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川上未映子さんに聞く。40代以降に訪れた心身の変化と、光がきれいな今日を思いだせること

今をなんとか懸命に、迷いながら生きていくだけ

身体も社会もあらゆるものが変わっていく真っ只中を生き、そしていつかこの世界を去っていくことが決まっている人生を生きるわたしたちは、何を拠り所に生き、どんなふうに年齢を重ねていけるとよいのでしょう。そのことについて、「生まれてくることの取り返しのつかなさ」や生死について考えてきた川上未映子さんに聞きたいと思いました。

2011年から2022年までの12年間の日々を書きとめた『深く、しっかり息をして 川上未映子エッセイ集』には、40代以降に訪れた心身の変化と、この10年の社会の変化がちりばめられています。さまざまなトピックを横断しながら触れられているのが、「今」というものの再現不可能性。20代、30代の頃とは変わってきたという文章の書き方や、自分を大切にするやり方についても聞きながら、生まれて死んでいくことのその過程を、観念と実践を行き来しながら文章にしてきた川上未映子さんに、今とこれからをどう生きるのか、聞きました。

時間の感じ方も、価値観も変わりました

―『深く、しっかり息をして 川上未映子エッセイ集』には12年の時間が流れていますよね。その日々の記録のなかには、個人的な変化と社会的な変化の両方が見てとれます。今日は未映子さんに「時間の流れ」について聞いてみたいなと思っています。

川上:はい、よろしくお願いします。

―未映子さんが年齢を重ねていく様子に、読み手が自分を重ね合わせながら読めるようなエッセイ集だとも感じました。年齢による心身の変化についてもよく触れられていましたね。改めてどんな変化が大きかったですか?

川上:やっぱり、出産が大きかったと思います。子どもが生まれる前のことは、もうあまり思いだせないくらいですね。時間の感じ方も、価値観も変わりました。けれど、それが親になったからなのか、加齢によるものなのかは、考えてみると、よくわかりませんね。あるいは、その両方なのかも。ひとりだったとき、若かったときよりも、心配と不安の種類の数が増えました。でも、それまで知らなかった喜びとかね、最高だよな、ってしみじみ感じられる瞬間とかね、そういうのも、増えました。

川上未映子さんに聞く。40代以降に訪れた心身の変化と、光がきれいな今日を思いだせること

『深く、しっかり息をして』(著者:川上未映子、発行:マガジンハウス/2023年)

―エッセイを読んでいると、年齢によって「できなくなること」や「終わりつつあるものを認識すること」を受け入れている様子が印象的でした。たとえば二日酔いするほどの飲み会を経験して、「もう無理なのだな」という限界のラインをひくといった身近な話から、イノセンスな心象との別れといった感覚的な話まで……。何かに小さく「さよなら」する話がたくさんありました。

川上:そうか、そんなに書いてたかな? でも、二日酔いがどうとか飲み会ができるとかできないとか言ってる時点で、ぜんぜん若いし余裕あるよ(笑)。もう、今のリアルは、老いに、病に、生き死に、終活ですよ。20代、30代の頃にもフィクションやエッセイで、それらのテーマについてよく書いていたような気がするけれど、振り返ってみれば、何もわかっていなかったと思います。もちろん、今もわかってないんですけど。 

年齢を重ねてきて何が変わってきたかというと、家族や友達が、病気になったり亡くなったりしていくことが日常で当たり前になってきたこと。死や病が、やっぱりどこか、とくべつな出来事であり、距離がある時期に書いていたことと、死や病が身近にある身体性を生きながら実感をもって書くことには、ぜんぜん違いがあると思います。そして今、私がこうやって考えていることも、この先に振り返ってみる機会があれば「こんな呑気なことを言ってたよ」って感じるんだろうと思います。

―私は今37歳で、未映子さんのちょうど10歳下なのですが、年齢を重ねていくことに対しては不安もあって。その不安は「死」や「さよなら」の方向に変化していくことへの恐怖からきているのかもしれず、未映子さんがむしろそれを「迎え入れようとしている」ような姿勢について聞きたいなと思いました。

川上:いやあ、「迎え入れる」なんて、まったくできなくて、おそらく、なで斬りにされていく感じが近いんじゃないかな。だけど、若い頃よりも、いろんな意味で距離が近くなってきたぶん、すべての変化は自然なんだな、と思えるようになるのかもしれない。「不幸が突然ふりかかってきた」と思えば、ショックだし狼狽するけれど、いろんなことが、当たり前に起きる年齢になってきたんだなと。それが生きてるってことだから、もう、どうしようもないもんね、という感じに。

わたしたちは、明日なにが起こるか永遠に知らないわけだけど、でも「明日死ぬかもしれない」という事実を考え続けられない程度には、人間は鈍くできているのだとも思うんですよね。明日の感情は明日にならないとわからないから次の自分に任せるしかないし、自分がいなくなったときのことも、後の人に任せるしかない。自分の死体は自分じゃどうしようもできないもんね。20代、30代の頃は、まだ「自分はこうありたい」とか「こういう仕事をしたい」とか、関心が前へ前へと向いていましたね。もちろん今も、仕事はしっかりやるけれど、あきらかにモチベーションの方向と質は変化しています。

「自分はこれをもう使いたくないな」という言葉をたくさん知った10年だった

―社会の変化で言うと、2015〜2016年ぐらいのエッセイから、ジェンダーの構造の歪みを始めとした社会の問題について明確な言葉で問題提起されている印象を受けました。たとえば「奥さん」「旦那さん」といった呼称への疑問や、「女子力」などの言葉の使い方の考察など。少し大きな質問になりますが、未映子さんはこの10年の社会の変化をどう見ていますか?

川上:以前、me and youに掲載されていた穂村弘さんのインタビュー(「世界や他者の「わからなさ」に言葉で向き合う穂村弘さん。夜中に水槽を運ぶ人へのシンパシー」)を読みました。穂村さんの創作の核心である「驚異(ワンダー)」と「共感(シンパシー)」が、今の時代にどう捉えられているのかを問う素晴らしい内容でしたね。

人間の身体が変わっていくように、社会も変わっていくものだと思っています。言葉の使い方ひとつとっても、私自身、変化がありました。考えもなく呑気に使ってしまっていた言葉がたくさんありました。たとえば、「ゲリラ豪雨」とか「美容院難民」という言葉は、今はもう使いたくないですね。「運がいい/悪い」も、あまり使いたくない。それは、それを使ったら社会的に問題があるからという順序でそう思うのではなくて、「自分はこれをもう使いたくないな」と思うんです。なにも考えてなかったんだな、って。そんな言葉をたくさん知った10年だったと思います。

―本当にそうですね。

川上:SNSなどで、人を傷つけないための言葉が共有されるようになったことも、とても大切だと思います。たとえそれが対処療法的なものであっても、使ってはいけない言葉が周知されるのは重要です。一方で、たとえば今年『黄色い家』という小説を出したのですが、一見なんでもないようなタイトルだと感じたとしても、その言葉で傷つく人も確実にいます。タイトルどころじゃなくて、これまで自分がフィクションを書くことで、どれだけ多くの人を傷つけてきたか、わかりません。どんな言葉にもそれぞれの記憶と意味が宿っていて、傷つける可能性をもっています。

作品が、読んでくれた人によって成立するものなのであれば、書き手は、自分がなにを書いたのかを知ることは、原理的にできませんよね。それは傷つけてもしょうがない、ということではありません。傷つけることを目的にしていないのというのは前提で、それでも、どんな優しい話を書いたって、それをつらいと思う人がいます。それは自分が生きていることじたいにも言えますね。このところ、そのことについて考えています。

川上未映子さんに聞く。40代以降に訪れた心身の変化と、光がきれいな今日を思いだせること

『黄色い家』(著者:川上未映子、発行:2023年/中央公論新社)

―言葉や物語が誰かを傷つけるかもしれないことと、傷つけるものであると自覚しながら書くということが、拮抗した状態にあるということでしょうか?

川上:もちろん、言葉によって救われたり、安心するということもありますよね。それがなんであれ「100%何かである」と決めつけることはできないと思う。たとえば、さまざまな理由で本を読むことが難しい人、情報を受け取る環境にない人もたくさんたくさんいるわけです。読んだり書いたりできることがそもそも特権です。私が書いているものも、書いているということじたいも、私にとってある種の僥倖であるとは思いますが、しかし100%素晴らしいことであるとは全然思えません。

―『夏物語』では、生まれてきた人間が生まれてくることの是非について問い、『黄色い家』では、善悪の割り切れなさが書かれていました。未映子さんの書くものには、今お話しされたような人間の割り切れなさや矛盾が書かれていますね。

川上:ほとんどの人がそうやって生きていて、どちらかだけという人はおそらくいないですよね。

―たしかに実際はそうなのに、人前では矛盾が許されないような気持ちになってしまうようなこともあって。

川上:社会においては、一貫性が大切な場面もたくさんあります。社会を動かしていくために正しさの建前をしっかりと言っていく、ということもすごく重要。でも、それと同時に、人間はそもそも、生きてるだけで、誰かを助けもするけど、押しやりもするでしょう。人間同士だけじゃなくて、ほかの生き物に対してもそう。存在することが罪とまでは言えなくても、生きていることには業がありますよね。この業ってものを、どうしたらいいのか。どうやって引き受けたらいいのか。あるいは、なにもしなくていいのか。考えています。

川上未映子さんに聞く。40代以降に訪れた心身の変化と、光がきれいな今日を思いだせること

『夏物語』(著者:川上未映子、発行:/2019年)

「今日はすごく光がきれいだな」とか「今日はあの人に会えたな」とか、そういうことの積み重ねだけが、何か大切なものに値するような気がする

―一人の人間に存在する多面性のようなものは、『深くしっかり、息をして』からも受け取れるものだと感じました。このなかには、未映子さんが仕事がほとんどなかった20代の頃に年上のプロデューサーに言い返せなかったり、お金がなかったりした時期のことも書かれています。

川上:小説家としてなんとか15年やっているけれど、毎回本を出せて、読者の方が読んでくださって、こうやってインタビューまでしてくださることは、本当に文字通り「有り難い」ことなんですよね。才能を「評価」するのは、自分じゃなくていつも他人。自分では最高だと思っても、社会のムードやタイミングもあるし、同時代にどんな人たちがどんな表現をしているのかにも影響も受けます。リアルタイムではなく、あとになってからその人の才能や、つくったものの真価がわかるというようなタイムラグだってあるし。難しいよね。

―誰もが自分の道をいくしかありませんが、今「言えなかった」「できなかった」という想いを抱えていたり、その状況にある人が、未映子さんも同じように感じたことがあると知ることで、励ましを受け取ることがきっとあると感じました。未映子さんがこれまでどう生き延びてきたのか、お聞きしたいです。

川上:どうやって生き延びてきたのか……(少し考える)……私にとって「生き延びた」という言葉は、この仕事する以前のことを思いださせますね。子どもの頃から、30歳になるくらいまでかな。人の情けに助けられたという気持ちがやっぱり大きいかな。

水商売をしていてお店に着ていく服がなかった頃、ママやお姉さんたちが「お買い物についてきて」と言うからついていったら、私の分も買ってくれたりだとか。私にとっての「生き延びた」はそっちかな。そういう思い出の1個1個が、忘れられないですね。モノというよりも、気持ちをわけてくれたという感覚なんですよね。これは「自分を助けてくれる友達をたくさんつくりましょう」ということではなくて、むしろ私は友達が少ないですし、っていうか、友達なんか、そんなたくさんできるわけないよ(笑)。今言ったことは、孤独でもできることなんです。

そして、自分が助かるために人を助けるという順番ではないのかもしれませんね。おいしいものを見つけたら、ひとりで食べずにみんなにわけるとか、自分が助けてもらったことを忘れないとか、そういうシンプルなことですね。「今どう?」とか「大丈夫?」とかそんな言葉ひとつでもいい。情けとか恩とか、すごく昭和っぽいけどね(苦笑)。でも、私は、いろんな場面や窮地で、本当にそうやって助けてもらってきたと思います。そのおかげで今があります。昔はそれを「運がよかった」なんて言っていたけど、そうじゃないですね。そんな漠然としたものじゃないですね。個別の方々の、その人生をとおして与えてもらった厚情だったと思います。

―それが軸にあるということですね。

川上:もちろん時代の流れもあるから「厚情」もハラスメントになってしまう可能性もありますし、上の世代になってきたときにどんなふうに振る舞うかは考えたいです。いろいろなことをちゃんと、注意深く見て聴いて、強い立場で歪な力を行使している人には異議を申し立てたいと思います。

注意深くあるためには、自分を真ん中に置いて考えないことも大事かもしれません。それは自分を大切にするなということではもちろんなくて。そうではないけれど、20代や30代のときに自分を大事にすることと、40代のそれでは、中身も責任も変わってきている感覚はあります。少しずつ聞き役に回っているというか。そんなことを日々考えながら今をなんとか懸命に、迷いながら生きていくだけ。それが大事な気がしていているんですよね。

―未映子さんは「今」というものを大事にされているのですね。

川上:だって明日突然、自分のなかの常識的な考えを覆すようなできごとが起きるかもしれないし、じっさいに起きるのが人生です。そしたら今考えていることのほとんどが通用しないんですよ。明日のことは、本当にわからない。だから「今日はすごく光がきれいだな」とか「今日はあの人に会えたな」とか、そういうことの積み重ねだけが、何か大切なものに値するような気がするんです。

今、息子が犬と暮らしたいと言っているんですよ。だけど私と夫はこれからもっと歳をとっていくし、犬と暮らせばお世話も必要だし、病気にもなるかもしれない。大人の事情で考えると、犬を飼うことはリスクなんです。だけど、自分が子どもの頃、拾ってきた犬と一緒に過ごした時間のことをよく覚えているんです。犬の足の裏のちょっときつい匂いとか、おなかを抱っこしたときの感じとか……。ああいう感覚や感情を、もし、今子どもが味わったとしたら、犬と暮らしたその数年間を、きっと彼は、一生思いだすでしょう。先々のお金や効率性を考えてものごとを決めることももちろん大事です。だけど、私はイノセンスな思い出を、心から信じているんです。それ以上に大事なことはないと思っています。

祖母が亡くなったとき、つらくてどうしようもなかったけれど、「この悲しみをなかったことにしてやるから、出会わなかったことにするか」と神様のような存在に問われたとしても、この悲しみをとるよな、と思いました。どんなに苦しくても悲しくても、何回でも出会いたいと思いました。まさに永劫回帰、生の肯定ですよ(笑)。今思いだせる何かがあるということは、実はとてもすごいことなのだ、と私は思っています。犬でも、子どもでも、友情でも、文章でも、景色でも、感触でも、色でも、思い出の内容はなんでもよくて。今思いだせることがあることの、全部の起点は今ここにある。だから年齢を重ねるということも、恐れすぎなくて大丈夫。そして、思いだせなくなっても大丈夫。なんでも大丈夫なんですよ。この、たった「今」を生きていればいいのだと、感じています。

川上未映子

大阪府生まれ。2008年「乳と卵」で芥川賞、10年『ヘヴン』で芸術選奨文部科学大臣新人賞および紫式部文学賞、13年『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞、同年、詩集『水瓶』で高見順賞、16年『あこがれ』で渡辺淳一文学賞、19年『夏物語』で毎日出版文化賞を受賞。『夏物語』は世界各国でベストセラーとなり、現在40カ国以上で刊行がすすむ。『ヘヴン』の英訳が22年「ブッカー国際賞」の最終候補に、23年には『すべて真夜中の恋人たち』が「全米批評家協会賞」最終候補にノミネート。23年2月に発売された新作長編小説『黄色い家』が大きな反響を呼んでいる。ほかに村上春樹との共著『みみずくは黄昏に飛びたつ』、短編集『ウィステリアと三人の女たち』など著書多数。

(撮影:当山礼子)

『深く、しっかり息をして』

著者:川上未映子
発行:マガジンハウス
発売日:2023年7月7日
価格:1,760円(税込)
『深く、しっかり息をして』│マガジンハウス

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