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創作・論考

火の海

連載:午前3時のソリチュード/中村佑子

早めに就寝して、真夜中にふと目覚める午前3時。映像作家の中村佑子さんにとってその時間は、日常の雑事や役割から解き放たれ、自分の中心と向き合う大切なひととき。そんな「午前3時」をテーマに、中村さんに日々のモノローグを綴っていただきます。母である属性を抱えながら生きる、ひとりの女性の折々の記録。ぜひお楽しみください。

前回マルグリット・デュラス『ロル・V・シュタインの歓喜』を引きながら「狂気」のことを書いたが、あれから私の母はふたたび入院した。

ひさびさに精神科の閉鎖病棟に入り、ガチャ、ガチャっと一つ一つの扉に鍵をかけていく看護師の背中を追いながら、ガチャ、ガチャっと私の片隅にも鍵がかけられてしまうようだった。

そんなことがあってから、季節はずれのとんちんかんな暑さのなかで、しばらくはただ低迷し、呆けながら日々を送っていた。遠く母を思いながら、たぶん私の内部のどこかには鍵がかかったままで、また書くということが遠いことになり、パソコンに向かえずにいた。

そうしてしばらくは、デュラス『愛』を読んでいた。これは、『ロル』の続編のような作品で、より抽象度が増し、S・タラというギリシャ語で海を意味する「タラサ」のアナグラムの名をもつ、架空の街が舞台になっている。遠浅の砂地がずっと続く海辺に浮遊する魂たちの、詩的断章のような作品だ。市街には絶えずサイレンが響き、それは誰かが放火を続けているからで、この街の魂たちはみな狂気の方へと傾斜している。いえ傾斜などという生半可なものではない。狂気のなかへ落ち窪んでいく人々の発する、緊迫感のあるささやきが記録されている。ロルの狂気のありさまは、ジャック・ラカンが臨床医学的に完璧な「錯乱」であると、オーソライズしたことで知られているが、今作では文章と文章のあいだに大きな間隙があき、その呼吸のリズムが、まさに狂気のリズムとなっているように思われる。大いなるものへの待機と陥没、そこからの突破という、狂気のもつ大きなリズムを、行間があらわしているように感じられてくる。

そんなことを考えながら11月になり、イスラエルの殺戮をなぜ止められないのか、無力感と絶望が支配するなかで、私の鍵のかかった空間は、ある日突然決壊した。

私が泣くときは、いつも嗚咽だ。しくしく泣くという段階はすっ飛ばされ、巨大なうずが体の奥からせり上がってきて、ひとしきり流れだす。

なぜ自分のなかにこれだけの哀しみがたまっているのか。なぜ小さく出していくことができず大きな樽のような場所にたぷたぷとたくわられえてしまうのかわからない。けれどもそれは、他者の叫びを聞いたとき、突如溢れ出す。

まるで他人の声と並走するように私の哀しみは走り出し、いつしか私の感情は他者の悲しみを追い越して、涙となってあふれてくる。その並走は、ほとんどが物語のなかでおこる。だから私には物語が必要なのだ。

先日のそれは、意外なことに娘が小学校から借りてきた『シン・ゴジラ』で起こった。その前の週に1954年制作のファースト・ゴジラを娘と見ており、娘はゴジラに魅力を感じたらしく、その後作られた数々のゴジラをすっ飛ばし、シン・ゴジラに至ったようだった。

公開当初に私は『シン・ゴジラ』を劇場で見たはずだ。しかしあのときも途中で決壊したのだろうか。記憶はあいまいだった。今回は娘とともに冷静にストーリーを追い、電車や新幹線など、日本が戦後に培ってきた技術がゴジラを倒すところに、敗戦者の切なさなどを感じるなどしたが、涙は出なかった。

しかし、ある場面で私にかかった鍵がカチッと開いた。それはゴジラが吐き出す炎、背びれを青く光らせながら、自らを吐きだすような壮絶なゴジラの叫びだった。一瞬で、私の全身は、青い炎に奪われたようになった。その日一日は平穏に過ごし、みなが寝静まってから、ひとしきり泣いた。

そして、総監督である庵野秀明氏が造形した『風の谷のナウシカ』の巨神兵も、『新世紀エヴァンゲリオン』の使徒もまた、世界を焼き尽くそうと、自らの体を溶かしながら嗚咽のような叫び声をあげていたことを思い出す。

その数々のイメージが走馬灯のようにフラッシュバックし、作者の庵野秀明のなかには、燃えさかる炎があり、彼は自分の燃えさかる炎を、物語のなかで燃焼し尽くしていると感じ、自分もその炎に焼かれたように快感が襲った。すぐそのあとに、この新しい戦争の時代に、それを思う自分に嫌気がさした。

庵野氏の父親には片足がなかった。父親が社会に適応できないイライラを少年の庵野氏にぶつけていたことを、庵野氏自身がテレビのドキュメンタリーで訥々と語っていたことを思い出す。庵野氏のなかにある、燃え尽くさねばならない炎は、だからといって実際に世界を焼くわけではなく、庵野少年は物語のなかで、自分を焼き尽くしていた。

戦後たった9年で初代『ゴジラ』を公開した制作陣と、それを並んででも見た観客もまた、たった9年前にB-29に焼かれ復興したばかりの東京を、ふたたび焼き尽くすゴジラの炎に感応し、自分の深いところにある炎を見つめたのかもしれない。

物語のなかで、自分を焼き尽くすこと。庵野氏の炎がしばらく自分から離れず、歩きながらエヴァのなかに出てくる、血の海にそまった世界のイメージを思い出したりしていた。

「エヴァ」のテレビ放映をリアルタイムで追っていたわけではない。大学時代に私がいた哲学科哲学専攻というところは、同級生のほとんどが男子で、そのころ周りの男の子たちは皆テレビ放映されていたエヴァに夢中になっていた。中村さんも見るべきだと言われ、夜中にそっと最終回の一つ前の回を見た。シンジの強烈なコンプレックスや自信のなさに、今の男の子たちはこういう心情に自己投影するのかと、遠い心持ちで眺めたけれど、何がしか心を動かされていたこともたしかだった。

とくに使徒が血みどろになってエヴァの内臓を引っ張り出し、苦しみとも悦びとも聞こえる野太い叫びをあげる姿には、心奪われた。そのころはまだ知らなかった庵野秀明という人が作者で、その人はナウシカの巨神兵の造形とコンテを描いた人だと聞いて、興味が湧いた。巨神兵が体を溶かしながら、それでも自らに刻印づけられた火を吹き、全てを破壊するという使命を果たす姿は壮烈で、あの巨神兵と、血の海に佇む使徒はイコールだった。

戦争の時代に、物語のなかで何かを焼き尽くすことの重さを思う。エヴァには「人の希望は悲しみで綴られているね」というセリフがあるが、それでも生きていかなければならない私たちは、悲しみにあふれた、血みどろの希望を抱えている。

ファン・ジョンウン『ディディの傘』に収録されている「何も言う必要がない」は、作家が机に座りながら読んだ本のことを考え、革命について思いを馳せる物語で、言及される作品のどれもが印象的なのだが、押尾守やサン=テクジュペリに混じって、エヴァの話が出てくる。

ファン・ジョンウンは、社会的な事件に翻弄され見過ごされてゆく人々の、絶望とその「生」を描いてきた作家だ。同じ小説に収録されている「d」と共に、セウォル号事件、キャンドル革命という韓国においてエポックメイキングとなる社会事象を背景としている本作は、さまざまな書物、映画作品などを引用することで、混沌とした社会のなかでの人々の連帯のありかを模索している。

エヴァに関しては批判的な視点で書かれている。韓国の社会教育学者の専門書のなかで考察される日本の「国体」の話がまず出てきて、それは西田幾多郎の絶対的無と比較されている。つまり主体と客体とを離れ、大いなるものに抱かれたまえという自己喪心を日本に見出し、そこで作家はエヴァを思い出す。シンジの父・権藤は、亡き妻をとりこんでしまった初号機と一体化しようとして、サードインパクトという戦争をこの世にしかけたことが語られる映画版エヴァ『The End of Evangelion』」(英題/邦題は『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』)を思い出しながら、アスカの「キモチワルイ」で作家は引用を終わらせるのだ。

亡き妻ともう一度一体化したいという個人的な欲望のために、実の子や子供たちをメカに乗せ、使徒と戦わせる戦争をこの世に生み出すとは、たしかに「キモチワルイ」ことだ。韓国史を見つめてきたファン・ジョンウンからしたら、この物語に、日本人がかつて行った全体との一致という圧力を見るのは自然なことに思えた。けれども実際に世界を焼くわけではなく、物語のなかで主客を溶け合わせることでしか解消できない傷というものもまたあるのではないか。個の壁のなかだけでは、あけられない鍵もまたあるのではないか。

『君たちはどう生きるか』もまた、内なる炎を焼く話だった。冒頭、眞人少年はゆらめく炎のなか、母がいる病院まで走る。母が焼けてしまう、母が炎に包まれてしまう……。階段を獣のように上がり、病院が燃えているのを確認すると、いちもくさんに外を走り出す。道はまだ燃えてはいないが、すべてが揺らめきだし、自分の身も焼かれ、足元から炎に包まれたようになっていく。少年のこころはすでに焼かれた母のもとにあり、母のさよならという声を聞く。

「たとえ私が死ぬとわかっていても、世界が火の海になると分かっていても、私はあなたを産む」と、少女のままの母親は言っていた。生み出すことを運命づけられた、「生前」でも「死後」でもあるような塔のなかで、将来自分が産む息子に抱きしめられて、たとえ私が死ぬとわかっていても、それでもあなたを産むと少女は言うのだ。あなたに会いたい。ただ、それだけの感情。

宮崎駿はどこかの段階で、今の世界はもう未来を平和に築くことはできないのだと絶望し、見切ってしまったのだろう。「世界が火の海になるとわかっていても」という言い方に、これまでとは別の覚悟と、あきらめという名の放置の残酷さを感じながら、それでも子どもたちに世界に戻って来させる。

あなたに会いたかったというのは、私が母から言われていた言葉でもある。あなたに会えて、生きる意味を見出せたと。私の存在が生きる理由なのだと。この世界が火の海になるとわかっていても、それでも子どもたちは、この火のなかに立つ。それでいいのか。

ただ一つ言えることは、火の海に立つ子どもは、必ずしも自分のことを不幸だと思っていないということだ。誰かの生きる意味になるなら、燃えるような生の輝きを感じながら、生きる。

物語のなかで自分を燃やしながら、私は生きる。

中村佑子

1977年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒。(株)哲学書房にて編集者を経て、テレビマンユニオン参加。美術や建築、哲学を題材としながら、現実世界のもう一枚深い皮層に潜るようなナラティブのドキュメンタリーを多く手がける。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』、『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』(HOTDOCS正式招待作品)、テレビ演出作にWOWOW「はじまりの記憶 現代美術作家 杉本博司」(国際エミー賞・アート部門ファイナルノミニー)、NHK「幻の東京計画 首都にあり得た3つの夢」(2015年ギャラクシー奨励賞受賞)、NHK「建築は知っている ランドマークから見た戦後70年」等がある。シアターコモンズにて、スーザン・ソンタグ『アリス・イン・ベッド』リーディング演出、AR映画『サスペンデッド』脚本・演出。2020年、初の単著となる『マザリング 現代の母なる場所』を出版。立教大学映像身体学科兼任講師。

映画『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』
『マザリング』まえがき
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