部屋が震えるような響きがあってそれから乾いた強い打撃音がしきりに鳴って、上の階で工事がおこなわれているようだ。昨夏引っ越してきたときに挨拶をしたときに来年キッチンのリフォームをしようと思っていると言っていたその部屋のそれなんだろうと見当はついているがもう一週間くらい続いていてそろそろ終わってほしい気はする。僕はまだいいが在宅で仕事を続ける遊ちゃんは連日その音に悩まされている。完成したら見学させてほしいくらいだ。ピカピカのキッチンを見てみたい。
先々週とかから毎週1日はいくらでも寝ていい日みたいな日を設けるようになっていて今週は今日がそれで、だからいつまででも寝ていようと思っていたのだがこんな音が鳴っていたら眠れるものも眠れない、と思っていたらまた眠りに落ちて俺の眠気は堅牢だ。それで次に目が覚めるところまで寝て目が覚めると布団にくるまったまま頭は日記のことを考えていて昨日の夜に今日の日記を書いて寄せてもらえないかという依頼をいただいて日記は身構えた状態で書きたくないんだよな、それに今日はひたすら眠って起きて夕方から遊ちゃんとご飯に行くという日でそんなに書くこともなかろうしなとか、誰に何を言われなくてもどうせ書く日記なんだから書き終えたあとに依頼があったら僕にとっては都合がよかったなとか、そういうことを思うがそんなのは僕の勝手だ。
しかしただ日記を寄せるだけなら僕はいつもどおりに書いてそれを渡すだけだが日付は3月11日で企画書には「2011年3月11日に東日本大震災が起きて、今年で11年となります」とあって3月11日の日記を書かせるというのはそういうことだよなと思う。でも本当にそうなのかとも思う違和感みたいなものもあって日記というフォーマットが本来持つこれ以上なく自由であっていいはずの思考に幅寄せされているような窮屈さも覚える。さらに「ずっと考え続けている人、忘れてはならないと考えている人、忘れることができない人、忘れたい人、さまざまな人がいると想像します」と続いて果たしてこの中に僕は含まれているだろうか? 僕はきっと「距離の取り方がずっとわからない人」で2011年の3月11日は僕は岡山で暮らしていて気持ちがダメになって会社を長期欠勤しているさなかで薄暗い部屋でソファの上で丸まって煙草を吸いながらパソコンをぼーっと見ていて開いていたTwitterを通して地震を知った。たくさんの心配をしたりたくさんの胸が詰まるような思いをしたりしていたけれど、だから僕は僕なりのアクチュアルさで震災の時間を生きたし震災後の時間を生きているのだと思うけれど、でもどこかに、それに参加していない感覚がずうっとどこかにあったというのが偽りのないところでこの震災は日本国民というか日本市民か、日本の土の上に暮らしている人たちの共通の記憶みたいなことになっているけれども少なくとも僕のいた地面は揺れなかった。どこかでうっすらと「東京が揺れたから、そしてそれから東京が慌てたから、ナショナルな記憶になっているんでしょう?」というような感覚がある気がしていて熊本の地震も真備の水害もそれを念頭に置いたテキストの執筆がそこやそれに何かしらのゆかりのあった人以外に果たして依頼されるだろうか? 東日本の大震災であれば日本の市民であるならばアプリオリにゆかりがあるとされる感じ、何かしらのアクチュアリティを持っているものと無邪気に措定される感じに何か脅威を覚える感覚を僕はずっと持っているのかもしれない。少し間違えたら仲間はずれにされちゃいそうなそういう感覚。みたいなことを日記に書いたら攻撃的になっちゃうかな、と考えながら頭はぐるぐるとそういうことを考えていて枕の横には吉田健一があってそういえばこの本の中でも東京が日本をレペゼンするなんてそんなことは違うだろうみたいなことが書かれていたような気がしてあれは民子がタクシーに乗って東京を走っているところだったろうか。夜のあとに迎えた朝に丹波さんはいつもどおりに民子に接して民子は出掛けてくると言うとどこかにご飯を食べに行ってその帰りの車中でそういうことが書かれていたような気がして布団の端に置かれている本を取って探すが見つからずにすぐに諦めてちょうどよさそうなものを引用するために本を探すなんていうこれだから身構えた状態は嫌だなと思う。それでそのまま昨日の続きを読んで、読んでいたのは中川が縁日めいたところを歩いているところで「東京の縁日もその頃は繁盛していたに違いない」とある。
併しこれはヨーロッパの十八世紀というのが一種の黄金時代に思われて来るのと理屈は同じである。一体に昔というのは美しいと思うことが出来ればいいのでその方がこれを暗黒と見る野蛮人の状態よりも遥かに増しであっても一つだけ昔が今に及ばないのは今が昔と違ってここにあるということに掛っている。その今の生成を見る方が手ごたえがあった。或はもっと率直に言ってその方が楽めた。
吉田健一『本当のような話』(講談社)p.189
身構え始めるとこんな引用すら何か思わせぶりなもののように思えてきて手に負えなくなる感じがあるが中川が事務所のビルに着いたところで僕はまた寝た。
ぐっすり眠ってさて何時だろうと思う、3時とかだろうかと思いながら起き上がって部屋に行って時間を見れば12時46分とあってまだそんなものだった。先週や先々週よりはずっとしゃっきりしている感じがあってこれは今週の節度を保った酒量の効果だろうか、あるいは意外に続いているプランクの効果だろうか。ともあれ得した心地で外に出てふらふらと歩いていると通り過ぎた自転車のチャイルドシートに乗っていたちびっこが「飛行機雲!」と言ったので見上げたら飛行機雲があって、それ以外の雲は見当たらない空にはうっすらと月も見えた。
うどんを茹でて食べた。また眠くなった。ソファの上で丸まって今日しないといけない仕事をしないとと思いながらパソコンをぼーっと見ていてすると遊ちゃんが部屋に来て「2時46分だよ」と言って今ちょうど外で何か放送が聞こえたのはそういうわけだったかと思う。黙祷をして、祈りとはなんだろうと思う。やはり眠気が強いので家を出る時間まで眠ることにして布団に潜り込むと民子は内田さんと中川を呼ぶ晩餐のためにシェフと料理を決めたり酒を決めるために酒倉に行ったりして「民子はそこに降りて行く時だけ富というものを感じた」とあって俺も富を感じたいと思いながら眠ったのだったかどうだったか、とにかくすぐに寝入って電話の震えで目が覚めて眠いし知らない番号だから出ないでいいかとも思ったが何か感じるものがあったらしく出たら税理士の榎本さんだった。確定申告の書類を見てくださったらしくだいたいこのままでOKだということでありがたい。ぼやぼやしているうちに申告期限がずいぶん迫ってしまって早くやらないとと思う。
遊ちゃんと出ると外はまだ明るく暖かで、すっかり春だねえと言いながら歩いて気持ちがいい。Gatherのことを教わったりしながら歩いてちょうどいい運動になるような距離の散歩になって青のことに着いた。こちらは半地下になっていて中に入ったら土と青と同じトーンの内装でビールを頼んだ。このお店の方は同じ年代なんだろうか、土と青も青のことも掛かっている音楽が何かちょうど世代という感じがあって今日はNujabesがたくさん掛かっていて「Luv(sic) Part 2」が聞こえた瞬間に一気に大学時代に戻るようだった。クラブでこれが掛かったらなんかそれはアンセムだったよねという感覚があって、だけどそんなに行っていたわけじゃないし、そしてこの曲が流れたことなんて本当にあっただろうか、ともかくそのあともtoeとかが流れてことごとく懐かしかった。ポテサラと刺し身の盛り合わせと葉わさびの醤油漬けとかを頼んで掛かっている音楽の話をしている中で遊ちゃんはここ数年で知ってこれから先もずっと聞きそうな音楽ってある? と聞いたらチック・コリアとToiToiToiと寺尾紗穂だと言った。寺尾紗穂には「カンナちゃんはどこかな?」と歌う曲があってカンナちゃんにそれを教えたという話を聞いていたら何かが極まったらしくて僕はハラハラと涙を流して頬が濡れて誰にもいなくなってほしくなかった。僕はそれは濱口竜介の『親密さ』を見たあとにしゃくりあげるように泣きながら強く思ったことでだからあの夜からずっと続いていた。
ビールの次は遊ちゃんを真似してレモンサワーを頼んでみたらかなり硬派なレモンサワーで甘みはゼロだ、ぶつ切りにされて凍ったレモンが入っていてそれを溶かしたり箸でつついて「風味よ溶けろ〜」とやったりしながら飲んでいてふろふき大根の唐揚げとかはまぐりと新わかめの酒蒸しとかウルイとホタルイカのヌタとかを頼んで土と青と同じでどれも本当においしくて口の中が全部おいしい。隣のテーブルの中年の男性と女性は同僚とかだろうか、最初から関係性がよくわからないなと思いながら別に関係性がわかってもわからなくてもそんなのはもちろんよその席のことでなんでもよかったのだが男性は11年前の3月11日の話をし始めてビルが揺れてエレベーターからずっと変な音がしていた。それをけっこう張り切った高いテンションで話していてこれはまずいと思った僕はそのとき話していた話でかぶせようと口調と勢いを強めて話してみたがもう遅くて顔を上げたら遊ちゃんがハラハラと涙を流している。そうだよね。そうだよねと思って「そうだよねえ」と言って、遊ちゃんは「条件反射なの自分でも今でもこんなふうかと思うんだけど」と言ってそうだよねとしか僕は言えなくて遊ちゃんは11年前のその日福島県の大学生として福島にいた。同級生のマンションに数人で集まって10日間過ごしたあと埼玉だったかに避難した。自分は逃げたんだという意識がずうっとあってくどうれいんの『氷柱の声』を先日読んでその時の自分の選択を少しだけ許せるような気持ちにやっとなれてそこまで11年が掛かった。
幸い隣のその話は程なくして終わってくれた。
3杯目からワインを飲み始めて遊ちゃんは次は福島の日本酒を頼むんだと軽やかな口ぶりで言って、だけどそれを忘れてまたワインを頼んだことに気がつくと次こそは福島の日本酒を頼むんだとこだわってそれは遊ちゃんなりの向き合い方というか祈り方だった。僕は白、オレンジ、赤と節操なくワインを飲んで新玉ねぎのバター醤油蒸しみたいなやつとか新わかめの生姜煮とかジャコのチャーハンとかを食べてやっぱりずっと口の中が全部おいしかった。遊ちゃんは最後の一杯に日本酒を飲んだ。僕もひと口いただいて甘くておいしかった。
青のことも土と青も調布に暮らしている限りこの先何度も来そうな気がして好きな店を見つけられてうれしく、店を出ると気持ちのいい夜気で手をつなぐと歩きだした。
難しかった、と遊ちゃんは言った。僕は隣の話がもう少し続いたら声を掛けてその話をやめてもらうべくお願いしようと思っていたと話した。遊ちゃんはそれに反応してそれは傷つきの押しつけでそんなのは無理でしょう、目黒川が逆流していたとか笹塚が人がすごかったとかあの人にとってのアクチュアルな体験だったわけでそれをやめさせることなんてできないでしょうと言ったが僕の考えはもっとシンプルで遊ちゃんのアクチュアリティもあの人のアクチュアリティも言うまでもなくそれぞれに完全にアクチュアルなものでそのアクチュアリティに優劣をつけて押し黙らせる気なんてさらさらなくてただ伝える、打診する、落とし所を見つける、つまり人と人が話すというそれだけだ。
あの、お話の途中すいません、妻は福島の大学生として福島で震災を体験したんですけど今そのお話が聞こえてきてダメージけっこうきついみたいで、もしよかったらやめてもらうことって可能ですか? というリクエスト。遊ちゃんはいやいや難しいでしょうそんなのは傲慢でしょうその話やめてくれませんかとかそんなの言えないでしょうと言って遊ちゃんの「その話やめてくれませんか」は強い語気のものになっていてこのとき遊ちゃんは僕の問いを詰問として上書きしている。それはあの場で泣いていたときそういう心地が否応なくやってきたのだろうからしょうがなくてここにこそ僕の存在する価値があるのかもしれない。そのあいだに立つこと。そして遊ちゃんにダメージを与えたなんの悪気もないもちろん罪もない会話を暴力にしないためにこそ問いがあるのかもしれなくて問いへの答えはOKでもNOでもどちらでもよくて相互理解が始まるとしたらこの地点からしかないだろう。NOの場合で僕が想定しているのは「なるほど理解しました、しかし申し訳ないとも感じるがそれには応じることができなさそうです、なぜなら今この話をすることが自分にとってもとても大事なことなので」「なるほど理解しました、僕はあなたがこの打診に無思考で屈することなく大事な話だからやめることはできないと言ってくれたことを今とても嬉しく思っています、ありがとうございます、一方で僕たちはやはりこの話を今聞き続けることは望めないことなので席を移ることにしますね」、これを僕は朗らかなやり取りとして考えていてこれを僕は完全な和平のあり方だと思っていてこれを僕はこういうコミュニケーションを人としたいと希求しながら生き続けているような気がしていて人と了解を取り付けながら生きたい。
とは言え遊ちゃんが言うようにいくらフラットに問うと言っても泣きながらされる打診はずいぶんなパワーを持っちゃってフラットでなんていられないだろう、十中八九は何かモヤッとしたものを感じながらの渋々のOKになってしまっただろう、NOなんてまず出ないだろうし出た場合は諍いに近いものにきっとなるだろう、だから描いたこんなコミュニケーションなんて絵空事ではあるのだろう。だけどそれでも絵空事が実現される可能性は常に開かれていてそれを祈って僕は跳躍したいのだろうなと思う。
夜道を並んで歩いて話しながらそのとき思い出していたわけではないけれどこうやって書いていると僕はまた『親密さ』をなぞっているのかもしれないと思って「あなたはわたしではないですか?」「いいえ、違います」「ではあなたは誰ですか?」というインタビューの始まりを今思い出している。「大切なものってなんですか?」という問いを今思い出している。暴力の胞子を暴力にするのは、と衛が書いた詩を今思い出している。今日ずっとある早口みたいな書き方も衛の詩なのかもしれなくて勢い余って唾が飛んで舌がもつれて咳をする。
もう一本飲もうよと言って遠回りしてコンビニに行って僕はサッポロだ。岩手のビールが見えたので「岩手だ」と言ったが遊ちゃんはその横にあったキッコーマンの豆乳シリーズにオーツミルクの商品があることを面白がっていて郷里のビールには反応しないでサッポロを選んだ。
飲みながら家に帰って暗いリビングに遊ちゃんは腰を下ろして黒い影になった、僕は廊下とリビングの境界に立って二人は話した。誰かが覚えた痛みについて。それを一人称単数で語ることについて。今日ずっとしていたのは震災の話ですらなくて一人の痛みについての話であり相互理解の可能性についての話だった。
それで僕は先にシャワーを浴びた。プランクは今日は休みにして布団に入ると吉田健一を開いて民子たちの夜もまた進んでいった。
民子は内田さんと中川を前に置いて自分も飲んでいて何となく翌日の朝のことが頭に浮んだ。もし晴れていればそれは春の朝で涼しい中に木の葉が静かに光っている筈で雨が降っていれば雨だれの音が聞えてどこを見ても灰色の春の朝も民子は好きだった。ただ曇っているだけならばその時冬の寒さを思い出して春を感じた。今は夜で客は楽しそうだった。その晩は成功だったということが頭のどこかで意識されたが現に成功している時にそれを思うことが何になるのでもなかったから直ぐに頭から消えた。今度は夜は長いということが強い感じで夜とともに伸びて行った。それが明けるということがもう考えられなくて灯架の光がいつまでも部屋の壁を照し、中川も組み合わせている足が卓子の向うに斜めになり、内田さんが自分に話し掛けたり中川の方に眼を向けたりすることが終ることがないようでそれが苦になるのではなくて民子もそれを望んでいた。
併し車の音が外の車廻しの砂利道に聞こえた。
同前 p.220,221
民子たちの夜が終わろうとしていて僕は僕で眠くなって眠り、遊ちゃんは眠りに落ちた僕の横でくまざわ書店のカバーが巻かれた『長い一日』を少し読んでやはり眠った。