4月から息子が小学生になる。彼は特別支援学級に所属することが決まっている。今日は特別支援学級に所属する新入生とその保護者向けの学校説明会だった。よく晴れた空の下、二人で歩いて学校へ向かう。
息子と一緒に会場である会議室に入ると、息子は先生から首に名札をかけられ「名前を教えてください」と言われた。先に入ったほかの子たちは皆ハキハキと自分の名前を述べては先生に褒められていたが、うちの子は恥ずかしそうに体をくねらせ、首を傾げて困っている。
人見知りしているのだろう。何度先生が投げかけても応答する気配はない。先生はしばらく粘った後、「では先生が名前を呼ぶのでお返事してください」と作戦を変えた。しかしやっぱり息子は一言も発さなかった。
私たちは親子ともに小学校へ入学することが少し不安だ。今通っている保育園から同じ小学校へ進学する友だちがいないからだ。息子は体が小さい。指吸いもする。だから私は内心、心無い人たちからからかわれていじめられやないかと心配している。ただでさえ環境が変わる、そのことだけでも不安である。
先生からひと通り説明が終わった後、校舎内見学をした。途中、疲れて座り込んでいた息子だったが、現在の1年生の教室を見学するときは興味津々でつま先立ちして教室の中を覗き込んでいた。これは、この日息子が唯一見せた積極的な姿で、私はそれを見て少し安心した。
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2011年3月11日。あのとき私は精神状態がどん底だった。不安感が強く、からだじゅう怠かった。人といると途端に疲れるのに、一人でいることが寂しくて不安でならなかったし、それについて無自覚だった。毎日風呂に入るのも大仕事で、自分を身ぎれいにすることすらままならない日々を過ごしていた。そんな私は、被災地の悲惨な状況が映し出されるのを前に、ただ涙を流すことしかできなかった。
それでもできることなら現地へボランティアに行って力になりたい、何か私にできることがあるならばそうしたいと切に思っていた。そしてそれはより大きなインパクトを与えるものであればあるほど良いと考えていた。
しかし自分のこともままならない私が被災地へ飛んだところで、お荷物になることは明白だった。そんな自分が情けなく、また泣いた。泣いてばかりで、自分にできることとそうでないことを判断することは困難だった。
あの日を、あるいはそれから今に至るまでの数年間を、自分なりの言葉で語る人たちの話を聞きながら、私はどこか自分が空疎に思えて仕方なかった。人から直接的に問われたこともある。「あのとき何をしていましたか」「それからどんな生き方をしてきたのですか」と。答えに窮し、ただ涙を流していたのだと素直に話すしかない自分が情けなく、いたたまれなく感じた。しかしあのときの私に、その後の数年間の私に、自分の人生を生きること以外、何ができたというのだろう。
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あの頃に比べると、私はずいぶんと健やかになった。世界で起きる出来事に対して無関心でいるのではない。情報に対する身の置き方、自分の処し方が上手になったのだと思う。大きな災害が起ころうと、世界がパンデミックに見舞われようと、大きな戦争が起きようと、私たちの日常は続いていくことを知ったのだ。
6年前に息子が生まれた。彼はどんどん成長していく。私たちは日常を重ねることで、ときには不安を安心に塗り替え、ときには反対に不安がさらに広がったりしつつも、いつだって自分の手の届く範囲のことを大事に生きていく。