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創作・論考

記憶のコルク栓

連載:午前3時のソリチュード/中村佑子

早めに就寝して、真夜中にふと目覚める午前3時。映像作家の中村佑子さんにとってその時間は、日常の雑事や役割から解き放たれ、自分の中心と向き合う大切なひととき。そんな「午前3時」をテーマに、中村さんに日々のモノローグを綴っていただきます。母である属性を抱えながら生きる、ひとりの女性の折々の記録。ぜひお楽しみください。

パソコンがたちあがる時間さえ待てずに、キーボードに指をあてたまま、カチカチさせていた。ちょうどそのとき、ある曲がiPhoneの誤作動で、突然鳴ったのだ。その音が、夜中の、寒天のような薄ぼんやりした私の脳を切り裂いてきた。時計の針は午前1時27分をさしていた。この曲が引き連れてくる記憶、いやおうなく降ってくる場面が、私をちりぢりにして、胸がしめつけられる。忘れたくなくて、早く言葉を書きたくて、キーボードに手をあてる。
 
その曲は“Little Person”と言って、映画『脳内ニューヨーク』のエンディング曲だった。あのころのアメリカ映画はジョン・ブライオンがプロデュースした、くぐもった、いなたい映画音楽が鳴っていてどれも好きだったが、このジャズ歌手ディアンナ・ストーリーの歌う”Little person”には、とりわけある人との記憶が充満している。
 
「いつか どこか遠くで もうひとりのちっぽけな誰かを見つけた その人は言う 私あなたを知ってる ずっと待ってた さあ楽しみましょう」その曲はそう歌っていて“let’s have some fan”やっと会えた二人がそう言うのがいいね、とその人は言った。私はしばらく記憶のなかの場面が降ってくるのに、身をまかせていた。
 
声が聞こえてくる。姿は見えないけれど、声が波のようにこちらに。私をよぶ声がする。
タクシーの後部座席だった。その人の心臓の鼓動。他の人ではなくて、あの人の、乾いた心臓の音。耳を当てた胸の奥から、車が揺れる振動とともに、トクトクと音が迫ってくる。窓の外は雨で、雨粒がガラス窓をつーっと伝っていた。胸がくっとしめつけられる。私はこのままどこへ行くんだろうと思っていたあのころ。きっとあの人の子どもはもう、その子自身が子を持つくらいの年齢になっているだろう。
 
夜の公園でだきあったときは、枯れ葉がカラカラいっていた。あの音の感触を、耳の産毛がおぼえている。外灯の光が土の地面を照らしていて、その人越しに見えるその土の明るさをずっと見つめていた。あのころ私は、なぜかとてもなげやりな気持ちで生きていたんだ。若さも、希望も絶望も、すべて嫌いだった。
 
子どもを育てていても、こうしてときどき、かつての恋の場面が突然降ってきて、どうしようもなくなることがある。今夜は、台風が過ぎさったあとの湿りけのある空気が充満していて、私の判断をとかしてしまい、幾人かの記憶が途中からまじりあう。
 
いつ別れても良いと最初から思っていたような気がする。いえそんなこともない。それはいまふりかえったときの、ただの強がりだ。私はまじめだった。まじめに、ひとまわり上の、好きなことを仕事にしている人と、最初の結婚をした。自分の夢を託すような気持ちもあった。仲人といえる人は、シンガーソングライターの高田渡さんだった。まだお酒を知ったばかりの二十歳の私は、渡さんと吉祥寺で飲むと、いつも酔いつぶれた。公園でギターを爪弾くのにおつきあいして、そのあといせやに行き、早々にペーパームーンに場所をうつして飲みつづける。渡さんの飲むペースはすごく早いので、あっというまに私はつぶれ、ペーパームーンの狭いトイレでぶったおれた。仲間と共に渡さんのおうちを訪ねると、部屋は限られたスペースのなかでいつも模様替えがしてあって、行くたびにタンスの位置が違っていたりする。自家製ベーコンの滋味深い味。それをアルミ缶のなかで燻していた。渡さんはいつも優しかった。
 
勝手にひとりでウェディングドレスを決めてきてしまったときの、あの母の顔。ダイニングに吊るされた白熱灯の電灯に照らされて、絶望的な悲しい顔をしていた母の顔も、音楽とともに降りてきてしまう。ウェディングドレスを一緒に探しにいくのをきっと楽しみにしていたんだろう。大学の帰り道、渋谷パルコのコムデギャルソンで、白い、まるでウェディングドレスみたいなキルティングのワンピースを見つけて、私はあっさりそれに決めてしまった。相談ぐらいしてあげたらよかったのにと言った父の声。それを聞く、空虚な私。いまでも一言一句おぼえている。
 
ミュージシャンだらけの結婚式だった。式の日は雨で、一次会のレストランKuuKuuから歩いて二次会のお店へ移動するため雨あがりの道路を、ギャルソンのドレスのすそをまくって歩いた。あの場所にいた人たちの多くが死んでしまった。あのころには戻れないし、戻りたくない。
胸がしめつけられるような歌が、記憶のコルク栓を抜いてしまって、無限に過去の恋の万華鏡がくりひろげられる。こうして一人の時間がやめられなくて、なかなかベッドに行けないのも、いつものこと。
 
ようやく重い腰をあげて、両手をばんざいにして寝ている赤ちゃんのすべすべした額をなでる。この子もいつか恋をするのだろうか。人をこうして飽かずに眺めることがあるだろうか。あなたを見つめながらもいろいろな記憶が降ってきて、それに耐えて、それでもそれらをいったんは秘密にして見つめている私の目の底には、それでも過去の映像がちらちらとしているのかしら。あなたはときおりわけしり顔で、静かに私の目を見つめている。

中村佑子

1977年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒。(株)哲学書房にて編集者を経て、テレビマンユニオン参加。美術や建築、哲学を題材としながら、現実世界のもう一枚深い皮層に潜るようなナラティブのドキュメンタリーを多く手がける。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』、『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』(HOTDOCS正式招待作品)、テレビ演出作にWOWOW「はじまりの記憶 現代美術作家 杉本博司」(国際エミー賞・アート部門ファイナルノミニー)、NHK「幻の東京計画 首都にあり得た3つの夢」(2015年ギャラクシー奨励賞受賞)、NHK「建築は知っている ランドマークから見た戦後70年」等がある。シアターコモンズにて、スーザン・ソンタグ『アリス・イン・ベッド』リーディング演出、AR映画『サスペンデッド』脚本・演出。2020年、初の単著となる『マザリング 現代の母なる場所』を出版。立教大学映像身体学科兼任講師。

映画『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』
『マザリング』まえがき
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