人間だという言葉を捨てることにした。
昔から、そういう感覚はあった。木や大地、空なんかが “他人事” には思えない。
そうしたら何もかもを、もっと問いたくなってきた。これ以上、氾濫する情報や安易な言葉の中で、軽やかに踊れる身体を忘れたくない(例えばキッチンで、誰もいない小道で)。これは卑屈になるための、閉じこもるための疑いじゃない。自分が、自分の言葉を見つけるための、私が、私の言葉で話せるように、あなたの、あなたの言葉を聞くための。
年を越す前、なぜだか急に、私たちが “選択できる” ということを、今まで以上にこれからは理解できるようになる気がした。去年、<気づいたら、居続けなくてもいい地獄に連れてこられている>ということが、この世にはあると知った。痛みを伴う学び。そして、痛みというのは、いくらでも自分に感じさせることができる。私たちは深く、潜ってもゆける。
でも、知った。私は、いつでも良いほうに、良い香りのするほうに、からだのあたたまる方を選んで、歩いていってもいいということ。
こういうことは、どうして忘れてしまうのだろうか。
「わたしに幸せなことがあります。わたしがわたしであって他の誰でもないことです」
(『わたしは名前がない。あなたはだれ? エミリー・ディキンスン詩集』/著:エミリー・ディキンスン、編集・翻訳:内藤里永子、KADOKAWA)
エミリー・ディキンスンの言葉。この言葉を見つけた2022年の私は、呼吸がどんどんおだやかになるのを感じた。大丈夫はいつまでも続くものではないけれど、大丈夫だ、と思った。世に知られずひっそりと生きたひとりの女性、沈黙の詩人。
(日記も沈黙であることを許してくれる。かなしい、かなしいと声に出したいけど、自分も誰かをかなしくさせうると考えると沈黙してしまう。今は声に出せなくても、わたしに声はある。それで、今はいい)
本を読んでいると、何度もこのような体験をする。時空をこえた出会い。そういう時は大抵、「どうしてもっとこんなに素晴らしい本を早く手に取らなかったのだろう!」と自分をじれったく思うけれど、わかっている。どんなに惜しく思っても、本には出会う頃合いがある。それは真っ赤なりんごを手にするような喜び。
今年もこうやって頭の中の片鱗をバラバラに書き留める。
こういう書き方しか、私にはできない。
それでも、バラバラでも、まぎれもない私が、ここに残る。