昨夜のはげしい嵐で木々のほこりが綺麗に洗い流され、今朝の新緑は内側から喜びに溢れるように輝いている。
このところ私自身の調子が悪く、低迷が続いていた。いま、この同じ世界で人々が惨殺され続けている。水も食べ物も毛布もなく、殺されるのを待つような絶望を生きる人がいるのに、世界はそれを止めることができない。そのことに毎秒自分も殺されているように感じる。それでも子どもたちにご飯を食べさせ、おだやかな笑顔を向けていたいと、そのことだけに集中していた。
きっと戦地の親たちも同じことを心から願っているはずだ。この国もたった80年ほど前には戦地であった。子どもをどう守れば良いか、途方に暮れた大人たちで溢れていただろう。そしてこの国は同時に、他国を攻撃し、その地の人々の生活を破壊してもいた。
昨年の10月7日以来、私の認識はだんだんといびつに、時空がゆがんできて、今ここが戦地だと思いながら子育てをしているような気がする。
嵐の去った今朝、雨雲とともに私の心身はすこしだけ上向きになり、保育園に息子を送った帰りに、私はいつも座るファミレスの席で、目の前のけやき林を眺めながら原稿に向かっている。そうして、感受しすぎる自分の厄介さにため息をつきながら、突然、やはり世の中の流れを感受していたかつての記憶が、強烈によみがえった。
東京の真ん中でうずくまってしまった記憶がある。高校生のとき、渋谷を通って高校に通学していて、いつもは乗り換えだけなのだが、シネセゾンで映画を観たか、文化村に展覧会を見に行ったかの帰りに、制服で道玄坂を下っていた。1994年か95年だったと思う。夕方にさしかかった街は、ネオンサインがギラギラと照りだしていて、目のふちに溢れてきた。ネオンの看板は女の子と飲めるとか、安いという事実を告げる、繁華街でよく見かけるものだったが、私は急に胸がつまってその場でぴたりと足が止まってしまった。
そのころ、クラスメイトがパーティー券を売ったとか、誰々さんは援助交際しているらしい、何々先輩が制服をブルセラに売ったなどという話が、まことしやかに流れてきていた。たぶん噂を聞いても学校では平気な顔を装っていたのだけれど、内心同級生がおじさんに体を売っているということに、自分でも知らずにショックを受けていたのだろう。あの子は自分と同じ、まだ大人になる途上にある体で、中年男性の性を受け止めるのか。その子の体に東京の汚れも、大人の欲望の汚れも、なにもかもの汚れの総体のようなものがふりかかかっているように感じ、欲望の波に高校生の私は押し潰されそうだった。
思考は次第に大きく絶望的になって、このままこの国はどんどん下向きに傾いていく、日本はこのまま腐ってダメになっていくと思いつめ、本当に息ができないほどで、その場にうずくまった。
援助交際をしている少女たちの強靭さ、時代への批評能力のようなものさえ、大人たちはあげつらっていた。あのころ、時代はいまほど弱さや愚痴というものを許容していなかった。愚痴は愚者の言葉だ、なんということもない、大丈夫だ、なんでもないことだと、平気を装うことが普通だった。軽いプラスチックの容器を床に落としても、割れずに乾いた音を響かせるように、人間の重力というものを、時代全体が軽視していた。人間も落としたら割れるガラスでできているのに、皆でプラスチックを装い、そのプラスチック性をかっこいいと称揚していた。その無感覚への強制のようなものが、日本人の他者の痛みへの想像力を失わせていったのかもしれない。自分を傷つけるようなことをすればぐっさり血が流れるのに、それを軽視してきたことが、座る必要のある人に席もゆずらない、安心して座れるベンチを探すのに苦労するこの国にしていったのではと思える。
いま思えば、1995年は阪神・淡路大震災とオウム真理教の一連の事件が、立て続けに起こった年だ。うずくまってしまった私は、何かの映画か展覧会を一人で見に行った帰りだったと記憶しているので、高一でそこまでできたかおぼつかない。たぶん1995年の高二のときだったのだろう。だとしたら、私の倒れ込むような感覚も理解できるような気がした。1995年は、本当にこの国が傾きはじめた、その端緒のような年だった。
その頃から街にゴミ箱がなくなった。日本の都市にゴミ箱がないのは予算削減と論じている論説を最近読んだが、ゴミ箱がなくなった最初のきっかけはオウム真理教の地下鉄サリン事件だったと記憶している。受験勉強もまじめに乗り切り、優しい心を持っていると周囲に言われていた若者たちが、新興宗教に流れついた。若い人の孤独感を受け止めるうけ皿は、ほかに大してなかった。感じのよい普通の若い人が、人を殺すまでに傾いていく。隣にいる誰がそうなるかわからない。その恐怖心から、すべてが萎縮してしまった。
その萎縮は、たったいまの世界の姿にも重なって見える。コロナ禍が起こったとき、一瞬でも皆が病になり具合が悪くなる、つまり弱くある自分を受け入れ、他者の痛みへの想像力が広がるのではないか、と思った自分が嫌になる。世界は思っていたのと逆行する道をひた走っている。あれ以来、世界はより混沌を増し、他人はいいから自分の利益を優先させることが、国レベルでも個々人のあいだでも増えたというのが私の見立てだ。新型コロナウィルスへの委縮が、世界の人を臆病にした。隔離やマスク、ロックダウンは、他者との隔たりを広げ、想像力を失わせ、世界中が他者に無関心になっている。その行き着く果てが、今の戦争状態ではないかと思える。
私が渋谷の道玄坂でうずくまってしまったとき、そこまで世界の傾きを予知していたわけではなかったが、人間のあからさまな暴力性が、同級生の体、女性たちの体に降りかかっているような気がして、身が固まってしまったことは事実だった。
先日、いまの世界が逆照射されるような鮮烈な映画に出会った。ベルギーのバス・ドゥヴォス監督『Here』と『ゴースト・トロピック』だ。両作とも大きな事件は起こらない。移民の主人公が、ベルギーの首都ブリュッセルをふらふらするだけだ。『Here』はスープを作って親しい人に渡す、いつも半ズボンを穿いている穏やかなルーマニア移民の男性が、苔類の学者とともに、都会のなかの森の茂みを歩き回る。『ゴースト・トロピック』ではアフリカからの移民の中年女性が終電を逃し、夜のブリュッセルの闇を徘徊する。ともに16ミリフィルムで撮られているので、真四角に近いスクリーンは、人物全体をおさめない。ときに顔半分が切れていたり、人物の下半分だけをうつし、二人が顔をつきあわせてどんな表情を見せているのか、想像するしかなかったりする。その狭い画角が、非常に「いま」であると感じた。
世界は見通すことができない、一つ一つ名前が呼べるような個別のクローズアップでしか、本来人間は他者を知ることができない。しかし世界はいま、名前を失うナンバリングされた総体でしか、人間を見ていないと感じることがある。経済指標、人口動態、売り上げ予測、死者数。どれもが他者への想像力なしに口に出せる数字であり、私たち自身もそれを口にすることで、他者を感じる回路を失っていっているのではないか。とくに東京という都市を歩いていて、一人一人を感じる瞬間というのはとても少ない。SNSで流れてくる写真一枚で他人を知った気になっている。
映画館に座って、バス・ドゥヴォス監督の息の長い視点で捉える、人々のクローズアップを眺めていて、こういう時間がなんて現代には少ないのだろうと思わされた。ブリュッセルにはまだ都市の優しさがあるのだろうか、映し出される夜の闇にあたたかささえ感じる。
都市とは本来は人を許容し、受け止める場であるはずだ。公共的な場所というのは、匿名的な場所でもあって、自分の属性から自由になれる力がある。そこに都市の自由があるはずだ。けれどいまの、とくに東京の都市は、自由はおろか、監視されているような窮屈さがある。公権力から監視されているというよりは、秩序を逸脱してはいけないという人々の目だ。
いつからこうなっていったのか、あのうずくまってしまったあの頃だったのか。私は東京を歩きながら、またうずくまりたいような気持ちを抱えて、通り過ぎる人々の顔を眺めている。