍、林博史、吉川由紀、発行:吉川弘文館/2019年)
『続・沖縄戦を知る事典』(編:古賀徳子、吉川由紀、川満彰、発行:吉川弘文館/2024年)

『沖縄戦を知る辞典 非体験世代が語り継ぐ』は、沖縄戦のことを知りたいと思った方にまず読んで欲しい本です。沖縄戦の概要や各地でどのような戦争被害があったのか知ることができます。この本の続編である、市町村ごとの沖縄戦をまとめた『続・沖縄戦を知る辞典』もおすすめです。

『「集団自決」消せない傷跡』(写真:山城博明、解説:宮城晴美、発行:高文研/2012年)
戦争体験者の方がどんどんいなくなる今こそ読んで欲しい1冊です。集団自決を生き残った方々の身体に残る傷や建物に残された傷などが生々しく記録されています。

『ヒストリア』(著: 池上永一、発行:KADOKAWA/2020年)
『ヒストリア』という小説もおすすめです。詩のように表現された“沖縄戦”の描写がすごい。同じ言葉が何度も繰り返し出てくるのですが、これは主人公がフラッシュバックしているのか、夢を見ているのか。最後まで読んだらわかります。沖縄が置かれている現状に目を向けざるを得なくなるのではないでしょうか。ぜひ読んでください。

西由良

1994年生まれ。那覇市首里出身。大学進学を機に上京。大学卒業後、テレビディレクターを経て、現在は企業の広報を勤める。沖縄のことを安心して語れる場を創るため、2021年8月、Webサイトのnoteにコラムプロジェクト「あなたの沖縄」を開設。同世代のコラムを週に一本更新している。昨年は、リアルな場にも活動を広げるために、ZINEを刊行。こうした活動の様子は、地元新聞をはじめとした全国のメディアに取り上げられ、県内外で注目されている。

note │ あなたの沖縄

大阪の練兵場で、扇を手に舞った祖母から聞いた話

野村由芽(me and you)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

“日本軍の真珠湾攻撃で日本中が沸き立ったとき、私は六歳だった。翌年四月、国民学校と改名された小学校一年生になった。毎朝、校長が恭しく「教育勅語」を読み上げるのを畏って聞いた。

一年生の冬、大阪府のトラックに乗って練兵場へ「兵隊さん」たちの慰問に行った。四歳から日本舞踊を習っていた。慰問隊は舞踊の師が府からの依頼で結成し、幼い私もその一員に加えられたのである。

練兵場は、戦場へ出る前の「兵隊さん」を訓練する所である。見渡す限り、カーキ色軍服一色の光景は今も目に浮かぶ。風の強い日であった。舞台に置いた私の扇が風に吹き飛ばされて、ひらひらと飛んでいった。扇の行方を追って、兵隊さんたちが「ウオーッ」と、どよめいた。舞台の上の豆粒のような私の姿が見えたのだろうか。

二十歳になったばかりの若者や若い父親たちだった。後に、彼らの多くが戦場で命を失い「英霊」となって帰ってきた。その度に練兵場で見た若々しい姿と、風に飛ばされていく扇にどよめいた彼らの声を思い出した。”

これは、1935年生まれの祖母が、自身が経験した戦争を綴った手記の一部である。大阪市東区(現・中央区)に生まれ、幼少期からは天王寺で育った祖母は、父、母、姉1人、兄3人、弟1人、庭で放し飼いにした犬と暮らしていた。父は俳句を愛した野球少年。妻との恋に熱くなった胸を、アイスクリームで冷やしたことがある。そう、残された日記に書かれていたから知っている。当時の大阪で盛んだった木綿産業の商人として働く父がこだわり抜いて建てた天王寺の一軒家は、祖母の扇の舞から約3年後、1945年の大阪大空襲で全焼した。

大阪大空襲の少し前、1944年から祖母は奈良の吉野町本善寺に学童疎開していた。疎開中、祖母を含む子どもたちはいつもお腹を空かせていた。主食は南瓜や、さつまいも。白いご飯の記憶はない。「おなかがすいた」と言って食べ物が差しだされることはなく、空きっ腹に「非国民」という言葉が返ってきた。ある日、祖母は空腹のあまり、母がもたせてくれた胃腸薬の「ビオフェルミン」の特大の瓶の蓋を開け、一粒とりだし、口に入れてみた。おいしかった。友人にもわけた。みんなでおやつ代わりに食べた。特大の瓶の中身は、あっというまになくなった。

「口に入れてみたらね、甘くておいしかったのよう」と、2024年の今となっては電話ごしに明るい声を届けてくれる祖母。けれどこの話が、胸の奥底から言葉として出てくるまでに、相当の時が流れた。親やきょうだい、同年代の友人とは、それぞれが経験した戦争について、戦後に話すことはそう多くなかったという。経験を共有しない年下の友人に話したとき、「今ごろ戦争の話?」という反応を受けて、ハッとして口をつぐんだこともある。

「もっと苦しく、大変な経験をした人もたくさんいる」。話を聞かせてもらうあいだじゅう、祖母は何度も断りを入れる。「それに比べれば、おばあちゃんの経験はささやかなものだと思う。それでも、自分の見たもの、聞いたもの、感じたこと、考えたことを伝えていこうと思っている」。その想いが、祖母を、自分のために書くことに向かわせた。そしてこうも言う。「こうやって聞いてくれる人がいると、話してもいいんだなと思える」。ささやかな話を聞き継ぐことが、それぞれの営みを消さないことであると思う。祖母は今でも、扇を持つ自分を見つめる、兵隊たちの夢を見るという。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『戦争とおはぎとグリンピース』(発行:西日本新聞社/2016年)
戦後まもない昭和30年代の西日本新聞の女性投稿欄「紅皿」に掲載された文章のうち、42編を収録。「おはぎ」「タマゴのじいさん」「竹やりの先の出刃包丁」「派出婦日記」「じゃがいも物語」など、生活の手触りの匂い立つようなタイトルが並ぶ。苦しいなかでも現実に立ち向かう人間の底力をただ礼賛するのではなく、「あたりまえの」「ありふれた」生活を遠ざけるような状況に突入しないために、生活のなかから抵抗したいと思う一冊。

野村由芽

1986年生まれ。編集者、文章を書く。2017年、CINRA在籍時にShe isを竹中と立ち上げ編集長を務めた後、2021年にme and youとして共に独立。共編著に『わたしとあなた 小さな光のための対話集』『me and youの日記文通』。YUKI FUJISAWA制作日記のWeb連載を執筆。祖母と編み物が好き。日常にある詩的な瞬間を探究している。

一家で満州に暮らし、命からがら引き揚げてきた父に聞いた話

平野暁人さん(翻訳家/通訳者/ドラマトゥルク)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

父は母のことを「あなた」と呼ぶ。
母も父を「あなた」と呼ぶので、両親が互いを「あなた」と呼び合う家で育った。2人称が “you” 一択の英語話者ならいざしらず、日本語を第一言語とする1940年代生まれ同士の夫婦としてはおそらくけっこうなレアケースだということには、「家庭≒世界」だった子どもの頃はすこしも思い至らなかった。

レアといえば、我が家の行動原理は母だった。

休暇にどこへ行くとか、どこに引っ越すとか、どんな家を建てるとか、たいていのイベントは母の欲望を追認する形で遂行された。父の転勤先へ一緒に移り住むようなこともあったが、目黒で育ち銀座を愛する母は遠方での暮らしに耐えかね、父に単身赴任させる形で子どもを連れて東京へ帰ってしまった。そのときも父は「お母さんにはお母さんの人生があるから当然だと思った」という。

女、男、女、男、男の5人きょうだいの末子として生まれた父は、一家で満洲に暮らしていた時期もあり、命からがら引き揚げてきて後はそれなりの貧苦に喘ぎ、長女は夜間高校に通いながら働いて家計を支えた。長男は全日制の高校に通わせてもらえて大学まで進学したが、次女も夜学、しかし次男、そして三男(父)はともに全日制から大学へ。男子に集中的にリソースを割いて教育を受けさせるのは終戦直後の貧しい日本社会ではごく一般的な生存戦略であったろう。男達もそれぞれ必死に勉学し、身を削って働いたに違いない。それでも、同じ家に、それぞれ唯一無二の存在として生を享けながら、女子の選択肢は初めから削ぎ落とされ、未来への道は尽く隘路へと続いていた。そんな家庭が、人生が、日本中にどれだけあったのだろう。否、あるのだろう。

個人的なことは政治的なこと。

母の選択と挑戦を応援する父はずっと、家庭からの革命を続けているのかもしれない。幼き日には甘んじた社会の構造を相手に。決して遅すぎることのない、しずかな革命を。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『東京の戦争』(著:吉村昭、発行:筑摩書房/2005年)
戦争というと原子爆弾や東京大空襲など極限状況がクローズアップされがちですが、本書では戦時下の東京にどんな日常がありどう喪われていったのかがひとりの少年の視点から活写されており、戦争という現象そのものに対する想像力が高まります。

special thaks:和田彩花さんが、友人の平野暁人さんから戦争の話を聞いていたことがきっかけで、今回の企画にご紹介いただきました。

平野暁人
翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛けるほか、舞台芸術専門の通訳者やドラマトゥルクとしても活動。加えて近年はパフォーマーとして国内外の舞台に出演しつつある。主な訳書に『純粋な人間たち』(英治出版)、『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。

「福島原発20キロ圏内ツアー」でイスラエルで生まれ育ったダニー・ネフセタイさんから聞いた話

モリテツヤさん(汽水空港)

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

今年の5月、「原発とめよう秩父人」という団体が開催している「福島原発20キロ圏内ツアー」に参加した。団体に所属し、案内人もしているダニー・ネフセタイさんはイスラエル生まれで、イスラエル空軍で兵役を務めた後、日本で家具職人をしながら「人権」をテーマに社会活動をしている。「パレスチナへの虐殺をやめるべきだ」とフェイスブックに投稿すると、イスラエルに暮らす家族や親族からは非難を浴びると語っていた。自分の愛する人々が、虐殺をやむなく肯定しているということ。その葛藤を思った。

ダニーさん夫婦のお孫さんは、イスラエルで生まれた。まだ生まれて間もないらしい。イスラエルで生まれた人間には兵役義務がある。その先には戦争への参加が待ち構えている。そのことをダニーさんのパートナー、かほるさんは泣きながら語っていた。孫が戦争に参加するかもしれない。それを聞くツアー参加者も泣いていた。

「今イスラエルがやっていることはもちろんダメだ。でも、これと同じぐらい最悪なことを80年前の日本人はやってきた」と気付き、それを止めることの重要さをダニーさんは語った。

福島原発周辺は未だ帰還困難区域が多く、その区域内で牛飼いをしていた鵜沼さんは帰れないままだ。多くの牛が死んだそうだ。僕は、全てのエリアを除染するなんてことは出来そうもないと感じた。そして事故は今も収束せず、今後も原発は稼働し、ウラン採掘員、原発作業員を被爆させ続ける。それを良しとする社会の中で今生きている。電気のためなら、経済のためなら、国のためなら、「私」の命はどうでもいいのか。土地はどうでもいいのか。鵜沼さんは自身の被災経験から、能登半島へボランティアへ行ったらしい。地震から何ヶ月も経って、何も片付いていない町を見たそうだ。
復興するのには「経済的価値」が必要らしい。

さまざまな「戦争」のカタチがある。僕はその最中に今生きている。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『イスラエル軍元兵士が語る非戦論』(著:ダニー・ネフセタイ、構成:永尾俊彦/2023年)
イスラエルで生まれ育ち、どのような情報や価値観が身の回りを覆っていたのかを語り、そのうえで「非戦」を望む。文中に出てくるダニー・ネフセタイさんの著書です。

モリテツヤ

汽水空港乗務員。田畑をしつつ、時々建築したり、文章書いたりしながらどうにか生きている人間。

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長崎で被ばくした祖母から聞いた話、ベルリンで友人と話した長崎・台湾・パレスチナの話

lisaさん

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

毎年登校日の8月9日、暑い体育館に蝉の声が響く中、全校生徒で集まり被ばく者の方の話を聴きました。11:02 黙祷の1分間、私の頭の中は熱風と炎とでいっぱいになって、目を開けると今いる周りの世界も全て焼き尽くされたような感覚になった記憶があります。

私の祖母は長崎で被ばくしました。

当時16歳。長崎市内のトンネル兵器工場で、一人一台任されていた大きな機械で飛行機の部品を作っていました。

祖母が話してくれた、原爆投下後に工場を出て見た光景、家に逃げ帰る道。「みんなで怪我した人たちば列車に乗せよったとさ。病院に運ぶために。私もそれば手伝ったけど、皮膚のこうー、はがれてしまって。乗せきれんやった」火が燃え盛る中を走って走って通った浦上川で祖母が見た夥しい数の苦しむ人々。「ここを通りたくないと思うときがあるねぇ」と昔祖母が小さく呟いていたのを今でも思い出します。

工場の外で作業をしていた朝鮮人労働者の方々がどうなったのか全く分からない。工場に昼食を運ぶ係だったクリスチャンの友人は、ちょうど外にいたのか影も形もなく見つけることができなかった。兵士として戦地にいた兄は、いつも顔を打たれ、帰ってきたときには顔がぱんぱんに腫れていた。祖母が何度も私に伝えてくれることは、祖母の心の奥底だけにある、私には分かり得ない感情からくるものだと感じます。

今年の8月9日、私がいるベルリンは涼しく、蝉の声も、もちろん11:02の鐘もありませんでした。長崎市が平和祈念式典にイスラエルを招待しないことを理由にドイツを含む欧米諸国が出席をキャンセルする中、今日が何の日なのか知らない人だらけのベルリンで私はどうすれば良いか分からず、寮の友人たちと長崎・浦上の話をして、台湾から来ている友人に台湾の話を聴き、そしてパレスチナの話をしました。Never againを言い続けなければと強く強く思った日でした。

lisa

長崎市出身。助産師。現在はベルリンで生活してみている。
『Nagasaki for Palestine』メンバー。

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職業体験で行った先の老人ホームで聞いた話

rino.さん

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

中学生の夏休みに職業体験で行った先の老人ホームで、
「白いスカート、素敵ね。私らの時は、見つかるからって言って着れなかったから」
と入居者のおばあちゃんに言われたことがあった。

「おしゃれなんて何もできんかったよね。白い服を黒に染めたんだから。」
おばあちゃんたちは、ほかにも戦争の話を続けたあと、「年寄りは国の宝だよ」と言った。

私は、お年寄りを支えるために行ったはずの老人ホームで、戦争の話が突然はじまることを予想していなかった。歴史の教科書にある、誰でもない視点から記された「戦争」とは違う、その人の「戦争」だった。

2.戦争について考えるうえでおすすめの本・映画などがあれば教えてください。

『ヒトラーのための虐殺会議』(マッティ・ゲショネック監督/2022年)
数字やロジックや役所言葉で固められた90分に、人の声も心も感じることはない。私たちの日常で使う言葉や行動にも、それに類似するものはないだろうか。

『シャトーブリアンからの手紙』(フォルカー・シュレンドルフ監督/2014年)
「戦争反対」と言いながら、戦争が始まってしまったとき、
戦争を止められなかった先に、個人であり続けることはどういうことなのか、考えさせられた。

rino.

立教大学社会学部卒業後、現在桑沢デザイン研究所専攻デザイン科にてグラフィックデザインを学ぶ。政治や社会に関することと、あと一歩動きたい人の媒介者となれるような作り手を目指しています。

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👂 公募で集まった、誰かから聞いたことのある戦争のはなし 💭

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樺太で玉音放送を聞き終戦を知ったという祖父から聞いた話

shizukuさん

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

私の祖父は、樺太で玉音放送を聞き終戦を知りました。北海道への引き揚げ船に乗り遅れないよう、片手に荷物、片手に妹の手を繋いで港へ向かうと、船と港の間には片足の幅ほどの細くて薄い木の板しか掛けられていなかったようです。祖父は荷物を諦めて海に捨て、妹と船に乗りました。船に乗っている途中、妹は栄養失調で亡くなりました。あとで、祖父が乗っていた船以外は、国籍不明の潜水艦の攻撃を受け沈没したそうです。船の中は、大半が、女性と子供だったそうです。

広島空爆後、一週間ほど救援活動を行った祖父から聞いた話

阿部愛美さん

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

第二次世界大戦にて、1945年8月6日の広島空爆後、一週間ほど救援活動を行った記録。もともとこの冊子は、「好きなものについて掘り下げてみる」というお題で祖父について書いたものです。祖母やわたしから見た彼も交えつつ、P.5〜6に祖父が自身でまとめた戦争の体験談を載せています。

ハンチング帽に杖。「マナちゃん、散歩に行くかい?」たれ眉で静かに笑う老人…それが私にとっての祖父だ。埼玉の郊外にある実家は二世帯住宅で、共働きの両親に代わってよく散歩に連れられていた。160センチ位の小柄で痩せぎすな祖父も、幼稚園児にとっては大きく頼もしい存在だった。
祖父は私が中学3年の冬に癌で亡くなった。享年82歳。
それから5年後の二十歳の成人式の日に、直筆の手紙とともに、「この道」という祖父の自叙伝を母から受け取った。

柔和な祖父からは想像もつかない体験は、彼の人生に深く関わり、蝕みました(祖父は戦争によって大学進学を諦め、被爆後遺症の癌で亡くなりました)。
2年以上続くウクライナ戦争、ガザ地区のパレスチナ問題など……人が人として生きていくうえで、戦争を肯定できる側面があるとは到底思えません。無力感の続く日々ですが、今ここで、ひとりができることを考えていきたい日々です。

サンフランシスコで生まれ、ユタ州の日系人強制収容所へ入れられた祖父から聞いた話

関かおるさん

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

私の祖父は、1934年にサンフランシスコで生まれた。日系アメリカ人の母と、商社に勤める日本人の父を持つ。真珠湾攻撃の夜に、祖父の父は逮捕され、日本に送り返された。日本人は、敵性市民と見なされたからだった。そのとき祖父は7歳だった。
サンフランシスコに残された祖父と、0歳だった祖父の弟、そして母親の3人は、ユタ州の日系人強制収容所へ入れられる。砂漠のまんなかの収容所は、有刺鉄線に囲まれて、逃走できないようにつねに見張られていた。祖父はフェンスの内側で、ときどき砂の中からインディアンの火打石や矢尻を見つけては、それらを眺めて楽しんだ。砂の中にはさそりもいたらしい。

ある日、有刺鉄線に近づいた日系人の男性が射殺された。幼すぎて、祖父はくわしいことを覚えていないという。生きていてよかったと感じるとき、砂漠のまんなかにいる祖父の姿が脳裏をよぎる。殺されたのが祖父だったら、私はこの世に存在しなかった。差別はいまもなくならない。祖父はフェンスの外に出られたけれど、いまだに閉じ込められている人々がいる。行きたいところへ行く、話したいことを話す、命をはぐくむ、そういう当たり前が奪われない世界を願い続ける。

関東大震災があった年に生まれ、終戦を22歳の頃迎えた祖母から聞いた話

なぜならばさん

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

祖母は関東大震災があった年の大正生まれで終戦を22の頃迎えたことになる。
子供の頃からいつだって戦争の話を聞かされた。わたしは平成6年生まれだけど「東條英機」や「真珠湾攻撃」や「支那事変」という言葉が常に家で並んでいたので、同級生がそれらの言葉を知らない方が不思議だった。祖母は戦争と共に大人になったんだと思う。登下校では軍歌を歌ったそうで(わたしも何曲か歌える)朝ドラの8/15のシーンになると真剣な眼差しをして、あの頃を思い出すからという理由でよくサツマイモとすいとんの味噌汁を作ったりしてそれが夕飯に並ぶことも普通だった。「艦載機がきた時にはこうやって身を屈める」と言って今まさに敵がいるかのように空を睨んでいた。わたしは「いつ死ぬか分からんのに怖くなかったん?」と聞いたけどはて? という顔をして、心地よい記憶のように懐かしむのだ。「日本は『本当は』強かったし、ここもここも日本のもんやったんや」とよく言った。毎年12月8日の真珠湾攻撃の日が来ると「今日は日本が勝った日や!」と嬉しそうに言うのだ。間違えている。かつて国が国民を「教育」したのだろう。間違わない世界の方をわたし達が選択し作るには。

満州国に渡り、敗戦をそこで迎えた曾祖母から聞いた話

morikawa reikaさん

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

1943年、帝国日本の勢力下にあった「満洲国」に渡った曾祖母は、敗戦をそこで迎えました。ソ連兵は毎日のように彼女の住む町に来ては、「女を出せ」と言ったと言います。彼女はそのロシア語を、92歳の今でもはっきりと覚えています。敗戦後しばらくすると、彼女の町に中国人の男性が「嫁」を探しに来て、16歳という若さで結婚、翌年出産。結局夫となった人はとてもやさしかったようですが、その「馴れ初め」からは、女はひとりでは生きていけなかった時代、それも異国の地で日本人として生きることの難しさというものを感じずにはおれません。1953年に、日本へ引揚げができる、ただし子供は連れて帰ることはできない、と言われ、帰国をあきらめました。その後、ようやく1980年代後半になって、夫がすでに亡くなっていたのもあって、子供を連れて日本へ帰国しました。
彼女の戦争に関する記憶は、激しい乱闘などの話ではないけれど、心の傷として負ったものは、戦争を生き抜いた人々それぞれに、あるのだと思います。

日本の植民地だった台湾で二人の祖母から聞いた話

ゆうしゃんさん

1.ご自身のご家族、知人・友人など、誰かから聞いて印象に残っている戦争の体験や戦争にまつわる記憶の話を教えてください。

日本の植民地だった台湾にもアメリカの空襲があった。

母方の祖母は1年だけ国民学校に通っていた。空襲が頻繁になると学校に行けなくなり、空襲警報が鳴るたびに防空壕に隠れる。幸い実家が北の海岸沿いで市内ではなかったため、直接の被害はなかったが、一家は危険を感じ45年夏に山奥にある親戚の家に避難し、電気のない牛舎でしばらく生活していた。市内在住の親戚が機銃掃射に遭い、頭のない状態で発見された話も聞かされたという。カタカナは勉強したが終戦までひらがなを勉強できず、今は日本語が全く話せない。

台北の空襲は知っていた。しかし、家族に体験した人がいることは一度も頭に浮かばなかった。戦争の記憶を語り継ぐことが台湾で今まであまり重視されてこなかったからかもしれない。それより、多くの人は植民地支配下の政治・社会・教育に関心を持っている。私自身も母方の祖母より、6歳上で日本語の喋れる父方の祖母の方に目が向いていた。

仕事で東京の空襲について聞く機会があり、祖母はそれに似たような体験をしていた。聞き取りでできるだけ共感したかったが、頭のどこかで「他国=他者の戦争を学ぶ」感覚になっていたかもしれないと、改めて気付かされる。

父方の祖母は、台湾の中部にある「員林」というところの出身、ネイティブ言語は台湾語。小4まで日本の教育を受け、日本語が話せる、教育勅語を覚えている、神社も参拝したと、色々教えてくれた。どこの神社だったの? と聞いて、連れて行ってもらったら、その敷地は中華民国の兵士を祀る「忠烈祠」に生まれ変わり、残されている鳥居に中華風の屋根が載せられていた。

祖母は戦後、国民政府による教育をほとんど受けなかったため、中国語(≒北京語)は片言程度しか話せない。戦後大陸の人が村にやってきた時のことをよく覚えていた。

「ひどかったよ、彼らは、ぞうりとか履いてたし。私たちは日本の教育を受けたので、ちゃんとした格好だったの。彼らは国語(中国語)を喋るが村の人たちにはそれがわからない。それで彼らはピーナッツ黒糖売りの村人の屋台をぶち壊した。村の人はすごく怒って、彼らのことを「外省豚(グァシンアディー)」と呼びはじめ、あいつらにものを売らないようにした。しかしその後その一人から話を聞くと、彼は元々兵隊というわけではなくて、(ジェスチャーで表しながら)美容師だったのに、国民党が台湾に逃げる途中で強制的に連れてこられたそうだ。台湾人も戦争の時たくさん南洋に連れて行かれたから、同じくかわいそうな人だなと思った。」

「おばあちゃんは日本がとても好きだよね」と、小さい頃から親はずっと言っていた。美空ひばりの歌を繰り返し再生し、日本製のニット帽や靴下を買ってあげると喜んでくれる。特に父方の祖母の話は前半だけ見ると、よく言われる「親日台湾人」のイメージにピッタリかもしれない。その立場の人は「やっぱり日本はいいことをしてあげたから日本が好きだった」と大喜びするだろうし、一方の人たちはおそらく「皇民化教育の洗脳がヤバかった」「近代化に対して無反省」と批判するだろう。もちろんいわゆる「犬去りて、豚来たる」という言葉に表されるように、日本もひどいことをしたが後から来た国民党はもっと酷かったから日本の方がまだましだ、という解釈もできるだろう。

しかし果たして父方の祖母は本当にいわゆる「親日」に当てはまるだろうか。後半の話はむしろ、話し合っていく中で「権力者の戦争のために一般住民が連行される」経験で共感と連帯ができたことを示していると、私は読み取った。政権の転換を経験させられた一般庶民にとって、支配者は誰であれ、戦争に巻き込まれて日常生活を失うことに変わりはない。

祖母は去年亡くなってしまった。話を聞いたのは7年前で、特にコロナもあって最後の数年間は台湾に帰る機会があったとしても中部まで会いに行けない時は少なくて残念だった。母は家族親戚の噂話を全部知っているのに、ついこの前この話をしてみたら、「いつ聞いたの」と驚いた。日本が単純に好きだったと思っていたようだ。すごく身勝手だが、父方の祖母のような経験を「親日」で片付けられないために私は今日本にいるのではと、たまには思っている。

special thaks:燈里さんが、友人のゆうしゃんさんに今回の企画を紹介したことがきっかけで、言葉を寄せていただきました。

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