ファラオ(猫)が甘えて近寄ってくることはほとんどない。
毎朝目を覚ますと、彼は妻の顔を枕にすぴーと寝てる。妻がソファに腰掛ければ「待ってた」と言わんばかりにすぐに彼女の膝に飛び乗ってニャンモナイトする。彼女がトイレに行くと、トイレのドアの前にちょこんと座って出てくるのをずっと待ってる。
そんな姿を横目で見つつ嫉妬を覚え、追っかけて無理やり抱っこしたり、寝ている隙に身体を撫でに行ったりする。
今日は妻が外出して一日家にいない。
チャンスだ。
ソファの妻の定位置に座り、寝ぼけて勘違いして膝の上に来てくれないかなと願う。お昼休憩のときも同じ体勢でスタンバイするけれど、窓辺のキャットタワーの上でツチノコのシルエットで寝始めてしまう。
夕方。そろそろ冷えてきたし暖をとりに近寄って来てくれるだろうか。そんな期待を完全にスルーして、エアコンの前のお気に入りのクッションにゴロンと転がる。まぁそうなるだろうなと思っていたけど。夜遅く帰ってきた妻がドアに鍵をさした瞬間、目を見開いて一瞬で覚醒モードになり、玄関まで猛ダッシュして迎えにいく。
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昔受けていたカウンセリングのセッションで、自分は他者の期待に過剰に応えようとする傾向があると知った。タチが悪いのは、その裏返しに他者への期待が膨らみ過ぎてしまうこと。何時に帰るね、と聞けば、自分はそれに合わせて自分の予定を組み替えたり、ご飯の支度をしたりする。だから、何時に帰るね、と言えば、相手が同じように考え、行動することを期待する。家族に対しても、友人に対しても、仕事相手に対しても根本は同じだ。少し前に「少ない口数や仕草などの、わずかな発信をもとに、空気を読んで自分が望んだことをしてほしいと願う」のは、力や権力があるが精神的に未成熟な中年男性がやりがちな「甘えた」コミュニケーションだ、と指摘している本を読んで、自分もこれかと本から目を背けた。
ファラオとのコミュニケーションが面白いのは、自分のそうしたこころのクセが一切発動しないこと。彼は自分にとって初めての一緒に暮らす動物だけど、自分の期待には一切応えないことはすぐに学んだ。そして、期待をしない、答えてもらえない、という関係性は、むしろ解放的でいとおしくもあるのだと気づく。昔読んだ小説で、手術後に昏睡している知り合いにずっと話しかけ続けている描写があって、その“一方通行”をとても美しいと思ったことも思い出した。
とはいえ、ファラオはきっと、自分にたくさんのシグナルを送っている。私はまだそのシグナルを受け取れていない。妻は、とても少ないシグナルで体調の変化を掴んでいる。食欲、歩き方、うんち、睡眠、毛つやを丁寧に観察している。「もっと食べな」「どうした?」「危ないよ」「鳥見える?」と話しかけ続けている。ファラオの伝えるメッセージを受け止める回路が育っていけば、妻がそうしているように豊かなコミュニケーションを取ることができるだろうか。必ずしも応答がなくとも豊かである、という美しい状態を保ったままのコミュニケーションを。
書斎でものを書いていると、ファラオがドアの隙間からスッとこちらを見ている。目が合うと踵を返して視界から消えていく。
きっと横目で存在を気にかけてくれる。無理にこの距離を詰めようとさえも思わないほうがいいのだろう。でも、やっぱりいつか自分を枕にして寝て欲しい。

