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i meet you

武田砂鉄さんと長い話をする。男性なのに、ではなく男性だからマチズモを語る

構造の歪みに気づくには「これはおかしいんじゃないか」と思い続けるしかない

社会のことから、ごく個人的なことまで。me and youがこの場所を耕すために考えを深めたい「6つの灯火」をめぐる対話シリーズ、「i meet you」。出版社勤務ののち2014年よりライターとして活動し、『紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす』や『マチズモを削り取れ』などの著書を発表している武田砂鉄さんにお話をうかがいました。このテキストは、me and youの本『わたしとあなた 小さな光のための対話集』にも収録されています。

世界経済フォーラムが2021年に発表した日本のジェンダーギャップ指数は156か国中120位。先進国で最低レベルであるこの結果は深刻ですが、その報道にもはや驚くことができなくなっているほどに、女性の政治参加割合や管理職の少なさ、平均所得の低さ、暴力被害の多さ、そういった状況が続いているのが現在の日本の姿ではないでしょうか。

ライターの武田砂鉄さんが、日本の公共空間にはびこる「マチズモ=男性優位主義」の実態を調査した『マチズモを削り取れ』(集英社、2021年)。「自由に歩かせない男」「会話に参加させろ」「寿司は男のもの?」といった12の章が収められ、普段目にしている日常のそこかしこに、男性優位な状況が根強く潜んでいることを具体的にあぶり出した1冊です。不平等であることがデフォルトであるという歪んだ状況は、どうして維持されてしまうのか。マチズモという社会の問題に対して、決して「男性として生きてきた個人」を批判するのではなく、一人ひとりが自分の経験を振り返りながら、社会の問題として考えて前進するための手がかりが、この本には書かれています。

マチズモは、男性自身も含むあらゆるジェンダーの人々の生に、困難や理不尽をもたらしかねないものです。その状況に対して、一人ひとりがどう関わっていくか、悩みや難しさもまじえて、ああでもない、こうでもないと言葉を交わした様子をお届けします。インタビューの執筆は、『マチズモを削り取れ』に労働問題の専門家として登場した西口想さん。me andyou の2人も以前より武田さんと親交があることも相まって、たっぷり1万5000文字弱に及びました。やすみやすみ、読んでいただけたら嬉しいです。

なぜ、『男性なのによくぞ言ってくれた!』と捉えられるのか、いまだによくわからない」

武田:野村さんと竹中さんには、話が長い、文章が長いっていう特徴がありますよね。クラウドファンディング史上あんなに長い文章はなかなかないですよ。

野村・竹中:(笑)。

竹中:クラウドファンディングの説明文を入稿するときにエラーが起きて、どうしたらいいですかって問い合わせたら、「すみません、字数を減らさないといけないみたいです」って言われました。

武田:社会に出ると、結論から話すようなテクニックばかり身について、その人の頭のなかで本当に考えていることや煮込んでいることを、知らぬ間に捨て去っちゃっていることがありますよね。そんな風潮のなかで、あのクラウドファンディングの文章の、「圧」とまでは言わないけど、力強さに共鳴する人が出てくればいいなと思って読みました。

武田砂鉄さんと長い話をする。男性なのに、ではなく男性だからマチズモを語る

左上から時計まわりで西口想さん、me and you野村由芽、武田砂鉄さん、me and you竹中万季

野村:ありがとうございます。時と場合によっていろんな話し方が必要だとは思うんですけど、me and you がつくっていく場所では、1つのメッセージがすぐに全員に伝わるようにというよりは、一人ひとりが自分の言葉を探しながら、曖昧でもわかりづらくても、考え続けていく時間を共有していくようなことができるといいのかなと思っています。今日はまず、武田さんがどのように「マチズモ」な社会に気づき、それを自分が削り取ろうと思ったのか、お聞きしたいです。

武田:2021年7月に『マチズモを削り取れ』を出したあと、この本についてのインタビューを受けていて、インタビュアーから「なんで男性なのにこういうテーマについて書いたんですか?」と訊かれることが多かったんです。それがどうも不思議で。

男性優位主義・男性優位社会というテーマであるならば、当然ですが、男性のほうがよりその状況の近くにいます。社会の優位なほうで暮らしているからこそ、自分の腹を探ったときにそういう成分がまだまだ残っていたり、いつの間にか膨張していたり、すくすく育っていたりする。それを直視するという行為は、男性にとってイレギュラーなことではないはず。それがなぜ、「男性なのによくぞ言ってくれた!」と捉えられるのか、いまだによくわからないんです。

野村:武田さんはマチズモに向き合うとき、「個人として経験を振り返る」ことと「社会の問題として捉える」ことをわけることが大切だと言っていますよね。政治やテレビの状況について書くときにも、当事者だけではなくいつも構造の問題や歪みを見ていると思います。

武田:これまで、政治や社会の問題を考える原稿をあちこちで書いてきましたが、突き詰めると「これ全部、社会の組織を回しているのが男性ばかりだからなのでは?」という仮説に行き着くことが多かったんです。話をシンプルにすれば、政治家のなかに女性が少ない、テレビをつければ男性のお笑い芸人が場を仕切っている、会社に行けば意思決定しているのはほとんどが男性です。だから、『マチズモを削り取れ』も、これまで書いてきたことの延長だと思っています。

構造の歪みに気づくには「『これはおかしいんじゃないか?』『これで本当に良かったのかな?』と考え続けるしかない」

野村:以前、仕事上で付き合いのある男性から、同じ職場の同僚がセクハラをしていて気持ち悪いと思ったけど、前はその気持ち悪さに気づけていなかった気がする、といった話を聞いたことがあります。『マチズモを削り取れ』で書かれていたような構造の歪みに、気づく人と気づかない人がいますよね。どうしたら気づくのだろうと思っていて。

武田:自分も、あるとき突然頭の上の電球がピカッと光って、「これじゃいかん!」と思ったということではないですね。例えば会社員だった頃、同じ部の人たちとスナックに行って、女性社員が偉い人にお酒を注ぎ、そのお酒がなくなれば「おい、(お店の)姉ちゃんの所に行って追加持ってこい」と言われているのを、自分は若手の男性社員として平然と眺めていた。あのときの放置っぷりを思い出す。そういう経験を思い返しつつ、いろいろ読んだり見たり喋ったりするなかで、「あれダメだったろ」「昨日のあれはどうだったんだ」「今のこれは……」と繰り返しています。

今でも気づけてないことはたくさんあるはずです。だから、「これはおかしいんじゃないか?」「これで本当に良かったのかな?」と考え続けるしかないですよね。どんな人でも変化にはグラデーションがあるので、これでもう完全に切り替えられたってことはないんでしょうし、「よし、もう大丈夫だぜ」ってなったら、そっちのほうが危ういのではないかと。

野村:武田さんは本の「おわりに」で、マチズモの問題を「自分なりに受け止める」ことの大切さと難しさに触れています。なにか問題が取り沙汰されたときに「自分にだってそういう一面があるし……」と言いながら問題を起こした主体への疑問や苦言を引き下げるのではなく、それを受け止めた上で、疑問や苦言を投げかけることは許されないのかという問いを投げていますね。「自分なりに受け止める」とはあらためてどういうことを指しているのでしょうか。「自分なりに受け止める」=「(これまでの)自分を全否定する」ことだと思っている人もいるような気がします。

武田:自分の思っていることが単色で、「ここで間違ったら、自分のすべてがだめになってしまう」「身の置き場がなくなってしまう」と思い込むと、1回たりとも失敗できなくなってしまう。そうすると、ジェンダーやマチズモの問題に対して言葉にするのが怖くなってしまうのかもしれません。ただ、自分の発言や行動に対して、相手にはどういうふうに見えているのかな? と外から見る目線を持っていれば、悩みながらも進むことができるんじゃないでしょうか。

自分が担当しているラジオのゲストに臨床心理士の東畑開人さんをお呼びしたとき、彼の「補欠の品格」(『心はどこへ消えた?』〈文藝春秋、2021年〉所収)という文章の話になりました。中学校で野球部の補欠だった経験についてのエッセイです。自分もサッカー部で長年補欠だったんですけど。

東畑さんが言っていたのが、「補欠は常に自分を客観視する」ということです。控えは外から試合を見ている。すると、自分の考えていることと口にすることが違ってくる。試合中の選手に対して「がんばれ!」って言っているけど、本当ははやく帰りたいし、負けてくれれば来週試合がなくなるので休みが増えて嬉しいと考えている。頭のなかで自分の人格・感想・意向が1つに絞られていなくて、なにかを喋っていても、別の角度から「どうなのそれ?」と思っている感じがある。この感覚が今もあるんです。

野村:中心ではない場所にいる人々は、自分と世の中とのズレや距離に向き合わざるを得ないですし、結果的に客観的な視点を持つのかもしれません。

武田:2021年の衆議院選挙では、ジェンダー平等や選択的夫婦別姓、LGBTQ+の権利などの論点が多く取り上げられました。結果的に、ジェンダー問題を重視した野党共闘は大きく伸びはしませんでしたが、そのあと、論客の分析のなかには「あれって意味なかった」「結局、票につながんなかった」みたいな言い方がいくつもあった。そこには、「(笑)」みたいなニュアンスさえありました。

でも、それ、とってもスタメン的な論理です。「勝っているほうの意見って、こうだよね。あれじゃあ、負けちゃうよね」と、控え側の意見を抹消しちゃう。平等って基本的人権です。それが守られていない状態を「これでは勝てないから別の論点でしょ」と放置してしまう。こういうことを言う人がまだいるんだと思って、ショックというか、どうしようもねえなと思ったんです。学生の頃から控えでやってきた身からすると、控えの意見がすぐに採用されるとは思っていない。でも、控えの声を聞いてくれる人と、控えの声や主張を少しも受け入れてくれない人の違いって、よくわかります。

武田砂鉄さんが金曜日にパーソナリティを務めるTBSラジオ「アシタノカレッジ」。東畑開人さん(臨床心理士)をお招きした回

西口:ラジオ番組「アシタノカレッジ」で、武田さんMCの金曜日は毎週聴いています。東畑さんゲストの回も楽しかったのですが、自分はスタメンだったなと思いながら聴いていました。

武田:なんと、スタメンですか!

西口:スタメンと言っても中学校までずっとバスケをやっていただけですが。高校のバスケ部では、新入部員はTシャツの前と後ろに油性ペンで直に大きく名前を書かないといけないという謎のルールがあって、バカバカしくなって辞めました。ラジオでも話されていましたが、補欠はずっとスタメンのことを見ているけど、スタメンは補欠のことを見ていない、みたいな非対称性がありますよね。

武田:いや見てないんですよ、ほんと。それが部活だけではなく、社会全体で起きていますよね。

マチズモと組織の関係。「なんでこんなことが起きるの?」ということが組織によってずっと続くのはなぜなのか

西口:「私という個人は社会ではないが、社会は個人の集積ではある」という言葉が、『マチズモを削り取れ』の「おわりに」にありました。そのあとに「ジェンダーにまつわる問題を前にすると、自分も含め、社会を生きる男性という個人の多くがバグってしまうのはなぜなのか、との疑問があった」と書かれています。

ここを読んで思ったのは、個人と、国などの大きな社会との間には、会社や労働組合、地域などでの小さな社会、組織があるということです。こうしたいわゆる「中間団体」としての組織が男性をバグらせている面がある。部活もそのパイロット版のようなものかもしれません。マチズモという視点でこの本を書かれて、組織ってどういうものだと思いましたか?

武田:組織って1つの人格があるわけではなくて、どんな組織も個人の集積で組織になっています。個人だったら「こいつを倒せばいい」「この人を説得してみよう」ってなるけど、1人で組織は倒せません。だからこそ、なにかを主張したときにのれんに腕押しになりやすい。問題があったときに、誰がその問題をつくったかわからなくなる、わからなくさせる、というのが組織というものですよね。

2021年の東京オリンピック・パラリンピックもそうでした。トラブルが起きて「あなたは以前、こう言ってましたね……」と訊いても「いや、俺じゃないっすよ!」となる。一方で、なにかがうまくいくと、「いやー、なんか良かったね! 俺たちね!」となる。血が通う組織と、まったく血が通わない組織を、同じ組織のなかでやり遂げてしまう怖さがある。組織のなかの人たちは、どっちでいくかを日々調整している。だから個人が組織を割っていくのは難しい。それが世の中の組織というものが堅苦しいまま維持されている理由の1つでもあるはず。「なんでこんなことが起きるの?」ってことが、組織によってずっと続いてしまう。どうしたら壊せるんですかね、組織っていうのは。

西口:やっぱり壊したい派ですか?

武田:いらない組織は壊すべきですし、問題があるのであれば、どこに問題があるのか抽出すべきです。でも、組織に問題がある場合って、その問題がある部分を抽出して掬い取るのは難しい作業になりますよね。

野村:そういう問題がある組織って壊れないんですかね。

武田:簡単には壊れないですよね。主電源みたいのがあれば引っこ抜けばいいんだけど、そういうのをあまり見せようとはしないので。主電源は隠したまま、もっと枝葉の、延長コードの責任にしたりするので。

西口:壊れるときは一気に壊れるけど、それでも最後まで壊れているのかわからない状態で維持されるって感じがしますよね。

武田:そうそう。組織を「いらすとや」のイラストにしたら、事務所で5〜6人並んでいるようなイラストになると思うんですけど、そのイラストに並んでいる5人を、1人ずつ倒していけば本来組織は倒れるはずが、どうも組織っていうのはそういうものではない。いらすとやみたいにハッキリと表せない。個人として1対1で話せばわかるけど、組織になるとばーっと液状化してバリアを張られる。「この組織なに?」みたいになったときに、もう自分が離脱するしかなくなっちゃう。そうするとその組織は当然そのまま保持されます。

だから『マチズモを削り取れ』のような本を会社員の方が読むと「そりゃお前、あんたが言うことはたしかだよ。だけど明日朝起きて会社行ったらまた違う話なんだよ」という感想が出てくるはず。実際にそんな声も聞きました。それでもやっぱり、状況を良くしていくには、政治の世界を変えたり、メディアの意識を変革したりする必要があると思います。自分ができることをしていくしかないんですよね。

武田砂鉄さんと長い話をする。男性なのに、ではなく男性だからマチズモを語る

いらすとやで「組織」と検索して出てきた画像の一部

「『よく女性の立場をわかっていて』と言われることもありますが、わかっているはずがないんです」

野村:以前わたしたちは『She is』というメディアを運営していたのですが、読者の3割くらいは男性でした。そのなかには、「男だから強くあれ」という風潮がずっと苦しかったとか、ホモソーシャルなやりとりが嫌だという人も、きっと少なからずいたのではないかと思います。

今苦しさを覚えている人は、ジェンダーを問わず存在していますよね。例えばまだ明確にマチズモに気づいていなくても、「あれは嫌だったかも」という経験をしたことがある男性たちが、マチズモを削り取ることで生きやすくなる可能性って、あったりしますかね。

武田:マチズモな社会に違和感を持っている男性は増えてきていると思います。増えてきているけど、例えば『She is』とか、me and youの記事を読んで、「ほんとそうだよな」って思って、夜寝て起きて会社行って、「おい早く営業成績上げろよ!」みたいなことになったときに、前日に読んだ『She is』やme and youの内容をとりあえず頭の隅っこにしまう作業をしないとやっていけない。でも、そうやって前日に得た成分を、どれくらい頭に残していくか、ですよね。特効薬はないので、積み重ねていくしかない。接触する機会、考える機会を増やして、頭のなかの成分の配分をじわじわと変えていくしかない。

ここ3〜4年くらいでメディアの状況もかなり変わってきていると思います。これを続けていけば、今20〜30代の人たちが会社のなかで意志決定をできる立場になったときに、頭のなかに備蓄されてきたそういう考え方を「現場にどうやって反映させればいいのか」と考えるようになる。でも、それを待っているとめちゃくちゃ時間がかかるから、個々人が、できる限りの力で発言していくしかない。「いつかは……」じゃなくて、目の前のことを1個ずつやっていって、そのいつかを早めに手繰り寄せるというか。

竹中:『マチズモを削り取れ』のなかで、男性がジェンダーの問題や男性優位社会などについて話したりすると、「女性の味方して」とか、すごくひどい言い方をされることがあると書かれていましたよね。

武田:ありました。本のなかにも書きましたが「チンポ騎士団」ですね。

竹中:そうでした。個人的には、男性もマチズモな社会に対する違和感についてもっと声を上げていいのにと思っているのですが、そのように言われることが増えると、より言い出しづらくなるのではと気になっています。

武田:SNSを見ていると、女性に対するバッシングが圧倒的に多いわけじゃないですか。自分は図体が大きいからか、声が低いからか、バッシングの声は少ないと思います。逆に言うと、「女性だったら突っ込んで言ってやろう」と思っている人たちがいるのではないかと。誰が言っているかをチェックしてから、なにをぶつけるかを判断している。卑怯です。

竹中:そうした動きはたしかにありますよね。ジェンダーのことに関して男性と1対1で話したときに「ああ、変だよね」「たしかにそうだよね」となっても、「ただ、発信するのはちょっと……」という感じが見受けられるときもあって、なんでかなと思っていて。男性にしか見えていない問題も存在していると思うので、もっと話したい人が話しやすい社会になるといいのですが。

武田:男性がジェンダーについて書こうとすると、まず女性のほうに歩み寄り、女性たちの理解を得てから、男性側を叩くような構図でやるもの、と思っている男性が多い。でも、「女性の許可取り」ではなく、すぐ近くに男性がいるんだから「これってどうなの?」「いやお前もそうだよ」「ああたしかに俺もそうかもしれないな」って隣同士で言い合えばいいだけの話。なのに、多くの人がジェンダーの問題だとまず女性側にご挨拶行かないと、みたいに思っているのが、よくわからない。その上で、「ああやっぱりこの問題について書くのは、言うのは怖い」とか言って終わらせる。なんじゃそりゃ、です。

こういう本を書くと、「よく女性の立場をわかっていて」と言われることもありますが、わかっているはずがないんです。自分は今まで男性として生きてきましたが、女性のことを、わかろうとはしたいけどわかりきることなんて当然できません。だから、男性である自分から見えることを書いているだけなのですが、その行為自体が「お前、あっちに肩組みに行ったんでしょ」みたいに捉えられるのは非常に不愉快というか、なんでそうなっちゃうのかなって思います。結果的に肩を組むことになった、ならいいと思うのですが。

ノリに同調したり、組織と自分を一体化したりしてマチズモに加担しないために。「あなたはどう思う?」

野村:マチズモが根強くはびこっている社会では、誰もがそこに加担する可能性がありますよね。その上で、武田さんや西口さんの話を聞いていると、男性が既存の「男性らしさ」によって支えられた関係性のなかで自分を位置付けようとすることは、マチズモに加担する1つのかたちなのかもしれないと感じます。そのなかで、「男性はこう振る舞うべき」という規範に根ざさない自己のようなものって、どうやったら持てるでしょうか。

武田:さっきの組織の話にも通じますが、組織のなかにいると「じゃあどうすればいいんですか?」という忖度のなかで最適な振る舞いを決めていくので、自分で考える頭がなくなってしまうわけですよね。繰り返しになりますが、ジェンダーによる不平等をなくして、平等でなければいけないというのは、基本的人権の話です。当然、真っ先に守らなければいけないことです。お風呂のなかでおしっこするのはやめましょう、電車に乗るときにはお金を払いましょうという話と変わらない、というかそれ以上に当たり前の話です。男性優位社会でさまざまな恩恵を受けている人たちが「男性も悩んでいるんだぜ!」と対抗馬のように持ち出しながら、わざわざ歩みを遅くする必要はありません。

野村:歩みを速めていく方法を考えたいですよね。ベル・フックスの『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』(訳:堀田碧/エトセトラブックス、2020年)を読んだときに、「男らしさ」と(特に思春期における)教育の関係性について書かれていました。西口さんにも聞いてみたいんですけど、お母さんがフェミニストだったんですよね。そのことが自分にどう影響しているか、感じることや考えることはありますか?

西口:母親がフェミニストだと意識したのは、たぶん中学〜高校生になってからです。印象に残っているのが、高校で仲の良かった友人に「やっぱり母親のことは守らなきゃな」と言われたことです。それを聞いて、「え!? お母さんを守らなきゃって思ったこと一度もないんだけど!」ってなりました。友人との「お母さん」像の違いに衝撃を受けたんです。

そのとき、「女性は男性が守らなければいけない」みたいな意識を持つかどうかは生育環境にもよるのだと知りました。母は精神的にも経済的にも自立した人で、子どものわたしにとって守る/守らないという対象でさえなかった。そう気づいてから理解は深まった気がします。例えば、うちでは子が親を呼ぶときは「お母さん」「お父さん」で、親同士は下の名前で呼び合っていて、たまに父が間違って母に対して「お母さん」と呼びかけると、すかさず母が「わたしはあなたのお母さんじゃない」と返す、というルーティンの会話がありましたが、それは母がフェミニストだからだとあとから理解できたり。

武田:出版社にいたときに取材で北朝鮮に行ったことがあって、帰ってきたらいろんな人から「怖い所だったでしょ?」と聞かれました。ところが自分の母親は「あなたは行ってどう思ったの?」と聞いてくれたんです。予想通り、積極的な感想を持てるような場所ではありませんでしたが、頭のなかにある「○○だったでしょ?」を投げてくるのではなく、母親は「どう思った?」と聞いてきた。思えば、ずっとこの感じで接してきたので、ありがたく思います。

男の人は座っていて食って飲んで、女の人があれこれ働いているような、正月の風景があるじゃないですか。自分はああいうのを1回も味わったことがないんです。ほんとに良かったなと思います。役割が決まっていると、「ほら、ずっと、こういうことになってるから」が繰り返される。そういう場で消えていくのが「あなたはどう思う?」っていう問いかけだと思います。

竹中:わたしは小中高と女子校だったので、大学で初めてマチズモによって支えられているコミュニティのノリに出あいました。集団におけるノリというものは、自分の意志とは必ずしも沿わない役割を与えられて、それに沿うことで成り立っているものだと思うのですが、いまだに苦手意識があってしんどくなります。家庭の教育が「男らしさ」を刷り込む環境ではなくても、高校や大学以降のコミュニティが影響を与えることもありそうです。

野村:イメージで話すのではなくて、自分で見て、自分で聞いてどう思うかっていうのは、その場のノリに同調したり、組織と一体化したりしないためにも大事ですね。

武田:どんな場面でも、どんな人でも、「どう考える?」「どう思う?」って聞けばいいと思うんですよね。「野村さんこうでしょ」とか「竹中さんこうでしょ」とかじゃなくて、「野村さんどう思う?」って言えば、相手はなにか言うじゃないですか。「うーん、別になにもないですね」というのもまた返事だし。それを繰り返すしかないんじゃないかと。

「コミュニケーション能力」って、いわゆる就活市場的なところでよく使われる言葉になりましたけど、あの能力ってつまり「最適解をすばやく出せるか」ということですよね。それって、そもそもコミュニケーションではないのでは? と思います。コミュニケーションって偶発的なものだし、その場その場でなにが出てくるかわからないことに対応していくってことだと思う。それはどんな人間関係だろうが学校だろうが職場だろうが、同じだと思うんですけどね。

武田砂鉄さんと長い話をする。男性なのに、ではなく男性だからマチズモを語る

話の途中でマイナンバーカードのキャラクター「マイナちゃん」の折り紙を見せる武田さん

西口:職場の会議でも進行役が「あなたどう思う?」って話を振るのが下手であること、よくありますね。なぜそうしないのかを想像すると、丁寧に話を振って出てきた意見や感想をまとめるのが苦手だから。「あなたどう思う?」って聞いていくと議論が複雑になっていって、収拾がつかなくなると思っている。相手の声に対して応答する責任も生まれる。そういう意識がなかったり、自分も聞かれてこなかったりすると、目の前の人に「あなたどう思う?」ってちゃんと聞けない人になっていくのかもしれません。

武田:それはなかなか直せないし、直そうともしないですよね。悩ましいところです。

マチズモではないやり方で自分の話を始めること、プレーのような会話を崩していくこと、長い話をすること

野村:自分がどう思うか話したり、相手がどう思うかを聞いたりということにつなげると、「自分の弱さややわらかい部分を男性と共有することは難しい。『負け』のような気がする」という話を男性から耳にすることがあります。そういう話を男性が男友達にすることは、なぜ難しいのでしょうか?

武田:自分は友達の総数がそもそも少ないってのもあるんですが、男性の友達があんまりいないんですよね。だから、男同士で集まって、強さにしろ、弱さにしろ、ぶつけ合うみたいな経験が乏しいんです。正直、男同士でなにを話しているのか、よくわかっていないところがあります。

野村:必ずしも男性同士で内面のやわらかい部分を喋ったほうがいいよね、みたいなことがすべての解答ではないと思います。その上で、1つそういうことをやってもいいんじゃないかなとも思います。

武田:もちろんそうですね。連帯する場がどんどん生まれるべきだって思うし、そういう場が生まれることによって、一人ひとりが口をあけて話し始める場面が増えればいいと思います。

西口:男同士が「自分の話」をすることがマチズモそのものであるという瞬間もたくさんあるじゃないですか。その兼ね合いが難しいなと思います。「男っぽい」コミュニケーションの仕方、話し方のなかのマチズモも削り取らなきゃいけないなと思うんですが、武田さんは、コミュニケーションのなかのマチズモはどういうところに感じますか? 『マチズモを削り取れ』の「会話に参加させろ」の章に、商社の食堂に潜り込んでランチ中の会話を聞くというシーンがありますよね。40代・50代の男性1人ずつと、20代と思われる女性2人がランチをしていて、ワシントンに出張に行くという40代の男性に対して、50代の男性が自分の経験を畳みかけるように披露し、女性たちが時折頷くといった描写がありました。

武田:ああいう場面って、一人ひとりに意思がないわけですよね。会話というよりプレーに近い。こういう役割で、こういうこと喋って、こういうふうに終わらせよう、みたいな。人間味がまったく感じられなかったわけですけど、でもそれって、すぐ崩せることじゃないですか。目の前の人を茶化さなくても、別の話題に切り替えることは誰にでもできるわけですよね。……今話している間にも、(ウェブカメラに映る)野村さんの後ろでおばあちゃんが多分、3往復くらいしてますよね。

野村:おばあちゃん、見えてましたか。

西口:最初から(笑)、気になってる。

武田:……と、どんな話でも、話ってこうやって外せるわけじゃないですか。ただ、ある程度顔見知りで、今、野村さんの後ろのおばあちゃんの話をしても大丈夫だろうとなんとなく思うからこそ、そういう話ができるってところもありますけど。

商社の食堂で同じ部署の4人でいるときに崩せるかって言ったら、「そりゃ崩せませんよ」になっちゃうし、崩そうとして「なにお前その話……」ってなったときの、シーンってなる感じが怖くて、やっぱりいつも通り飯食っちゃう日々が続いていく。その状況に対しても、「いや、でも崩せるよ」と言いたいんです。それでなにか変わるかもしれない。あるいはそこに行かないっていう選択肢もあるかもしれないし。どの瞬間、どのシチュエーションにも、別の可能性や選択肢があると頭に置いておく必要がありますし、それ自体が希望になります。

西口:そういう選択肢は、会社だけじゃなくて友人関係でもそうだし、恋愛関係でもありますよね。前に小川たまかさんと対談したことがあるのですが、来場した方の質問で、「対談のなかで男性と女性の見えている世界が違うって話がありましたけど、具体的にどういうところが違いますか」という質問が出て、わたしは具体例を即答できなかったんですよ。いまだにそれを思い出します。

『マチズモを削り取れ』は、寿司屋のカウンターでのやりとりや、公共トイレで立ってするか座ってするかなど、それぞれのエピソードがとても具体的で、それが「見えている世界の違い」を体験することなんだなと感じました。

武田:本でも書きましたけど、妻が「夜アイス買いに行けないんだよね」みたいな話をしてきたとき、ああそっか、この人は夜1人でアイスを買いに行けないんだと、あらためて実感しました。自分はアイスを買いに行こうと思ったらいつだって1人で行けるけど、彼女は行きたいと思わない。なんなんだろうこの違いは、と。これを些細なことにしてはいけないはず……という気づきから入りました。

OECDのランキング(※1)やジェンダーギャップ指数(※2)を考えることと同時に、「なんでこの人はアイスを買いに行けないんだろうか」と考えたくて、そういった取材や考察を積み重ねていきました。電車のなかで、寿司屋で、結婚式の打ち合わせで、そういう日常生活で発見できる部分、発見して考えなければならない部分がたくさん出てきて、それらを受け止めながら、拾いながら考えたかったんです。

西口:印象に残ったのが、中学生の頃に自宅マンションのポストで見知らぬ男に抱きつかれたという知人の経験談に対し、「大事に至らなくて良かった」と言ってしまった話でした。男である自分がついかけてしまった言葉が、すでに事態は起きているのに「最悪の事態」から逆算した言葉になったことを反省する部分です。そこを読んで、同じような状況ではないんですが、自分の記憶も喚起されて、これまで付き合った人との会話とか、かけるべきではなかった言葉を思い出しました。「今あなたが無事で良かった」という意図で言っても、相手はそういうふうには受け止めない。自分の経験を軽んじられたように感じる。それこそが見えている世界が違うことの端的なあらわれかなと思って。

武田:実際、玄関ポストで後ろから抱きつかれた人の思いは、その人と対話をしてもそれだけではわからないし、抱きつかれた人のなかでも記憶として強くなってしまったり、ある程度距離がとれるようになったり、変化することだと思うんです。だからその意味合いを、外から決めちゃいけないはず。今、「寄り添う」って言葉がやや安っぽくなってきていますが、その人と寄り添うのであれば、そういう経験がどう変化していくのかも考えなければいけないと思います。

「10年前だからそろそろ大丈夫だろう」ということじゃない。もし本人がそう言っていたとしても、外から決めちゃいけません。今回の本を書いて、そういう考えに至ることが多かったですね。勝手に外から歴史化しない、というか、今、この人にとってこういう位置付けなんだろうって勝手に決めない。よく、#MeToo などの話のなかで「なんで今頃?」とか「どうして直後に言わなかったの?」といった、乱暴な見解で挑発する連中が出てきますけど、これこそ、外から勝手に決めている状態です。その人の頭のなかでどういう変動を遂げるか、変動する可能性があるものだっていうことさえ、考えていないわけです。この乱暴さをなくしていかなきゃいけない。今笑っていても、5秒後に辛さが戻るかもしれないと、外にいる人は思ってなきゃいけないですよね。

竹中:わたし自身も、過去に誰かに言ったことややってきたことを今思うと、なんであんなこと言っちゃったんだろう、傷つけてたよねと思うことが多々あります。それをなかったことにせずに、振り返ったり反省していったりすることが大事だなって思っているんですけど、そうした意識を人々が持ち続けるためにはどうしたらいいんですかね?

武田:そうですね。最初から話していることですが、「長さ」でしょうか。『She is』があれだけ受け入れられたのは、話の長さ、しつこさだと思うんですよね。

野村:そんなに長いですかね……(笑)。

武田:長いと思いますよ。それはすごく重要なことだと思う。すべてにおいてそう思っています。結論をすぐに出さないとか、「また今度話そうよ」とか、しつこく考える。

野村:それって、子どもの頃に感じていた「校長先生の話が長い」っていうのとはまた違うものですよね。

武田:まったく違いますよ。校長先生の話って途中から割り込めないから。あれは、「先生はそう思うかもしれないけど、わたしはそう思わないですけどね!」とかって言えないやつだから。長さの質が違う。

野村:言いたいことを一方的に伝える長さではなくて、「話が尽きないよね」って感じ、なんですかね?

武田:そうですね。 ああもうこんな時間だ、また今度続きを、って感じを大事にしたいですね。

※1:2020年に発表されたOECD(経済協力開発機構)における日本の男女の賃金格差はOECD加盟国のうちワースト3位。
※2:世界経済フォーラムが毎年公表する各国における男女格差を測る指数のこと。「経済」「政治」「教育」「健康」の4つの分野から作成される。2021年に発表されたジェンダーギャップ指数では、日本は156か国中120位となった。

武田砂鉄

1982年、東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年よりライターに。『紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす』で第25回Bunkamura ドゥマゴ文学賞受賞。他の著書に『日本の気配』『わかりやすさの罪』『偉い人ほどすぐ逃げる』『マチズモを削り取れ』などがある。TBSラジオ『アシタノカレッジ』金曜パーソナリティを務める。

『マチズモを削り取れ』

著者:武田砂鉄
発行:集英社
価格:1,760円(税込)
発売日:2021年7月5日(月)

マチズモを削り取れ│集英社

『今日拾った言葉たち』

著者:武田砂鉄
発行:暮しの手帖社
価格:1,870円(税別)
発売日:2022年9月20日(火)

『今日拾った言葉たち』│暮しの手帖社

『べつに怒ってない』

著者:武田砂鉄
発行:筑摩書房
価格:1,760円(税別)
発売日:2022年7月14日(木)

『べつに怒ってない』│筑摩書房

『わたしとあなた 小さな光のための対話集』

編集:me and you(野村由芽・竹中万季)
発行:me and you
価格:3,850円(税込)
発売日:2022年8月20日

『わたしとあなた 小さな光のための対話集』│me and you little magazine

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