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i meet you

清水晶子さんとフェミニズムを話す。「違う生き延び方をしている人たちの選択を簡単に否定しない」

マジョリティはどう問題と向き合うか? 運動し続けるためにはどうしたらいい?

社会のことから、ごく個人的なことまで。me and youがこの場所を耕すために考えを深めたい「6つの灯火」をめぐる対話シリーズ、「i meet you」。東京大学でフェミニズム/クィア理論を研究している清水晶子さんにお話を伺いました。このテキストは、me and youが制作中のブック(クラウドファンディングの支援者の方々へのリターンの他、書店でも販売予定)にも掲載予定です。

ここ数年で、SNSではフェミニズムに関する発言が活発になり、国や企業による「ダイバーシティの推進」も進められるようになりました。一方で、異なる考えを持つ人同士のわかりあえなさが浮き彫りになったり、聞こえのいい言葉でフェミニズムやダイバーシティが語られることに対する違和感が生じたりすることも増えているのではないのでしょうか。

女性、セクシュアル・マイノリティ、人種、民族など、これまでの歴史のなかでマイノリティによる規範に対する運動が社会の変革をもたらしてきました。そして今もなお、マイノリティはその息苦しさに対して戦い続けています。あるときにはマジョリティになり得て、あるときにはマイノリティになり得る、複合的なアイデンティティを持つ私たちは、それぞれの問題に対してどのように向き合っていけばいいのか。フェミニズム/クィア理論を研究する清水晶子さんに、一つひとつ、時間をかけながらお話を伺いました。

世界に存在する一人ひとりが異なる経験を重ねて生きてきたなかで、「私」と「あなた」はどのように関わり合っていけばいいのか。SNSによりさらに複雑化している関係性のなかで、どのような姿勢で向き合えばいいのか。それぞれに生き延びていくために、活動を続けるためにはどうしたらいいのか。自分がマジョリティの立場であったときに、何ができるのか。清水さんとの対話のなかで、「難しい」「ケースバイケース」という言葉を重ねられているのが印象的でした。私たちの生/性は一括にはできないし、簡単には語ることができない。真摯に取り組み続けている清水さんのお話は、それでも考え続けていくためのヒントに満ちていました。

フェミニズム・クィア理論を学び、摂食障害やおかしいなと思ったことが腑に落ちていった

―清水さんはフェミニズム理論とクィア理論を専門とされていますが、クィア理論とはどんな学問なのでしょうか。

清水:クィア理論はフェミニズム理論とお互いに切り離せないものだと思っています。1980年代に「フェミニズムがセクシュアリティの問題に十分取り組めていないんじゃないか」「セクシュアリティ研究はフェミニズム的なジェンダーの観点が十分ではないのではないか」という問題意識を持った人たちが出てきて、ジェンダーとセクシュアリティをいわば同時に考えていくものとして1990年頃に「クィア理論」という言葉が使われ始めます。フェミニズムを念頭におきつつも、ジェンダー/セクシュアル・マイノリティの話が重要な要素として入ってくるのがクィア理論の特徴かなと思います。女性学、ジェンダー論とも大きく重なる領域ですね。

フェミニスト研究の中でも、フェミニスト経済学、社会学、生物学などさまざまありますが、わたしがやっているクィア理論はもともとは文学や映画研究、批評理論などを中心に、いわゆる「現代思想」の影響も強かった分野で、かなり人文系だと思います。テーマとしては、ジェンダーやセクシュアリティの表現を通じてわたしたちは自分の性/生をどう理解しているのか、またはわたしたちの性に対する理解が文化的な伝統や政治的な力関係、経済環境とどう関わっているのか、といったことを考えています。

清水晶子さんとフェミニズムを話す。「違う生き延び方をしている人たちの選択を簡単に否定しない」

清水晶子さん。Zoomでお話を伺いました

―フェミニズムやクィア理論に興味を持ち始めたきっかけは何だったのでしょうか。

清水:大学に入った時点では、フェミニズムをやろうとはまったく思っていませんでした。というか、フェミニズムのこと自体あまり知らなかったんです。大学に入ったのが1988年で、世の中はまだこれから社会はどんどん強くなるといったイケイケの雰囲気で、フェミニズムはそれほど人気のある考え方ではなかったこともあって身近なものに感じられてはいませんでした。

―1985年に男女雇用機会均等法が制定された直後だったかと思うのですが、人気のある考え方ではなかったんですね。

清水:ここ2、3年はフェミニズムに関する本が結構出ていたり、オンラインでプラットフォームがいくつも立ったりと触れる機会が増えていると思うのですが、当時はそういう機会があまりなくて。当時からいろんな方々ががんばって地道な努力を続けられていますし、同年代でもフェミニズムの重要性をわかっている人たちはいましたが、わたしは勉強不足で「まあ、それは大事だよね」という程度の理解しかなかったんです。今振り返れば、あれもこれも抑圧だったなと思うんですけど、当時はわからなかったんですね。

というのも、進学校の女子校に通って恵まれた環境にいたこともあり、社会的なかたちでの女性差別をあまり経験せず、フェミニズムが自分の生活や人生と直結したものだという感覚を持てていなかったんです。高校時代に学校内で意地悪なやりとりが行われたときに「女子校だから悪い」と思っていましたし、世間が「女性だからこう」と言うことに対しても「そうなんだ」と疑問を持たず受け入れていて。どれだけ幼稚だったんだろうって思います(笑)。大学で女性が少ない環境になったとき、たとえば「女性だから意地が悪い」というわけではなかった、とはじめて気づいたりしたのですが。

―大学では何を学ばれていたのでしょうか。

清水:大学では英文学を専攻して、シェイクスピアの研究をしていました。『十二夜』というお芝居が好きで、それに関する論文を読んでいきました。『十二夜』は異性装が混ざった三角関係のような状況が出てくるんですけど、先行研究にはジェンダーの視点から書かれたものがたくさんあるんですね。それを読んでいるうちに自分が言いたかったことが書かれている論文がほとんどフェミニズム系の論文だと気づいたんです。さらに深く論文を理解しようと思って参照されている本や論文を見ていくと、今度はそっちがおもしろくなって(笑)。いつの間にか興味がシェイクスピアからジェンダーやセクシュアリティの理論に移っていたんです。大学3年の頃ですね。

―さきほどフェミニズムが自分の生活や人生と直結したものとして感じられていなかったとおっしゃっていましたが、大学以降ではそう感じられたタイミングがあったのでしょうか?

清水:中学生の頃から摂食障害だったんですけど、大学に入るまでそれがいったいどこから来ているのかしっかり考えたことがなかったんです。でもシェイクスピアに関するフェミニズム系の論文を読んでいると、視線の話がたくさん出てくるんですね。自分の身体がどう見られているかとか、その見られているということにどう抵抗したり順応したりするのかとかーー。もちろん摂食障害を直接扱っているわけではないんですけど、見られることによってその人物の可能性がどう広がったり狭まったりするのかという議論を読んでいるうちに、それまで自分がなんとなく抱えてきたもの、おかしいなと思っていたことが腑に落ちていったんです。これからどうやって生きていけばいいんだろうかというときに、フェミニズムに戻って考えるような循環が生まれたというか。自分の体験につながるものとしてフェミニズムを考えるようになったのはその頃だったと思います。

自分とスタンスが異なる意見に対して、どのようにコミュニケーションしていけばいい?

―近年はメディアでもフェミニズムが好意的に取り上げられる機会も増え、SNS上でもさまざまな主張が飛び交っています。そのなかには自分とスタンスが異なる「フェミニズム」も含め、異なる意見が存在していて、どうしたらいいのかわからなくなる場面が多々あります。そうしたときにわたしたちはどう立ち居振るまえばいいのでしょうか。

清水:すごく難しいですよね。まず、相手が誰かによって立ち居振るまいかたは変わってくると思います。たとえば大学教員であるわたしの場合、その相手が同じような立場にいる先生なのか、授業のあとに質問しにきた学生なのか、あるいはネット上の匿名ユーザーなのかによっても対応のしかたは違ってきます。学生に対して、先生に向かって言うのと同じ言い方はできないだろうとわたしは思うんですね。対応を変えること自体を「学生を下に見てる」ということもできるかもしれないけれども、経験や知識や力関係を無視して、平場のふりをしてぶつかるのは違うという気がするんです。そして、ネット上の匿名ユーザーに対しては、相手の背景がわからない以上、自分が議論や説得をすることが必要なのかわからないと思うこともある。だからケースバイケースなんですよね。

自分が長年信用してきた研究者やアクティビストの方と意見が合わないときに、「それは違うと思います」と伝えることはありえます。ただわたしが忘れないようにしているのは、敬意を持っている相手に対しては、意見が違ったとしてもその敬意を忘れないということです。議論していて意見が合わなかったりすると、どうしてもヒートアップしてしまうことはあると思うんです。でもそのときに、その人がこれまでフェミニズムなりクィアの運動のなかでやってきた試みや実績は忘れないようにしようと心がけています。お互いへの敬意をなくしてしまうと、根底から崩壊してしまう気がするんです。

―ケースバイケースというのはつまり、自分(me)と相手(you)の関係における権力勾配や立場、関係性の違いをしっかり把握したうえでどうコミュニケーションするかを考える、ということですよね。

清水:そうだと思います。でもそこがすごく難しいところでもあって。「フェミニズムは一人一派」という言葉もありますけど、フェミニズムという思想/運動には歴史的にある程度共有されてきた理念や倫理があるんですよね。わたしは、その理念はあまり安易に変えなくていいと思っています。絶対変えるべきじゃないということではないんですけどーー。理念というのは、これまで活動を続けてきたフェミニストやアクティビストの経験や知識や思考の蓄積のうえに練り上げられてきたものなので、「ケースバイケースだから、あれもこれもアリだよね」とは言えない場合もあると思うんです。

ただ、わたしのような人文系の研究者はそうした理念を整理したり体系化したりして「理念としてはこうです」と言っていくのも役割のひとつなのですが、それだけだと理念だけが浮いてしまう。抽象的な理念を浮いたままにせずに、一人ひとりがどういうかたちで実践していくかという話があって、その部分は本当にケースバイケースだと思います。

―理念のレイヤーと実践のレイヤーがある。

清水:理念の上で、一人ひとりが友達や家族や職場の人とどう対峙するかは、理念そのままではない。そこの動きがなければ、思想や運動は広がらないですよね。たとえばわたしが研究者だからといって、目の前の人に「あなたが個別にどういう経験をしている人かは関係がなくて、とにかくこれが理念です」と説明するだけでは、伝わらないかもしれない。だから、理念は理念として持ちつつも、個人対個人のレベルではもうすこし違う対応が必要になってくることがある。ただ、個人レベルの対応と理念レベルの対応の線引きはすごく難しいですね。特にSNS上だと、友達でも職場の人でもなくオンラインだけで長年知っている人やまったく知らない人とのやり取りがあるので。

運動を続けるために、SNSとどう向き合うか。辛くなったら休み、周りの人と穴を埋め合う

me and you野村:SNS、特にTwitter上では、まったく異なる経験を重ねてきた、知識量も異なる、会ったことのない人たち同士のやり取りが行われていて。そこで得ることもありながら、なかには意図的なもの・そうでないもの含め、誰かを傷つけるやり取りも存在しています。こうした場所で自分の考えを伝えていくことについて、どうしたらいいかと悩んでしまうことがあります。

清水:Twitterはわたしもずーっとやってるんですが、敵しかつくってない気がします(笑)。良くも悪くもTwitterの距離感はフラットなんですよね。親しい人に向けて話している話が会ったことがない人にも同じように届いてしまうというか。対面やメールだと感じられる相手との距離感がないのが難しいところです。それでも続けているのは、研究者でフェミニストで実名でやっている人がそもそも少なかったし、「ああいう話を研究者の人がしていることに、ほっとしました」という学生の意見を聞くことがあったりしたから。わたしはTwitterで誰かを説得しようとするのは最初から諦めていて、わたしが投げたことを誰かが拾って役に立つなら良いし、役に立たなければ断ち切ってくれればそれでもいいという思いでやっています。

―別の問題として、Twitterではフェミニストに対する誹謗中傷もありますね。

清水:誹謗中傷を受けた方はどんどんTwitterから撤退していますよね。そうしたくなる気持ちはわたしも痛いほどわかります。でも同時に、撤退するというのはプラットフォームをひとつ奪われているということなので、非常に大きな問題です。明らかなヘイトスピーチや差別は規制できたとしても、悪意は規制しきれない。誹謗中傷をする側が問題だという前提ですが、悪意に悪意で返すことが今の自分にとって必要なのか。自分が出さなくてはいけないメッセージというのはなんなのか。個別で大切にしたい相手とDMや直接会って話すほうがいいんじゃないか。誹謗中傷で傷ついている人を慰めるべきじゃないか。そういういろいろなことを考えてそれぞれ優先順位をつけていくのが大事な気がします。そうでないと、絶対的な数が少ないフェミニズムは疲労させられて撤退させられてしまう一方なので。

感情の高まりのようなものに巻き込まれないようにするというのもあるのではないかと思います。巻き込まれると、自分が本当に大事にしたい理念や、理念は違うけれどきちんと話をしていかなくてはいけない人に向けられる余力がなくなってしまいます。

―悪意に応答し続けても消耗するよりも、その分のパワーを自分が大切にしていることに使おうと。

清水:アクティビズムでもなんでも「辛くなったら一旦引く」のがすごく大事だと、フェミニズムやレズビアン系のアクティビストの友人たちから以前教えてもらいました。「まずいと思ったら一旦引いて休む。それでまた回復したら戻ればいい。そうでないと本当に潰れちゃうし、運動もつながっていかない。それに運動は一人が休んだからといって消えてしまうものでもない」って。

―いい言葉ですね。

清水:時間が経てば経つほど、そのとおりだなと実感します。必要なときに休んで、精神的な回復や知識の補給をして、絶対に放っておけないことがあったらそのときまた出ていけばいい。誰かが戦線離脱したように見えたときには、その人が担っていた部分をちゃんとフォローアップしてあげたほうがいいし、あとで戦線離脱していた人が戻ってきたときに「あの人がその穴を埋めてるんだね」とお互い認識しておくのは結構大事かなと思います。

―続けていくためには、自分一人だけでなく周りの人たちと穴を埋め合うというのは他のことでも言えそうですね。特定の領域で活動していると、関連するすべてのトピックやイシューについての発言を個人が求められてしまう風潮もあると思うので、すごく大事だと思いました。

清水:言える人が言えばいいんです。もちろん、たとえばフェミニストとして活動をしていて、民族差別とか障害者差別とか長期にわたって起きている問題に関して一切発言しない場合、「あなたのフェミニズムはなんなの?」と問われる場面はあるかもしれません。でも、何かある度、すべてに応答する必要はないと思っています。

me and you竹中:SNS上では一部で歪曲された「フェミニズム/フェミニスト像」がつくり上げられ、それに対して批判が集まっているケースも見かけます。

清水:「フェミニズムだからだめ」と藁人形みたいなものがつくられている状況は今も確かにありますね。でもこれはSNSに始まったことではなく、2000年代頭、2ちゃんねるなどネット掲示板で起こったフェミニズムに対するバックラッシュは酷いありさまでした。大学でも「フェミニズムをやりたい」というだけで先生にだめ出しをされるということがいくらでもあった。その流れで見ると、むしろフェミニズムのイメージはすこし改善したくらいだと思います。だからあんまり悲観的になりすぎる必要もないかなと。もちろん今のままでいいわけでもないし、昔のような状況に戻る可能性もあるので気をつけないといけない。

―ましになっている面もある。

清水:今の状況は楽観視できないですし、いつでも攻め込まれるという警戒心は持ちたいです。でも負けっぱなしだと思うと、イヤになるじゃないですか。もうどっか行こうかな、みたいな(笑)。そうならないためには、よくなったところはよくなったと認識して、その活動に尽力した人たちの功績を見ていくのも大事かなと思います。

清水晶子さんとフェミニズムを話す。「違う生き延び方をしている人たちの選択を簡単に否定しない」

cap:左から時計まわりに平岩壮悟さん、me and you竹中万季、清水晶子さん、me and you 野村由芽

今までは大変さや怖さをマイノリティの人たちが全面的に引き受けることで、それ以外の人たちは大変さや怖さに気づかずに生きていくことができた。でもその大変さや怖さは、本当はみんなでシェアしなくてはいけない

―ここまでSNSの話をしてきましたが、社会におけるフェミニズムの受け入れられ方の変化として、SDGsが打ち出され、多様性(ダイバーシティ)が語られるようになったということがあると思います。そのなかには聞こえのいい言葉としてそれらが利用されている場面もあるように感じているのですが、何か危惧されていることはありますか?

清水:国や大企業が「ダイバーシティ」を推進し始めるときに、楽しげで利益があるという側面だけを謳うように見えることが多いので、違和感を持つのは正しい反応だと思います。ただ難しいのが、これで話が進んだり動いてきたりした部分もあるので、全部だめだよねって投げ出してそれで済むと言われるとそうではない。だからといって現状をそのまま受け入れたほうがいいというわけではなく、両面を見る必要があると思うんです。

ダイバーシティについて考え、力を注いできた人たちの力がどこに働いているかを見落とさず、同時にダイバーシティを謳う国や企業をチェックしていく責任がわたしたちにはあると思います。

―「楽しいもの」というメッセージが過剰に強調されているとき、どういう立場から発せられているのだろうと違和感を覚えます。

清水:楽しさやクリエイティビティといった言葉は、女性や性的マイノリティ、人種的・民族的なマイノリティ自身が、国が何を言っても動かないなかで、自分たちが生きる可能性を拡大するためのレトリックとして発してきたものです。実はダイバーシティって必ずしも便利でも楽しくもないんですよね。どちらかというと大変だし、怖いものだと思います。でもだからといってやらなくていいかというとそうでもない。わたしたちの社会はすでに多様な人たちが生きているから、なかったふりをして生きていくわけにはいかないんですよね。今までは大変さや怖さをマイノリティの人たちが全面的に引き受けることで、それ以外の人たちは、多様な人たちが生きている怖さや大変さに気がつかずに生きていくことができた。でもその大変さや怖さは、本当はみんなでシェアしなくてはいけない。

人はある部分でマイノリティにもマジョリティにもなると思うのですが、自分がマジョリティであるときに、今まで大変じゃなかった部分がちょっと大変になるとか、安心しきっていたところがちょっと怖くなるっていうことは引き受けていかないと、既に存在しているダイバーシティを認める社会は実現しないと思います。それを念頭において、国や企業の動きに対して「ダイバーシティが楽しめるように、ちゃんとやってくださいね」って言質をとっていかなくてはいけないのかなって。

―ちゃんと約束しましたよね、っていう。言質っていいですね。

清水:さまざまなケースがあると思いますが、国や企業が「ダイバーシティいいですよね、推進しましょう」と売り込むのであれば、国や企業の振るまい方をちゃんと見て、「ダイバーシティ大事だって言いましたよね」と言っていく義務がわたしたちにはあると思います。

「0か100か」というメンタリティから離れて、自分と違うかたちで抵抗している人をなるべく否定しないことが大事

―クィア理論はジェンダー規範に関する分野だと思うのですが、社会において求められるジェンダーをはじめとした規範が息苦しいと思っている人は、その規範に対してどう抵抗するのが有効なんでしょうか。

清水:そもそも規範というのは息苦しくないときには感じないものです。息苦しく感じた時点でおそらくその人は規範からずれていて、だから抵抗せざるを得ないんだけれど、でも、抵抗することは必ずしも「楽になること」と重なるわけではありません。なので、息苦しいままでどう生きてくのか、ということがポイントかなと思います。

―なるほど。

清水:抵抗にもいろんなやり方があって、規範に真っ向からぶつかっていくタイプもいれば、ふだんは規範に従順なふりをしていながら、それとは別に自分だけのスペースを確保して生き延びるタイプの人もいます。前者はものすごく気力が必要ですが、かっこいいんですよね。一方で後者は、第三者からは「ずるい」とか「もうちょっと堂々とやればいいのに」と思われがちだったりします。でも、それで生きていけるタイプの人は気にせずにそうやって生きていけばいいと思うんです。息苦しさは人によって異なるので、自分が無理だと感じるところをまず大事にするのが大切だと思います。

―それもひとつの抵抗だということですね。

清水:抵抗すべき問題はいろいろあると思うんですけど、それを考えるにも生きていなくてはいけないので、自分が生き残れるようなスペースをつくるのが最優先だと思うんです。まずは生きることに専念して、そのうえで抵抗できる人はできる抵抗をしていく。できる人はどんどん抵抗すればいいし、してほしい。でもみんながそれをやらなきゃということになると、フェミニズムは生き残らないと思うんですね。「0か100か」というメンタリティから離れて、自分と違うかたちで抵抗している人をなるべく否定しないことが大事かなと思います。

―自分のアプローチだけが唯一の正しい道だと思わない。

清水:もちろん世の中には、トランスジェンダーや日本国籍保持者ではない人への排除・差別など、規範から逸脱しているからという理由で攻撃の対象になり、直接生を脅かされるケースもあります。それに対して批判していくことは当然ありえますし、そうすべきです。でもそうではなくて、たとえば「結婚するかしないか」「どういう服装をするかしないか」「どういう恋愛・性愛関係を結ぶか結ばないか」といった部分で、他の人の抵抗のあり方をみだりに否定しないことは大事だと思うんです。わたしもそうですけど、自分と違うかたちの抵抗は見落としやすいんですよね。

―本当にそうですね。

清水:お互いに「なんであなたはこうやらないの?」と言い合っても、全体としてわたしたちは何も得をしないんです。歴史を見ても、「専業主婦か働く女性か」みたいに女性同士対立させられたり、もっと遡れば「聖女か娼婦か」というようにわけられたりすることは、女性にとってなんの得にもなりませんでした。だから、違う生き延び方をしている人たちの選択を簡単に否定せず、「これは本当におかしいのか、それともわたしと違うだけなのか」と一度立ち止まって考えたほうがいい。その上でもちろん「これは本当におかしい」と批判することもあるのですが、「わたしとは違う」という理由で性急に否定するのはリスクが高いと思います。

マジョリティがマイノリティの抱える問題に対して関わっていくなかで気をつける態度とは?

―できる範囲で自分のかたちで抵抗する、というお話がありましたが、より余裕があるのはその問題におけるマジョリティだと思います。そうしたときに、マジョリティが問題に関わっていくなかで気をつける態度があれば教えてください。

清水:ある問題に対して切実な当事者ほど簡単には声をあげにくいという構造があります。なので問題に対して距離がある人があっさり声をあげて、結果としてより切実な人から声をあげる場を奪ってしまったりすることもあります。じゃあ何をするべきか。まずは「声を聞く」ことだと思います。でも相手に話してもらえるようになるには信用されることが必要で、それには時間をかけて信頼関係をつくっていかないといけないので、簡単なことではないんですけれど。もうひとつは「場を提供する」ことです。女性、セクシュアル・マイノリティ、民族、人種、障がいなどのコミュニティでそれぞれ問題に対して声をあげてきている人がいるので、その人たちの声を見つけて、自分がプラットフォームを持っているのであればそこで紹介していく。あるいは「提供し、譲り渡す」。自分が前に出て行って代表するだけでなく、マイノリティに場や力を譲り渡すということもやっていく必要があると思います。そして「お金を出す」。運動に関してはお金を出して口を出さない人はすごく大事だと思います。多額じゃなくてもいいと思うんですよ。小さくてもそれが重なっていくのが大事なので。そういうかたちのサポートのしかたもあると思います。

me and you竹中:これからme and youでは、さまざまな状況で生きている方と「わたしとあなた」という小さな主語で対話するような場所をつくっていきたいと思っているんですが、そのために必要な視点はなんだと思われますか?

清水:小さい主語で向き合うのは大事なことだと思います。ただ同時にマイノリティとマジョリティのあいだにある非対称性には注意しておく必要があります。というのも、マジョリティはそもそも属性で個人のあり方を塗りつぶされる経験をあまりせずに済むわけです。英語圏でもよく言われることなんですけど、「個人としてのわたしを見てほしい」と言うことができるのは白人や男性、中産階級といったマジョリティなんですよね。逆にいえば、マイノリティは普段「個人として」ではなく、黒人や女性という属性で見られている。なので、いきなり「個人と個人でフラットにいきましょう」と言われてもそう簡単にできるものではないんですね。だから「わたし」と「あなた」という主語で向き合うまでには、いろんなステップを踏まなくてはいけない場合が多々あると思うんです。

たとえばわたしと話している相手がマイノリティである場合、向こうから「マジョリティのくせに何がわかるの?」「どうせ研究者でしょう?」と言われることもありえるわけで。それに対して自分の言い分を言いたい気持ちはもちろんあるんですけど、そこでガーッと言っちゃうと「わたし」と「あなた」にはならない。必ずしもマジョリティが期待する手順で「個人対個人」の関係性に到達できるとは限らない、ということを念頭に置いておくのは大事だと思います。

―自分が「フラットに対話ができる」と思っていたとしても、相手はそうではないかもしれない。

清水:マジョリティの「わたし」がマイノリティの「あなた」を属性で見なかったとしても、なんの蓄積も信頼関係もないなかで「あなた」が「わたし」をマジョリティという属性で見ることに対して「するな」と言う権利はわたしにはないんですよね。それを受け入れたうえでないと、一対一の話にはならない気がします。

パット・パーカーという詩人による、「わたしの友達になる方法を知りたい白人へ」という詩(※)を思い出しています。「最初に、わたしが黒人だということを忘れること」と彼女は言うんです。「次に、わたしが黒人だというのを絶対に忘れないこと」だって。忘れることと忘れないこと、その両方がないと、構造的な人種格差があるふたりが対等な関係を築くのが難しいということですよね。いつ「あなた」が黒人であることを忘れるべきで、いつ「あなた」が黒人であるということを忘れるべきでないのかを正しく判断することが、白人である「わたし」には求められている。簡単なことではないですけど、マジョリティはその問題においてはハードではない人生を送っているので、その分この難しさは引き受けていかないといけないんじゃないかと思います。でも、すごく難しいですよね。わたしも難しいと思ったから覚えているんです。

※Pat Parker, “For the white person who wants to know how to be my friend”

※記事掲載後に本文を一部修正いたしました(2022年2月18日)
・「大学に入ったのが1988年で、バブルは弾けていたものの、」→「バブルは弾けていたものの、」を削除

清水晶子

東京大学大学院人文科学研究科英語英米文学博士課程修了。ウェールズ大学カーディフ校批評文化理論センターで博士号を取得し、現在東京大学総合文化研究科教授。専門はフェミニズム/クィア理論。著書に『読むのことのクィア— 続・愛の技法』(共著・中央大学出版部)、『Lying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision』(Peter Lang)など。

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