「愛国心」や「家族愛」。技法化された「愛」の背景にあるもの
2026/4/2
愛せない感情を抱えたままでも、価値観が相反したとしても、差別や抑圧を許さずに、共にあるための距離や関わり方を探ることはできないのか。何気なく幸福なものだと受け入れている「愛」の周辺に、どういった困難が存在しているのか。このシリーズではそのヒントをつかむために、「愛の難しさはいったいどこからやってくるのか」を手がかりに、さまざまな専門分野を持つ方の視点から掘り下げてきます。生態系の中に組み込まれた人間の在り方から、現代史を再構築する試みを続けている歴史学者の藤原辰史さんのエッセイ。
歴史学で愛なんてふわふわしたものを直接扱うのは禁物である。いや、とてもじゃないけれど恐ろしくて手が出せない、と言ったほうがよい。たとえば、「近代日本における子どもへの愛の変遷」なんてことを論じることはほとんど不可能であるし、論じる人には大いに警戒すべきだ。子どもの愛し方は人それぞれであり、子どもの愛の感じ方も人それぞれで、「愛」の定義もそもそも難しいからである。
愛は、実体としてあるのではない。身体の各部位の動きや、投げかけられた無数の言葉によって、「愛らしきもの」が浮かび上がってくる、または湧き起こってくるのであって、基本的にはブラックボックスである。そもそも関係性そのものが未定形だ。友人関係だって、あるとき市役所や役場に「友人届」を提出しないと成り立たないものではない。「愛」は、そのかたちのあいまいさの極限であるにすぎない。いうまでもなく「婚姻届」は愛の証明書などではない。もちろん「憎悪らしきもの」もそれは変わらない。むしろ、「近代日本の大衆雑誌における『愛』の表象」というタイトルにして、ひたすら「愛」という言葉をどんな「文脈」で用いているかを論じていくならば、研究しやすい。しかし、それは愛という不確かなものをめぐる言説の研究でしかなく、けっして愛そのものの研究ではないし、そんなものは不可能である。
だが、歴史研究者がこの恐ろしいものをどうしても扱わなければない場面ももちろんある。権力を振るう人間たちが権力をそれほどもたない人間たちに「愛」を抱くように勧誘または強制、もっといえば脅迫するときである。その典型例であり、歴史研究の重大な課題なのが「愛国心」である。愛国心を煽る言葉は、新聞雑誌などの媒体に残りやすい。もちろん、そういった言葉はすべて、なにかをすることで愛国心を示せ、という内容が多い。なぜなら、国を愛することでさえ、確かな正解はないのであって、なにかをもって示しつづけなければならない、と愛国心煽動の担い手は焦るからだ。家に焼夷弾が降ってきたら逃げるのではなく消すこと、敵兵につかまったら降参するのではなく一人でも多く殺して玉砕すること、日本の敗北は明らかだとわかってもそれを口に出さないこと、そんな行為が「愛」を示すものだと妄想され、強制されつづける。このような技法化された「愛」が、いつのまにか「真の愛」だと間違って思われて始める。
また、権力の保持者が「家族愛」を強制する現象も近現代史には頻出する。家族はお互いに愛情をもって助け合わなければならない、と国家が言い始めるとき、最近ではその国家はもちろん、道徳的政治をやりたいのではなく、国家や地方自治体が果たすべき福祉政策を削減して、家族の愛に任せてしまいたいと思っていることが多い。
そもそも、愛をめぐるさまざまな現象は、制度に組み込まれるたぐいのスケールではない。世界の経済のかなりの部分は贈り物で占められている。たとえば、読者の購入した商品のうち、どれくらい「贈り物」に使用しているか考えてみよう。携帯電話からは写真や文章を、結婚式や出産時や誕生日にはお祝いを、お菓子の一部やお茶を、バレンタインデーにはチョコレートを、というふうに他人への「贈り物」が家計を占める割合は思った以上に多い。そして、それも、祝意や好意、総じていえば愛という訳のわからないものをなんとかかたちにしたいという足掻きの結果である。それほど「愛なるもの」は貪欲で、底なし沼なのだが、愛国心や家族愛を強調する人びとは、そういったあまりにも複雑な人間の心理や行為のからまりあいを、あたかも、スイッチを押せば明かりが点くような機械だと言い聞かせる。そうしなければ、戦争なんて長期間進めることなどできない。
だから私は、精神主義、つまり、「欲しがりません、勝つまでは」という大政翼賛会のスローガンにみられるような精神の操作が戦争をもたらした、というよくある言説は、もっと正確に言い換えるべきだと思う。精神の機械化が戦争をもたらした、と。精神のゆたかな運動そのものは、人間の味わいを示すものであって、それだけでは戦争を支えない。精神の運動が硬直してはじめて戦争を支える原動力になる。わかりやすい言葉で単純化されること。うっとりするような言葉にひたって考えることを放棄すること。こうしたわかりづらさからの逃避が、戦争を密かに支えるのである。
藤原辰史
1976年生まれ。京都大学人文科学研究所教授。専門は農業史、食の思想史。生態系の中に組み込まれた人間の在り方から、現代史を再構築する試みを続けている。また、新聞・雑誌のコラムの連載や、「パンデミックを生きる指針」(B面の岩波新書、2020年)や『中学生から知りたいウクライナのこと』(ミシマ社、2021年)、『中学生から知りたいパレスチナのこと』(ミシマ社、2023年)、「ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景」(長周新聞、2024年)など時事問題についても積極的に発言をしている。『分解の哲学』(青土社、2019年)でサントリー学芸賞、『給食の歴史』(岩波新書、2018年)で辻静雄食文化賞、『ナチスのキッチン』(共和国、2016年)で河合隼雄学芸賞、また、ナチスの食研究全般に対して日本学術振興会賞を受賞。他にも、『カブラの冬』『食べることとはどういうことか』『歴史の屑拾い』『植物考』など多数。なお、近刊に『食権力の現代史ーーナチス「飢餓計画」とその水脈』(人文書院)、『生類の思想ーー体液をめぐって』(かたばみ書房)。
プロフィール
現在、京都大学で担当している一般教養講義「現代史概論」を新書にまとめています。今年中には刊行されるように努力します。
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