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同じ日の日記

陸前高田、名前をなぞる指先/瀬尾夏美

2022年3月11日(金)の日記

毎月更新される、同じ日の日記。離れていても、出会ったことがなくても、さまざまな場所で暮らしているわたしやあなた。その一人ひとりの個人的な記録をここにのこしていきます。2022年3月は、2022年3日11日(金)の日記を集めました。東日本大震災のボランティアをきっかけに陸前高田に移住し、その後、仙台を拠点にして、変わりゆく風景や人々の言葉、語りを記録し、絵や文章をつくっている瀬尾夏美さんの日記です。

2022年3月11日は金曜日で、わたしは陸前高田にいた。

実はわたしは、前の年の3月11日以来しばらくこのまちに来ていなかった。
今年の2月末に一度、友人を連れて訪れたのだけれど、その日は恐ろしいほどの大雪だったので、滞在時間はたった2時間だった。
そして今年の3月10日から二泊三日、一年ぶりに陸前高田でゆっくり過ごした。
そんなに長い滞在ではなかったけれど、懐かしい顔との再会がたくさんあり、嬉しい時間だった。

わたしは震災から一ヶ月後に、ボランティアで初めてこのまちを訪れた。当時はまだ美大の学生で、同級生だった小森さんとふたりで通っているうちに、風景に惹かれるようになり、一年後にふたりで引っ越した。
その頃のわたしは自分が何をしたらよいのかもわかっておらず、日々、被災跡を散歩して風景を写真に撮ったりスケッチをしたり、行きあう人に話を聞かせてもらったりしていた。
ここにあったものを知りたかったし、大きな被災の後で、再び暮らしを立ち上げていこうとする人たちの手つきをよく見ていたかった。
目の前で起きていること、存在するもの、聞かせてもらう語りが、わたしにだけではなくてこの社会にとって、きっと大事なものなんだ、という実感だけははっきりしていた。
だから、そのすべてをいますぐに理解することはできなくても、せめて忘れないでいたいと思い、ツイッターに綴るのが日課になった。
毎晩、家の近くの山道を1、2時間かけて歩きながら綴る。鹿の鳴き声が響く静かな暗闇が好きだった。

そのうちに仮設店舗で営業していた写真館で働くようになり、町中の学校を巡って卒業アルバムのための写真を撮った。こちらを向いてポーズを取ってくれる子、話しかけてくれる子もいれば、逃げ回って顔を隠す子もいる。わたしは全員の顔と名前を覚えるくらい、彼らの写真をたくさん撮った。
店に戻れば、震災で亡くなった人たちの遺影を作るのが主な仕事で、依頼をしてくれる人たちから、大切な人との思い出話を聞かせてもらうこともあった。
その写真館の店主は、津波で家族を失いながらも店を再開し、まちのリーダー役としてもいろんなことを引き受けている人だった。忙しそうな店主を手伝いたくて、わたしもよく働いた。
毎晩のように、店主はおいしいご飯を作ってくれた。そして、酔いがまわると、発災当時のことや失ったものについて切々と語り、ときには涙を流した。
まだ幼いわたしは、ただ相槌を打つことしかできなかったけれど、その場に自分が居させてもらえることが嬉しかったし、すくなくともその気持ちは伝わっていたような気がする。
だから店主は、気の利かない聞き手に、いろいろ話してくれたんだと思う。

店主はそのうちに身体を壊した。写真館の事務員さんから、店主が倒れたと連絡をもらって病院に行った。寒い冬の日だったと思う。
青白い顔をした店主は、おれ、夜になると、津波に巻き込まれた後輩を探して、院内を歩き回るらしいぞ、と話した。たしかその数日前に、行方不明だったもうひとりの友人の遺骨が見つかったと聞いていた。
あとひとり。あとひとり。あいつをちゃんと見つけてやるまではおれは死ねないぞ。店主はそう思っていたのだろうか。当時のことを振り返るとき、わたしはそんな想像をする。

そのうちに、まちの人びとが病室を訪ねてくるようになった。
今日はあいつが来て、一緒に泣いてくれたぞ。まるで生前葬をしてもらったみたいだよ。仕事帰りに見舞いに行くと、店主はどこか晴れやかな顔で、そんなことを話した。
最後の一年、店主はよく笑っていたと思う。もしかすると人生の残り時間が定まって、開放感のようなものもあったのかもしれない。遠方で働いていた息子さんが帰ってきて写真館を継ぐことになったのも、すごく嬉しかったはず。
たしか夏頃には自宅療養に切り替えて、店にもよく顔を出すようになった。そして、訪ねてくる友人たちに、もう最後かもしれないぞと冗談を飛ばし、一緒に写真を撮っていた。わたしもときおりそこに混ぜてもらった。

店主が亡くなって、そのあとも一年くらいその店で働いて、わたしは仙台に引っ越した。
店主はわたしに、このまちの人間になるなよ、とよく言っていた。絵でも文章でも、何かを表現する人間なら距離を取れよ。
それはカメラマンだった店主の実感でもあったと思う。対象に近づきすぎると、写真はぼやけてしまって写らない。だから適切な距離を取って、時には周りを見渡して、そして対象をじっと見つめる必要があるんだ、と。

仙台で暮らすようになってからは、月に一度くらいのペースで、陸前高田の仲間たちと「てつがくカフェ」という対話の場を企画して、それを口実に通った。
相変わらず、散歩をして移り変わる風景を写真に撮ったり、お世話になった人たちに会いに行って話を聞いたりして過ごし、気になったことをメモしていく。そして、店主のお墓に花を手向けに行った。

月日が経つにつれて、自分のできることもすこしずつわかってきた。距離を取れ、という店主の言葉の意味も徐々に実感できた。ときおり訪れるからこそ見つけられる変化というものがあるし、住人でないからこそ聞ける話がある。
風景を見て、話を聞いて、この土地で起きていること記録する。そして、遠い場所や時間へと手渡すこと。わたしは“旅人”として、このまちを訪ねつづけようと決めた。
ゆっくりとではあったけれど、まちの人びととの関係も濃くなって、協力してもらいながら作品をつくれるようになった。そうしているうちに発表の機会をもらえるようになり、小森さんと連名のユニットとして、映画や展覧会をいくつもつくった。

陸前高田、名前をなぞる指先/瀬尾夏美

2013年8月7日、うごく七夕祭り(撮影:大坂淳)

さて、なぜこんな風に、ここで過去を振り返っているのかはよく分からない。
おそらく久しぶりに訪れた陸前高田が、すごく懐かしかったからだと思う。今回はたった三日間の滞在だったけれど、いろんな人に会えた。コロナのことがあるからどうしようかと迷いつつも、お世話になっているじいちゃんばあちゃんたちが元気かどうかちょっと心配だったので、それぞれ顔を見に行った。みんなが元気でホッとした。

たとえば11年という時間が経つと、69歳で被災したじいちゃんが80歳になる。3月10日、まっさきに大好きな農機具屋さんを尋ねた。2011年当時、このじいちゃんは、仕事はあと5年頑張る! と宣言していた。そして2016年には、あと5年延長だな! と話し、11年経った今日も変わらず楽しそうに仕事をしていた。
たしか最初の4年くらいは、被災した店舗跡に建てたプレハブで店をやっていた。奥さんは、友人たちとその周辺の集落跡を耕し、広く花を植えて大きな花畑をつくっていた。この場所にはね、亡くなった人も通りすがりの人もここにはいない人も、一緒にいられるのよ、と教えてくれたことがある。わたしもこの場所が好きになって、仕事帰りによく立ち寄った。
そのうちに復興工事が始まった。被災した町跡に土を盛って嵩上げをし、新しいまちをつくるというのが陸前高田の復興計画だったので、店も花畑も撤去をすることになった。
復興工事がすぐそばに差し迫るなか、ばあちゃんたちは希望する人に花をどんどん分けた。だから、実はこのまちだけでなく日本中のあちこちに、今もこの花畑の花が咲いている。
その後、じいちゃんは高台にプレハブを移して店を続けた。嵩上げで出来た新しい地面の上に店舗を構えたいと話していた時もあったけれど、本設店舗はつくらずに、今も仮設のまま営業している。
ご自宅は、もとの店からすこし上がった高台に再建して、娘さんと三人暮らし。庭にはもちろんあの花畑から持ってきた花が咲いていて、花畑を一緒にやっていたみなさんともご近所さん同士になっていつも行き来している。

話があちこちししまったけれど、やっと今年の3月11日のことを書きたい。

その日は晴れて、穏やかな青い空の朝だった。
小森さんと一緒に軽バンに乗って出発。

朝10時。新しい市役所でF夫妻と待ち合わせ。
ひさしぶり、一年ぶりだねえという明るい声が聞こえる。この数年、ふたりとはこの日に会うのが恒例になっている。
建物の前には、津波で犠牲になった市職員の名が刻まれた慰霊碑が出来た。
これを見たかったの。ふたりが見つめるのは娘さんの名前。わたしたちも傍らで手を合わせる。
いまF夫妻は四国に暮らしていて、地域の防災活動に取り組んでいる。あっちは防災意識が低くてかなわんなあ、と言いながら、とくに障害のある人たちのケアが大事なんだよ、と言って、取り組んでいる活動のパンフレットをくれた。ひとりで逃げられない人を手伝わなきゃいけないし、介助する人たちが助かるためにも、彼らには一番に安全な場所に避難してもらわにゃあかんのよ。
自分たちが経験したこと、高田で起きたことを、次の時代や場所に伝えなきゃならない。この数年、その想いが具体的な活動につながってきて、ふたりは明るくなった気がする。
パンフレットに、2018年に水害に遭った岡山県真備町での活動が載っていたので、わたしも今度真備町に行くんです、と伝えたら、じゃああの人たちに会ってね、このお店が美味しいよ、と次々教えてくれる。自然災害という困難を経験した土地と土地が、人と人が、細い線で、でもしっかりとつながっていくことはとても希望のあることだと思う。

ふたりと別れたあと、店主の親友Sさん宅へ。Sさんはお母さんと暮らしていて、年々ふたりは似てきている気がする。はじめ、お母さんはわたしたちのことを思い出せないようだったけれど、まあまあ、と言って居間に上げてくれた(その後、Sさんと一緒に話しているうちに、あなたたちね! と気づいてくれた)。
店主や、昨年亡くなったTさんの話をする。Sさん自身も大きな手術をしたばかりだそうで、そういえば、いつも丸い背中がより一層丸く見える。
Sさんは、ふたりが夢に出て来ておれを迎えに来たんだがなあ、と神妙そうにつぶやいて軽い溜息を吐いたあと、でもおれ、まあ焦んな、あとちょっと待ってろ! って語ってやったんだ! と言って笑った。

お昼は小森さんが働いていた蕎麦屋へ。
店長が、お! という顔で迎えてくれる。いつもの元気なおばちゃんも変わらず元気で、この店の人たちは年を取らない。わたしはいつも同じ鴨南蛮そばなのでそれを頼み、小森さんはカツ丼セットか何かを頼んでいた。
注文を待っている間に、店長の息子さんの奥さんが小さな赤ん坊を抱いてやってくる。初めまして、産まれました〜! という明るい声に、店中の顔がほころぶ。よかったね、かわいいね、すごいね。わたしたちは、ついつい同じような言葉を繰り返してしまう。

震災で大切なご家族とお店を失った蕎麦屋さん一家。じつは、以前は日本料理屋だったのだけれど、少ない人数でもできる形にしようと考えた店長が、蕎麦屋として再開したという。そして、津波から生き残った従業員さんたち(そのほとんどが親戚同士)と一緒に、必死に働いてきた。
その後、たしか発災当時は高校生だった息子さんが、一時修行に出ていたけど戻ってきて、一緒に厨房に立つようになった。一昨年息子さんが結婚して、昨年孫が生まれた。もちろんこの小さな赤ちゃんに震災の物語を背負ってほしいわけではない。でも、この10年あまりの歩みを知っていると、ついそういう風にもグッときてしまう。
このまちの人びとが子どもたちを見るときにもきっと、そういう思いがあるのではないかな、と思う。とても気をつけていても、やっぱり“あの日”がよぎることはあると思う。ちゃんとここまで進んできたんだなあ、それはすごいことだなあと思わずにはいられない。

店を出て、嵩上げ地のショッピングモールの駐車場でOさんと合流。Oさんはわたしたちの活動をいつも応援してくれる人で、このまちに来るたびにお茶をしている年上の友人。
14時過ぎ、Oさんと一緒に駅の近くに出来た名入りの慰霊碑を訪ねた。陸前高田市では1757名(行方不明者含む、陸前高田市東日本大震災検証報告書より)が震災で亡くなり、遺族の了承が得られた人たちの名前が刻まれている。
報道のカメラが取り囲むなか、わたしたちと同じ時期に移住してきたNさん(彼は職場の同僚と結婚して家を建て、いまは子どもがふたり)が黒いスーツ姿で立っているのを見つける。都市計画に関わる仕事をしているNさんは、たぶんこの慰霊碑の建立にも携わっていたのだろう。
やっと名前が入った慰霊碑が出来ましたね、と話しかけると、本当によかった、としみじみつぶやいていた。

慰霊碑には多くの人が集まっていた。
じっとその表面を目で追って、無数の名前の中から大切な人を探す人たち。
誰かの名前を見つけて、その文字の並びをそっと撫でる人がいる。
懐かしい、懐かしいね。ご家族みんなであっちさ行ってしまったんだね。それならきっとさみしくないね、さみしくないよね。まちはすっかり変わってしまったけんと、おかげさまでね、こっちは元気にしています。
涙を拭う皺々の手。おばあさんの肩を支える若い女性はお孫さんだろうか。

Oさんは、やっぱりこうして見るとすごく多いね、とぽそりと言った。
そして、あの人亡くなってたんだとかってここで知る可能性があるからさ、正直ちょっと怖いんだ、と続けた。
日常会話では聞けないことってあるんだよ。あの人ずっと姿が見えないなと思っていても、やっぱり聞けなくてね。一族のほとんどが亡くなってたりすると、聞ける相手もいないのよ。ひとり生き残ったとしても、このまちにいるのが辛いからって、出て行ってたりする人もあるし。
Oさんの淡々とした語りに、このまちを襲った災禍の凄まじさをあらためて知る。その人の死を確かめることは、とても苦しいことだと思う。でも、11年という時間を経て、ここに刻まれた名前を見つけることで、やっとその人の思い出話を始められるかもしれない。

わたしは、黒い石の表面にこれまで話に聞いていた人たちの名前をいくつも見つけて、やっと会えましたね、という気持ちになっていた。死者には生者を介してしか会えないのだと思っていたけれど、ここでは直接出会えるような気がした。
店主の奥さんと娘さん。あの人の息子さん。あのお店の店長さん。初めまして、初めまして。

40分頃、嵩上げ地の際(かつての地面が見下ろせて、ずっと奥に海が見える)に移動した。
嵩上げ地が整備されてからの数年は、ここに集まる人が多い。地元の人も、遠方から来たらしき旅人たちも、なんとなく海の方角を見つめている。
被災したビルが一棟だけ残っているのは、このビルの屋上に上がってかろうじて助かったオーナーさんの思いがあってのこと。もともとここは市役所や市民会館があったまちの中心部で、海から離れたこの地点までも巨大な津波が襲った事実を伝えるために。
小さな子どもたちを連れた男性が、そのビルを指差して何かを話している。わかんなあ〜い! という高い声のあとには、男性の笑い声が聞こえた。

14時46分。サイレンが鳴る。
皆が手を合わせる。あの子たちも目を瞑り、小さな手を合わせている。

その後、小森さんが仙台で用事があるというので駅で見送り、わたしはOさんと一緒に海辺に整備された公園に行った。ここには、扇型の湾に突き出るように設えられたうつくしい祭壇がある。

そこでしばらく海を眺めていると、中高生たちが連れ立ってやってきた。放課後の時間になったからだろうか。2、3人の小さなグループで、ぽつぽつと。楽しそうに話しながら階段を上がってきて、祭壇の前で立ち止まり、じっと手を合わせて、また戻っていく。
11年前、彼らは何歳だったのだろう。仮にいま高校三年生だとしても、小学校低学年のはず。“あの日”どんな風にこの出来事を体験して、“その後”の時間をこのまちで過ごし、いまどのように“震災”について家族や友人たちと話し、受け止めているのだろう。
ともかく、こういうまちになったのだなあ、とわたしは思った。
“あの日”子どもだった人たちに、このまちの経験と想いの一端が、たしかに受け渡されている。じいちゃんばあちゃんは足が悪くて追悼には行けなくなった。大人たちは仕事が忙しい。じゃあ、わたしが代わりに行ってくるから。友だちもみんな行くって言ってたから。

ふと見ると、旅人たちも手を合わせていた。このまちの外にも、受け渡されているものがちゃんとある。

寒くなったのでOさんと喫茶店へ。季節限定のパフェを食べながら、今日のことやこれまでの日々の振り返りと、Oさん流の陸前高田郷土史解説を受けていろいろな発見あり。

Oさんと別れ、日が暮れかける中、わたしは店主のお墓を訪ねる。もともとは山間の墓地だったけれど、開発が進んで周りはみんな住宅街になった。
店主の同級生の家はあの辺だろうか。あの家のおじいさん、再建して数年で亡くなってしまったけれど、すごく楽しそうに暮らしていたな。目の前には真新しい市役所がそびえ立っている。すぐ近くにあった小学校は移転されて、遠くの方に豆粒みたいに見える。

お墓にはすでに新しい花が手向けられていたので、持ってきた花をその後ろに差し込んだ。
お邪魔します。まちはずいぶん変わりましたよ、と話しかける。

生前、店主は、どこかから降って湧いたような巨大な復興計画への違和感を語っていた。本来、まちは計画してつくるものではない。人が住み、行き来が生まれたところに店屋が出来て、そこに自然とまちが立ち上がっていくものなんだ。だからおれは、みなが安心して家に住むことを最優先にするべきだと思う。商売や形ばかりのまちだけを復興させてもダメなんだ、と。
震災後、復興のあり方に関する考えの違いは、まちの中に分断を生む側面があった。結果的に、店主は新しいまちを見ずに亡くなってしまった。だけどわたしはここに来るたびに、店主は結局まちの変化を一望できる場所にいるんだよなあ、と妙に納得してしまう。

あの人もあの人も、ちゃんと元気でしたよ。
昨日、久しぶりに店主が行きつけだった喫茶店に行ったら、店主の同級生だったKさんという方に会いました。わたしが店主にもらったカメラをぶら下げていたら、立派なカメラねえと声をかけてくれた。わたしも以前このまちの写真館で働いていて、その店の店主から譲り受けたんですと伝えたら、彼女から、あなたの名前が飛び出しました。本当に惜しい人を亡くしたって繰り返していました。あなたのことを思い出しては、何度も何度も泣いたんだって。いまも同級生で集まると、かならずあなたの話をするそうです。
わたしは来春から新しい仕事で東京に引っ越します。陸前高田で教えてもらったことが、すべてのベースになっています。また、報告しにきますね。

暗闇の参道を下ると、まちの灯が光っている。こういうまちになったんだ。
広くて、静かで、きれいなまち。

ひさしぶりに店主の実家に寄ると、店主のお母さんが迎えてくれた。お線香をあげさせてもらい、一緒にお茶を飲む。ばあちゃん、94歳になった。
先月わんこも死んじゃってね。ついにひとりぼっちになってしまったけど。おかげさまで、元気にやっています。ご近所さんに苗をもらって、90歳から畑を始めたの。だから外に出なくても生きていけるのよ。
ばあちゃんはテレビのニュースを見ながら、戦争中は群馬にいて、学徒動員で飛行機を作っていたことや、空襲の日の話をしてくれた。

ばあちゃんの家を後にして、川辺を彩るイルミネーションをしばらく眺めた。
震災後、地元の若い人たちと移住者が協力しあって続けている企画で、復興の過程とともに場所を移し替えながらも毎年開催してきた。市街地のエリア全体に大規模に嵩上げがなされたため、いまではかつての地面に降りられる場所は少なく、元のまちなかエリアでは、この川底だけがかつての地面の高さだとも言われている。11年経って、またこの高さに戻ってこられたんだ、とも思えた。竹灯篭の火がゆらゆらと揺れて、川底を撫ぜている。

コンビニに寄り、宿に戻る。
友人たちと一緒に『10年目の手記』という本についての配信をしていたら、今日が終わる。

“日常”がこのまちに根付いているのを感じた滞在だった。去年は“10年”が強調されてすこし落ち着かない感じがあったけれど、今年は静かで、すごく穏やかだったと思う。
再会を喜びあい、それぞれに年を重ねたことを笑いあえるのは嬉しい。

名入りの慰霊碑が整備されて、亡くなった人たちの思い出話が始まる。そのおかげで、初めてその存在を知れた人が何人もいた。ようやく出会わせてもらえたようで、嬉しく思った。
11年の時を経て、亡くなった人たちのことが語られ始めたのかなと感じたり、もしくは、彼ら自身が語り始めたのかもしれないと思ったり。
日常生活が戻ってきたからこそ、死者について語れる、ということもあるのかもしれない。生活の中にこそ、死者の居場所が整うのかもしれない。
ともかくも、やっと出会えた。これから、やっと出会える。

この11年の間に亡くなった人もいる。その一方で生まれてきた人がたくさんいて、成長して、自分の言葉で語れるようになった人もいる。最近移住して来た人もいるし、わたしみたいに通いつづけている人もいる。
このまちの“日常”に関わる人びとは入れ替わりながらも、“あの日”のことを、いなくなった人たちの存在を、手渡しでつないでいこう。
そんな願いが、それぞれのなかに育っているように思う。

瀬尾夏美

1988年、東京都足立区生まれ。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくっている。2011年、東日本大震災のボランティア活動を契機に、映像作家の小森はるかとの共同制作を開始。2012年から3年間、岩手県陸前高田市で暮らしながら、対話の場づくりや作品制作を行なう。2015年宮城県仙台市で、土地との協働を通した記録活動をする一般社団法人NOOKを立ち上げる。現在は“語れなさ”をテーマに各地を旅し、物語を書いている。また、ダンサーや映像作家との共同制作や、記録や福祉に関わる公共施設やNPOなどとの協働による展覧会やワークショップの企画も行なっている。参加した主な展覧会に「ヨコハマトリエンナーレ2017」「第12回恵比寿映像祭」(東京都写真美術館、東京、2020年)など。単著に「あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる」(晶文社)があり、同書が第7回鉄犬ヘテロトピア文学賞を受賞。また、「二重のまち/交代地のうた」(書肆侃侃房)。「声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語」(生きのびるブックス)をウェブ連載中。

『10年目の手記:震災体験を書く、よむ、編みなおす』

著者:瀬尾夏美、高森順子、佐藤李青、中村大地、13人の手記執筆者
発行:生きのびるブックス
価格:2,090円(税込)
発売日:2022年3月11日(金)
『10年目の手記:震災体験を書く、よむ、編みなおす』│生きのびるブックス
10年目の手記 – Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

『あわいゆくころ――陸前高田、震災後を生きる』

著者:瀬尾夏美
発行:晶文社
価格:2,200円(税)
発売日:2019年2月1日(金)
あわいゆくころ――陸前高田、震災後を生きる│晶文社

『二重のまち/交代地のうた』

著者:瀬尾夏美
発行:書肆侃侃房
価格:1800円(税)
発売日:2021年2月
二重のまち/交代地のうた

Web連載「声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語」(生きのびるブックス)

「声の地層 〈語れなさ〉をめぐる物語」瀬尾夏美│生きのびるブックス

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