野村:自分がどう思うか話したり、相手がどう思うかを聞いたりということにつなげると、「自分の弱さややわらかい部分を男性と共有することは難しい。『負け』のような気がする」という話を男性から耳にすることがあります。そういう話を男性が男友達にすることは、なぜ難しいのでしょうか?
武田:自分は友達の総数がそもそも少ないってのもあるんですが、男性の友達があんまりいないんですよね。だから、男同士で集まって、強さにしろ、弱さにしろ、ぶつけ合うみたいな経験が乏しいんです。正直、男同士でなにを話しているのか、よくわかっていないところがあります。
野村:必ずしも男性同士で内面のやわらかい部分を喋ったほうがいいよね、みたいなことがすべての解答ではないと思います。その上で、1つそういうことをやってもいいんじゃないかなとも思います。
武田:もちろんそうですね。連帯する場がどんどん生まれるべきだって思うし、そういう場が生まれることによって、一人ひとりが口をあけて話し始める場面が増えればいいと思います。
西口:男同士が「自分の話」をすることがマチズモそのものであるという瞬間もたくさんあるじゃないですか。その兼ね合いが難しいなと思います。「男っぽい」コミュニケーションの仕方、話し方のなかのマチズモも削り取らなきゃいけないなと思うんですが、武田さんは、コミュニケーションのなかのマチズモはどういうところに感じますか? 『マチズモを削り取れ』の「会話に参加させろ」の章に、商社の食堂に潜り込んでランチ中の会話を聞くというシーンがありますよね。40代・50代の男性1人ずつと、20代と思われる女性2人がランチをしていて、ワシントンに出張に行くという40代の男性に対して、50代の男性が自分の経験を畳みかけるように披露し、女性たちが時折頷くといった描写がありました。
武田:ああいう場面って、一人ひとりに意思がないわけですよね。会話というよりプレーに近い。こういう役割で、こういうこと喋って、こういうふうに終わらせよう、みたいな。人間味がまったく感じられなかったわけですけど、でもそれって、すぐ崩せることじゃないですか。目の前の人を茶化さなくても、別の話題に切り替えることは誰にでもできるわけですよね。……今話している間にも、(ウェブカメラに映る)野村さんの後ろでおばあちゃんが多分、3往復くらいしてますよね。
野村:おばあちゃん、見えてましたか。
西口:最初から(笑)、気になってる。
武田:……と、どんな話でも、話ってこうやって外せるわけじゃないですか。ただ、ある程度顔見知りで、今、野村さんの後ろのおばあちゃんの話をしても大丈夫だろうとなんとなく思うからこそ、そういう話ができるってところもありますけど。
商社の食堂で同じ部署の4人でいるときに崩せるかって言ったら、「そりゃ崩せませんよ」になっちゃうし、崩そうとして「なにお前その話……」ってなったときの、シーンってなる感じが怖くて、やっぱりいつも通り飯食っちゃう日々が続いていく。その状況に対しても、「いや、でも崩せるよ」と言いたいんです。それでなにか変わるかもしれない。あるいはそこに行かないっていう選択肢もあるかもしれないし。どの瞬間、どのシチュエーションにも、別の可能性や選択肢があると頭に置いておく必要がありますし、それ自体が希望になります。
西口:そういう選択肢は、会社だけじゃなくて友人関係でもそうだし、恋愛関係でもありますよね。前に小川たまかさんと対談したことがあるのですが、来場した方の質問で、「対談のなかで男性と女性の見えている世界が違うって話がありましたけど、具体的にどういうところが違いますか」という質問が出て、わたしは具体例を即答できなかったんですよ。いまだにそれを思い出します。
『マチズモを削り取れ』は、寿司屋のカウンターでのやりとりや、公共トイレで立ってするか座ってするかなど、それぞれのエピソードがとても具体的で、それが「見えている世界の違い」を体験することなんだなと感じました。
武田:本でも書きましたけど、妻が「夜アイス買いに行けないんだよね」みたいな話をしてきたとき、ああそっか、この人は夜1人でアイスを買いに行けないんだと、あらためて実感しました。自分はアイスを買いに行こうと思ったらいつだって1人で行けるけど、彼女は行きたいと思わない。なんなんだろうこの違いは、と。これを些細なことにしてはいけないはず……という気づきから入りました。
OECDのランキング(※1)やジェンダーギャップ指数(※2)を考えることと同時に、「なんでこの人はアイスを買いに行けないんだろうか」と考えたくて、そういった取材や考察を積み重ねていきました。電車のなかで、寿司屋で、結婚式の打ち合わせで、そういう日常生活で発見できる部分、発見して考えなければならない部分がたくさん出てきて、それらを受け止めながら、拾いながら考えたかったんです。
西口:印象に残ったのが、中学生の頃に自宅マンションのポストで見知らぬ男に抱きつかれたという知人の経験談に対し、「大事に至らなくて良かった」と言ってしまった話でした。男である自分がついかけてしまった言葉が、すでに事態は起きているのに「最悪の事態」から逆算した言葉になったことを反省する部分です。そこを読んで、同じような状況ではないんですが、自分の記憶も喚起されて、これまで付き合った人との会話とか、かけるべきではなかった言葉を思い出しました。「今あなたが無事で良かった」という意図で言っても、相手はそういうふうには受け止めない。自分の経験を軽んじられたように感じる。それこそが見えている世界が違うことの端的なあらわれかなと思って。
武田:実際、玄関ポストで後ろから抱きつかれた人の思いは、その人と対話をしてもそれだけではわからないし、抱きつかれた人のなかでも記憶として強くなってしまったり、ある程度距離がとれるようになったり、変化することだと思うんです。だからその意味合いを、外から決めちゃいけないはず。今、「寄り添う」って言葉がやや安っぽくなってきていますが、その人と寄り添うのであれば、そういう経験がどう変化していくのかも考えなければいけないと思います。
「10年前だからそろそろ大丈夫だろう」ということじゃない。もし本人がそう言っていたとしても、外から決めちゃいけません。今回の本を書いて、そういう考えに至ることが多かったですね。勝手に外から歴史化しない、というか、今、この人にとってこういう位置付けなんだろうって勝手に決めない。よく、#MeToo などの話のなかで「なんで今頃?」とか「どうして直後に言わなかったの?」といった、乱暴な見解で挑発する連中が出てきますけど、これこそ、外から勝手に決めている状態です。その人の頭のなかでどういう変動を遂げるか、変動する可能性があるものだっていうことさえ、考えていないわけです。この乱暴さをなくしていかなきゃいけない。今笑っていても、5秒後に辛さが戻るかもしれないと、外にいる人は思ってなきゃいけないですよね。
竹中:わたし自身も、過去に誰かに言ったことややってきたことを今思うと、なんであんなこと言っちゃったんだろう、傷つけてたよねと思うことが多々あります。それをなかったことにせずに、振り返ったり反省していったりすることが大事だなって思っているんですけど、そうした意識を人々が持ち続けるためにはどうしたらいいんですかね?
武田:そうですね。最初から話していることですが、「長さ」でしょうか。『She is』があれだけ受け入れられたのは、話の長さ、しつこさだと思うんですよね。
野村:そんなに長いですかね……(笑)。
武田:長いと思いますよ。それはすごく重要なことだと思う。すべてにおいてそう思っています。結論をすぐに出さないとか、「また今度話そうよ」とか、しつこく考える。
野村:それって、子どもの頃に感じていた「校長先生の話が長い」っていうのとはまた違うものですよね。
武田:まったく違いますよ。校長先生の話って途中から割り込めないから。あれは、「先生はそう思うかもしれないけど、わたしはそう思わないですけどね!」とかって言えないやつだから。長さの質が違う。
野村:言いたいことを一方的に伝える長さではなくて、「話が尽きないよね」って感じ、なんですかね?
武田:そうですね。 ああもうこんな時間だ、また今度続きを、って感じを大事にしたいですね。