よいお年を、って挨拶のことたぶんいちばんに好きだな挨拶の中で、って よいお年をって言い合うたびに思って過ごしていた12月の最後のみじかい何日間かのこと。明けましておめでとう、はわかりやすく晴れやか。川上弘美の『おめでとう』を今年もまた読まなくちゃ、何回目だろう。実家で年を越しました。初日の出は屋上から見られる、そのことを20年以上ここに住んでいて「初めて知った」って父が言うから、すかさずにわたしは「そんなわけない」と言って その、そんなわけないどこかのあたらしい年に見たであろうほとんどないことになっているこれまでの初日の出のことをあることにした。憶えていないけどきっとそうだと思う。父と母はそんなことはどうだってよさそうで、わたしにとっても遠からずそうで、三人でくっつきながら見た。布団を剥いで代わりにコートと靴下、を重ねただけ、あとはパジャマのままだからとにかく寒い。でも見られてよかった。
そうしたらちょうど、昨日、おおよそ一年振りぐらいに連絡のとれた友だち(返事が返ってこなくても、生きていてくれたらそれでいいよと思っている)から写真が届く。初日の出かなと思ったら 朝、帰省するバスの中で見た、日が出る前のうすあかるい海の写真で、すこし笑う。うれしい、送ってくれて。らしいなあと思って、でも笑ったことは黙っておいて、きれいだねえありがとうと伝える。
お節の並べかたは毎年むずかしい。クリスマスツリーがまだ出ている元旦。兄夫婦に会うのは2021をすっとばして2022になっていた。二人が飼ってるねこを連れてきてくれた。触るとかゆくなるから遠くから見ているだけで良かったのだけれど、触れるかもと思って触ったら触れた。かわいい。ねこの触りかたがわからなくて猫見知りしてしまうがかわいい。二分近く撫でていても嫌がったりしない。にんげんの足を枕にして寝始める。そんなことされたら生活全体が ねこ ねこ ねこ ねこ になってしまう。すごい生きもの。ほんとうにかわいい。
緊張するといつまでもまるでしゃべらない置物みたいになってしまうのはいつかそうじゃなくなるとき、や、できごとがあるのだろうかと思う。
日がおちる前に一人で多摩川まで散歩、母に借りたなぞの柄の靴下やかばんやストールで誰にも会いたくないような格好。すごく寒い。真冬のやや白くなった市民プールを見るのがずっと好きだな。
夜、遅くなっちゃった、月末にひかえている展示の電話会議。昨日撮った告知用の写真をどれにしようかって決める、決まる、はずだったのだけれど、二人してどんどんわからなくなる。結局今日は決まらなかった。でもその、わからないことを二人でわかる、ところにもっていく作業(けっしてつめたいものではなくて)をたのしんでいる。なにもかも、きわめて些細なことでも、それを二人で、どう思いますか? って確認し合いながら進めていくのは時間を要することでももちろんあるけれど、そのやりとりに、たがいに頷き合えているうれしさがある。がんばりましょうね。
あたらしい年のはじまりの日にたとえば抱負、なるものを打ち明けることがあんまり得意ではない(抱負って名詞がそのあと掲げる、っていうでかでかとした動詞を連れてくる様子や、たいそう立派な旗を振っているさま、がみえるからかもしれない)のだけれど、生活を気に入りたい、っていう気持ち、というかテーマが年末あたりからうろうろしていて、それかもなあと思う、胸のなかで。生活っていうのはぜんぶを指してる。ぜんたい的な生活。