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創作・論考

冬の日の連想

連載:午前3時のソリチュード/中村佑子

早めに就寝して、真夜中にふと目覚める午前3時。映像作家の中村佑子さんにとってその時間は、日常の雑事や役割から解き放たれ、自分の中心と向き合う大切なひととき。そんな「午前3時」をテーマに、中村さんに日々のモノローグを綴っていただきます。母である属性を抱えながら生きる、ひとりの女性の折々の記録。ぜひお楽しみください。

ある日の午後、めずらしく2歳の息子が昼寝のときにぐずり、私の腿に頭を乗せて眠ろうとしている。いつもは眠くなったら一人でベッドに入り、勝手に背を向けて寝てしまうほど自立心の高い彼なのだが、今日は私に頭を撫でてもらいたくて、目を閉じたり開いたりしながら、私の膝にしがみついている。喘息の発作が近い予感がする。

息子の咳が鎮まるよう祈りながら、小さな頭を手のひらで包むと、むしろ熾火のような落ち着いた温かさを、こちらが頂いているような気がしてくる。小降りだった雨は強くなり、午後の光が消えかかって、部屋は冷えはじめていた。しずかに頭を撫でながら、頭蓋骨の形はなんて丸い完全体で、たしかな安定感があるのだろうと思う。感情も理性もつかさどる、脳という底知れぬ宇宙のようなものを内部に抱えながら、頭は骨に囲まれて外部を高潔に閉ざしている。ふだんは周りを良く見てわきまえるようなことの多い息子の頭を、私は全力で守りたい、守らねばならない。シングルになったいま、それだけを強く思う。

昨夜のニュースで目にした戦争で虐殺された子どもにも、一人一人そんな風に想っていた人がいた。どんな無念を、どんな怒りを抱えているのか。何もできない焦燥感で胸つぶれるような気持ちで頭のぬくもりを移しあっているうち、頭を撫でているだけの映画のラストシーンがあったなということを、突然思い出す。

それはイタリアの女優、モニカ・ヴィッティの後ろ姿の記憶で、ミケランジェロ・アントニオーニ監督作の『情事』であったはずだ。モニカ・ヴィッティは元々喜劇女優だったが、アントニオーニのミューズとなってからは、そのはじけるような笑顔を封印し、つねに不安に怯える主人公を演じていた。本当は恋人の男性を許す必要がないのに、モニカ・ヴィッティが彼の頭を撫でている。その不条理な手の姿が、遠景に見える海とともに記憶の底に沈殿していた。

眠りに入った息子に布団をかけて階下に降り、シネマチャンネルに登録してひさびさに『情事』を見た。そのシーンはたしかにラストシーンで、遠景には島々が浮かぶ海があって、まったく許す必要はないのに、モニカ・ヴィッティはぶざまに泣く彼の頭を、抱えるように撫でていた。記憶にあったよりも、もっとこの男性はひどかった。

一人の女性が、皆でバカンスに来ていた地中海の島で失踪する。恋人である建築家の男性は女性の親友であるモニカ・ヴィッティと共に女性を捜索するうちに、この親友と恋仲になってしまう。モニカは、最初は親友が死んでしまっていたらどうしようと悲しみ、親友の死を恐ろしいと思っていたが、いまでは親友が生きて戻ってきて、彼とよりを戻すのではないかということを恐れている。恐れの対象が、親友の「死」から「生」に移ったことを、誰よりもモニカ・ヴィッティは怖れ、自分を咎めている。

眠れぬ夜を過ごし、ホテルをさすらったモニカ・ヴィッティは、彼がゆきずりの女性と抱き合っているのを目撃してしまう。海の見える高台まで走って逃げ、モニカ・ヴィッティは泣く。追いかけてきた男性も、なぜかそこで泣く。その泣いた彼の頭を、泣き止んだモニカ・ヴィッティが撫でるのだ。この言葉のないやりとり、それがラストシーンのすべてだった。

なぜモニカ・ヴィッティは親友だけでなく自分のことをも裏切ったばかりの男の頭を撫でる必要があるのか。なぜ慰め、許す必要があるのか。たぶんこの映画を最初に観た10代の私には大いなる謎で、かつ、どこかでわかりたいという気持ちを抱いていたのだと思う。

許すとはどういうことなのか、人を受け入れるとはどのようなことかと、毎日のように想っていたからだ。家族や、否応ない事情を抱えた恋人や親友の、ともすれば許すことのできない言葉や行動を、人はどのように受け入れればいいのか。そのころの私はそれを考え続けていた。受け入れず、飲み込まずにいることは、むしろ私には簡単なことに思えた。許さずにいること、拒否をして距離を置くことは、むしろ一番最初にできる選択だった。

アントニオーニは『情事』で、なぜあのラストシーンを据えたのか。アントニオーニはつねに人間の漂泊を描く。魂はどこにも行き着かず、さすらい続ける。その孤独で不安定な、一人一人の存在の徘徊をこそ、アントニオーニは描こうとしていた。

たぶん『情事』という物語にとって恋愛における倫理観はあまり問題ではなく、対象はつねに魂の彷徨いで、そのことにこそ共感していたであろう私は、モニカ・ヴィッティの「それでも」男の頭を撫でるシーンが、記憶の岩盤に焼きついたのだろう。事実、たしか私は18歳で大学の映研のドアを叩いたとき、一番好きなのはアントニオーニだと言って、入部したはずだった。

世界も自分も混沌に満ちていて、白黒はっきりと敵味方に分けても、何も解決しないのではないか、そのころ私は恐れを抱いていた。許すことはどういうことか、それを考えることが、自分にとっても、未来の世界を生きる人間にとっても急務だと切迫感をもって悩んでいた。日本では阪神淡路大震災が起こり、その2ヶ月後にオウムのサリン事件が起こった。何か世の中が不安定に傾きつつあるような、人々がそれぞれの孤城にこもり分断されてゆく予感を抱えていた。ちょうどそのころ、渋谷の道玄坂でギラつくネオンや看板に踊る文字に目を走らせながら、世の中のあまりの汚辱に、欲望というもののあまりのあからさまさに目眩がして、うずくまってしまったのを思い出す。

不条理な世界を生きながらも、それでも人を許し、受け入れるとはどういうことかを体の中心で考え続けた私には、アントニオーニが描く人間の空虚さと、それでも他者との関係をあきらめきれない主人公たちが、自分のことのように映ったのだろう。

許すとはどういうことかという課題は、いまも私にとっては変わらない。世界はあのころよりもっと許せないことで溢れている。許すことができないことを抱えた人も多い。しかしその許せなさが、よりいっそう世界を分断しているのではないか。なぜこんなにも不幸がこの世に起こるのか。毎日毎晩、胸つぶれる想いでニュースを見ながら、なぜ人は許し合うことができないのか、忸怩たる想いだけが積み重なってゆく。

出口のない思考を抱えていたら、雨は雪に変わり、かなり激しく降りはじめた。一瞬世界が消えたのかと思うほど外がしずかになる。その独特の予感で、いつも雪が降っていることに気づく。雪が降ると、いつでも同じ気持ちになるのはなぜなんだろう。浮き足立ちはするのだが、少し沈みこむような気持ち。雪明かりが白く照らし出す光は、すこしだけ世界の悲劇を覆い隠す。

私からではなく、外側から世界が変わっていってくれる安心を、雪のなかに見てしまう。部屋のなかにいて、こちらだけが暖かい。それが心をもっている人間とも似ている。心をもった人間同士が、窓を外部にあけながらも、閉ざされていることにも似ている。

閉ざされている場所はなかなか変わらない。冬の日の部屋のなかのように、それぞれの温かさがある。しかしその温かさは外に出た瞬間、敵対し、争い合い、ときに殺しあう。人はなぜ温かさをうつしあい、一緒に雪明かりの風景を眺めているだけでは、こと足りないのか。

息子が昼寝から起きてベッドルームを歩いている音がする。彼を抱き上げに行く私は、この世界のことをどう伝えればいいのか、これからもずっと迷い続けるだろうと思った。

中村佑子

1977年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒。(株)哲学書房にて編集者を経て、テレビマンユニオン参加。美術や建築、哲学を題材としながら、現実世界のもう一枚深い皮層に潜るようなナラティブのドキュメンタリーを多く手がける。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』、『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』(HOTDOCS正式招待作品)、テレビ演出作にWOWOW「はじまりの記憶 現代美術作家 杉本博司」(国際エミー賞・アート部門ファイナルノミニー)、NHK「幻の東京計画 首都にあり得た3つの夢」(2015年ギャラクシー奨励賞受賞)、NHK「建築は知っている ランドマークから見た戦後70年」等がある。シアターコモンズにて、スーザン・ソンタグ『アリス・イン・ベッド』リーディング演出、AR映画『サスペンデッド』脚本・演出。2020年、初の単著となる『マザリング 現代の母なる場所』を出版。立教大学映像身体学科兼任講師。

映画『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』
『マザリング』まえがき
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