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宮沢和史さんと話した沖縄のこと。自分なりの目線でいいから、もっと知る

前田エマさん、me and youが聞く。沖縄を「自分のこと」として考える

音楽家の宮沢和史さんをゲストにお迎えし、「日本で暮らしながら考える、沖縄のこと」をテーマに、沖縄の人や場所の歩んできた歴史について一緒に学んできた、「わたしのために、世界を学びはじめる勉強会 ――本、映画、音楽を出発点に」の第三回。前編では、宮沢さん自身の沖縄との出会いやエピソードを交えたお話を伺いながら、「好き」という気持ちを出発点に沖縄の過去や今を知り、未来について考えていく手がかりを得ていきました。続く後編では、さらに学びや考えを広げ深めていくべく、宮沢さん、コーディネーターの前田エマさんとme and youの野村由芽がそれぞれの思いや体験を持ち寄りながら対談した様子を、たっぷりとお届けいたします。

モーニング娘。と、沖縄アクターズスクール。前田エマさんが沖縄に初めて行った小3の記憶

野村:前半を経て、ここからは3人でお話しをしていきながら、参加者のみなさんからいただいた質問にもお答えしていけたらと思っております。まずはエマさんから、沖縄とご自身との関わりや、宮沢さんのお話の感想がありましたらぜひお伺いしたいです。

エマ:私は小学生の頃から中学に入る直前まで、東京でボーイスカウトのような社会的な活動をする団体でエイサーを習っていました。その活動の一環で、ちょうど『ちゅらさん』が放送されていた小学3年生のときに、沖縄の子どもたちと一緒に舞台でエイサーの公演をするために、初めて沖縄を訪れました。空港に着いてまず最初に米軍基地にみんなで行きました。とにかくだだっ広い土地が終わりなく広がっている景色にまずびっくりして。その後、ガマなどを回って沖縄戦の話を聞きました。一緒に行った友達が、急に何かに取り憑かれたみたいに涙が止まらなくなってしまったことも覚えています。

とても記憶に残っているのは、沖縄の子どもたちと好きな芸能人の話になったときのことです。当時はモーニング娘。が全盛期だったので、私たち東京から来た子たちは「モー娘。大好き!」という感じでしたが、沖縄の子たちは、沖縄アクターズスクール出身のアーティストの名前を挙げるんですね。しかもその語り方が単に「好き!」という感じではなく、まるで兄弟や親戚のことでも話すかのような口ぶりだったので、不思議に思った記憶があります。

今回宮沢さんの『沖縄のことを聞かせてください』という本を読んで、初めて知ったこともたくさんあります。まずは具志堅用高さんのことです。ボクサーとしてだけでなく、沖縄の人たちにとって、様々な点でヒーローであり、とても大きな存在なんだということを今までこれっぽっちも知らず、本当にびっくりしました。また、沖縄に軍事施設が集中しているという意味での差別があることや、最低賃金の低さや貧困の問題などが現在も続いている話は聞いていたものの、「復帰」後に本土に渡った沖縄の方が差別を受けていたということははじめて知りました。

宮沢和史さんと話した沖縄のこと。自分なりの目線でいいから、もっと知る

左から宮沢和史さん、前田エマさん

宮沢:そうですね。差別の話だと、関西では大阪の大正区や尼崎のあたりに沖縄の方が出稼ぎで集中したんですが、言葉がわからなかったり、本土では見覚えのない名字だったりしたこともあり、沖縄から移り住んだ方はとても苦労したといいます。だから、戦前や戦後に何度か改姓のタイミングがあったときに、ヤマト風の名字に変えた人もいました。

そしてその内部では、沖縄出身で関西に渡った一世の人たちと、関西で生まれた子どもたちの間で、分断が起きるということがありました。二世の人たちは「自分は関西人だ」と思っているのに、親たちがウチナーグチで話したり、差別されたりしているのを見るのが嫌でしょうがない。一方で関西では教師の人たちが頑張って、「子どもたちにウチナーの文化を教えるべきだ」と、エイサーや三線を習わせたりしたんですね。それに対して、逆に一世の人が「そんなことしたらまた差別される」と反対して、また分断が起きる。だけど子どもたちが三線を弾けるようになって、お年寄りの前で弾く姿を見て、一世の人がわんわん泣くわけですよね。「僕ら一世がもっと頑張っておけばよかったのに、すまなかった。お前らすごいな」と。

そして今度は、関西で生まれた子たちが沖縄へ旅行に行ってウチナーンチュと交流しようとしたら、沖縄の子どもたちが沖縄民謡の“安里屋(あさとや)ユンタ”を誰も歌えなくて唖然とした、ということもあったそうです。今はほとんどのウチナーンチュが“安里屋ユンタ”を歌えるのではないかと思いますが、当時「本土並み」(1972年の日本復帰の際に、「核抜き・本土並み」というのが当時の日米両政府が合意したキャッチフレーズだった)に向かっていた沖縄では、子どもの頃から沖縄の歌を一切聴かずに日本の唱歌を勉強していたために、誰も歌えない狭間の時期があったんです。でもその10年後には、沖縄の人たちも歌えるようになっていた。

……というように、沖縄には迷いや歴史のいたずら、「本土並み」という小綺麗な言葉に翻弄されたりした歴史があります。年表では整理された出来事のように見えますが、実際にはもっと入り組んでいる。そう気がついたとき、僕も内部のウチナーンチュの歴史を知ることで沖縄が見えてくることもあるなと思ったんです。そのことを、今お話を聞いていて思い出しました。

自分なりの目線でいいから、沖縄のことをもっと知ろうとする。料理が好きな人は沖縄の料理を、お酒が好きな人は沖縄のお酒を探究すればいい

野村:『沖縄のことを聞かせてください』の本で、宮沢さんが“島唄”をつくるきっかけとなった沖縄戦の話を聞く過程で、「自分は何も知らなかったんだ」と衝撃を受けたという話をされていました。私は最近沖縄のことについて考えることが増えたのですが、宮沢さんも他の方々も、ずっと前から沖縄の土地や人々の歴史を伝えてきた人たちがいるのに、その何十年後に生きている自分が何も知らないことに愕然としました。「どうして受け取ってこられなかったんだろう」ということをすごく考えて。それは、ひとえに自分が無関心だったのかもしれませんが、でも他にも何か理由があるのかなと思ったりもします。そのあたりについて、宮沢さんがもし考えていらっしゃることがあればお伺いしたいです。

宮沢和史さんと話した沖縄のこと。自分なりの目線でいいから、もっと知る

「日本で暮らしながら考える、沖縄のこと」勉強会の様子。左から前田エマさん、野村由芽(me and you)

宮沢:沖縄に対してだけじゃなく、いろいろなことに対して無関心だったり、「知りたくない」「関係ないよ」という人は一定数いますし、それはもうそういうものだと思います。沖縄には「日本のことが大っ嫌い」「日本が俺のふるさとをこうさせたんじゃないか」と怒っている方がたくさんいましたし、今でもいらっしゃると思います。僕も直接何度も言われました。ただ、今の沖縄とヤマトの関係性は僕が出会った頃とは全然違っていて。どうしてそうなったかというと、今おっしゃられたような理解者の方々がお互い増えている。それによって、少しずついい方向へ向かっていると信じたいと思っています。

そして何よりも、沖縄出身でスターになった方たちーー具志堅さんに始まり、その前は南沙織さんやフィンガー5さん、90年代は沖縄アクターズスクールの方たちもそうですし、沖縄水産高校が夏の甲子園で2回も決勝まで行ったことも含め、沖縄出身の一人ひとりが勝ち取っていった景色が今の状況をつくっていると思うんですよね。彼らが勝ち取って、沖縄とヤマトとの関係性がここまできていることを、忘れてはいけないと思います。そして僕らも、自分なりの目線でいいと思うので、沖縄のことをもっと知ろうとする。料理が好きな人は沖縄の料理を、お酒が好きな人は沖縄のお酒を追求していけばいい。差別って何が一番の問題かと言ったら、「相手のことを知らなくて怖いから、距離を置きたい」っていう心理ですよね。そこを、お互いがお互いを知ることによってどんどんこじ開けていったらいい。少しずつ、この30年でそういう方向になっていると思いますよ。

野村:ありがとうございます。差別には「相手を無力化していく」ことが含まれると感じるのですが、宮沢さんの語りを聞いていると「沖縄の人たち自身が持っている力」を大切にされていると感じます。

沖縄も、ベトナム戦争も、ウクライナのことも。無関心な状態から、「自分のことになる」ために

エマ:差別って何かを「怖い」と思うから生まれますよね。それはやっぱり「知らない」からだと思うんです。私たちが歴史を一番最初に学ぶのは学校の歴史教育であることが多いですが、そこでさまざまなことが隠されてしまったり、届けきれていなかったりする状況があると感じていて。少し前に読んだ韓国文学の中で、ベトナム戦争に韓国の兵士がたくさん行っていることが書かれていて、私はそのこと自体も知りませんでした。宮沢さんの本のなかでも、沖縄の米軍基地からベトナム戦争にたくさん軍用機が行っていて、それは沖縄が抱える問題でもあるし日本が押し付けている問題でもある、というようなことが書かれていて。

今、そんなふうに知らなかったことを初めて知れるチャンスが私たちに残されているとしたら、それは学校の歴史教育よりも、さっき宮沢さんがおっしゃったような料理やお酒、自分が好きになったミュージシャン、興味が湧いた本や映画、そういったところにあるのではないかと思います。ただ娯楽として楽しいとか美しいというだけじゃなく、その一歩先の関心まで踏み出せる自分でいられるかどうかがすごく重要だと思うのですが、宮沢さんは、どうしたらそういう心持ちを常に持ちながら生きられると思いますか。どうしても心がつらくなってしまったり、「娯楽は娯楽として消費したい」という人も多いと思うので、なかなか難しいと思うのですが……。

宮沢:事前に皆さんからいただいていた質問のなかに、「沖縄が好きです。宮沢さんは『くるちの杜100年プロジェクト』や『唄方プロジェクト』など、未来へ向けた活動をされていますが、沖縄のために私ができることは何かなとよく考えます。例えば三線を弾きながら歌ったりして身近な人と沖縄の歌を楽しめたらいいなと考えていますが、そんな些細なことでも沖縄の未来のためになるのでしょうか」というものがありました。僕はこれを読んだときに、「すごく(沖縄のために)なる」と思ったんですよ。

僕もベトナムが好きで行ったことがあるんですけど、ベトコンの地下基地の見学に行ったり、資料館の壁にナパーム弾の化学式が書いてあったり、戦利品として死体から集めた米軍の遺品のジッポーライターが売店で売られていたりして、背筋が凍りましたし「えらいところに来たな」といろいろ考えさせられました。それ以来僕は、どこかに「ベトナム」という言葉があると目が行くし、「今はどういう状況だろう」と気になるんです。これって些細なことかもしれないけど、とても大事なことで。

たとえば今起きているロシアによるウクライナ侵攻で、ウクライナの西側から国境を越えて避難した人たちの多くは、ポーランドのプシェミシルというところへ行っていますが(2022年7月8日時点)、僕はその場所で歌ったことがあります。同じくポーランド西部の街・ブロツワフ、そしてロシアのモスクワでも、いろんなところで“島唄”を歌ってきましたが、僕のコンサートを手伝ってくれた方たちは、ロシア人もポーランド人も、みんな音楽が大好きで笑顔が美しい、いい人たちでした。だからこそ戦争が起きて、「なんであんなにいい人たちがいる国がこうなっているんだ」「あんな美しい街が戦火と隣り合わせだなんて」と思うんですよ。自分のことになる。

だから、「沖縄の歌を身近な人と楽しめたらいいなと考えているけれど、そんなことでもいいんでしょうか?」って、すごく大事だし、いいことだと思うんですね。好きなことや興味のあることから始まっているから、ぐっと自分のことになって、「じゃあどうしよう」と自分の頭で考える発想になっていく。

「沖縄に対して罪滅ぼしをしなきゃいけない」とか「僕らの命はそれと引き換えですよ」ということを強く強調したいわけではなくて、「じゃあ、これから先の未来に沖縄の人たちとどう付き合っていくんだろう」「沖縄の島々が平和であるためにはどうしたらいいんだろう」と考えるうえで、今のような向き合い方はすごく大事ですよね。泡盛が大好きな人が、沖縄の泡盛の酒蔵を全部回ってみたら、きっと地域や方言の違いなども感じられます。そうやって「自分のことになる」というのが一番のリアリティだと思います。

「○○ってこうだった」と言い切りたくなってしまうけれど、それは絶対に不可能だし、非常に危険なこと

野村:宮沢さんは「音楽」を立脚点にして、自分のリアリティの延長線で沖縄を語ることをすごく大切にされていますよね。自分たちが「知らなかった」ことを責めたり反省したりする過程も重要ですが、そこで止まってしまうのではなく、その先に進んでいくことが本当に大事なのだと思いました。『沖縄のことを聞かせてください』にも、一人ひとりのまったく違う語りがあって、「割り切れないもの」をすごく大事にされている感覚を感じました。それに対して、何か意識されていることはありますか。

宮沢:そうですね。どうしても人に伝えようとすると要約しますから、たとえば薩摩の琉球侵攻という歴史も、侵攻した薩摩が悪で、侵攻された沖縄が搾取される側、とばかり言いたくなるし、僕も言ってしまうこともあるけど、そんなに簡単なことじゃないはずですよね。「答えは一つじゃない」んです。沖縄のガマでも、一人も死傷者が出ないところもあれば、ほぼ亡くなってしまったところもあって(前編を参照)、その人たちにとっては戦争の見方が全く異なるわけです。沖縄戦もそうですし、「○○ってこうだった」と言い切りたくなってしまうけれど、それは絶対に不可能だし、非常に危険なことだなと思います。

ですから、「こんなこともあったよ」「あんなこともあったよ」「僕はこんな話を聞いたよ」と伝えるようにしていて、自分の意見というのは実はあんまり言っていないかもしれないです。この会場にいる方々も、それぞれいろんな立場の方がいらっしゃるから、人の数だけ受け取り方が異なるでしょうし、それでいいのではないかと感じます。年表や出来事の溝をどう埋めていくのか、一人ひとりがやることだとも思っています。こういう場で話をするのは非常に難しいのですが、「ただ一方的な見方や絶対的な出来事があるわけじゃないような気がしますよ。これから僕も調べてみます」という言い方をすることで、きっとみなさんもそれぞれ調べてくださったり、答えを見つけてくださったりするのかな、というふうに思っています。

世界各地で歌われ、その土地に生きる人たちの歴史や悲しみ、鎮魂の「器」となってきた“島唄”

野村:ありがとうございます。オンラインの参加者の方からも質問をいろいろいただいています。

「宮沢さんは数えきれない場所で、数え切れない回数“島唄”を歌ってこられたと思いますが、ご自身の中で特に印象深かったシーンなどを教えてください。また、今一番届けたいところはどこですか。この場所で歌ってみたいという土地や場所を挙げるとしたらどこですか」

宮沢:“島唄”を日本国内で歌うときは、その土地のことを思いながら歌うようにしています。このあいだは僕のふるさとの山梨で歌ってきたんですけれど、自分の人生とかふるさとの景色や悲劇とか、そういうものを目の奥に入れながら歌うんですよね。そうすると生きた歌になって、ただ自分がつくった歌を再生するにとどまらないものに、いつもなってくれるんです。

外国で歌うときは、歌う前にその国の言葉で、たとえば「20万人がこの小さい島で亡くなった歴史がありまして、絶対に二度とそういうことがないように、そして鎮魂の意味を込めて、次の歌を歌います」みたいな話をします。そうすると、それまでとは空気感がガラッと変わって、みなさんの耳がこっちへ向いているのがよく伝わってくるし、歌った後の反応や拍手も、それまでとは全然違うものがきたりする。

「“島唄”ってどうしてそういろんな国で歌われるんでしょうね」とよく聞かれます。もしかしたら“島唄”ってとてもシンプルで誰でもすぐ覚えちゃうようなメロディーだから、「器」のような曲なのかもしれません。その器に、聞いてくださった方の歴史や物語、悲しみが乗るのかな、と思います。

そういう意味では、ポーランドにツアーで行ったとき、途中でアウシュヴィッツに寄ったのですが、そこで見て知ったナチスドイツの行った行為の狂気は、沖縄に最初に行って「無知の知」を知ったのと同じぐらいの衝撃でした。

たとえば、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館はすごく言葉が少ない博物館で。収容された方々から回収した義手・義足だけの部屋があったり、髪の毛でつくられた絨毯があったり、鞄だけが集められた部屋があったり。鞄にはすべて持ち主の名前が書いてあるんですけど、これはアウシュヴィッツに連れてこられた人たちが、これからどうなるんだろうと不安に思っているところで、「鞄に名前を書け」と言われるらしいんです。そうするとみんな、「これはいつか返してくれるんだな」「帰れるんだ」と思う。それで暴動もなく落ち着くらしいんですけど、そのままガス室へ送られるという、その計算された狂気。勢いで多くの人を迫害したわけじゃなく、緻密な計算とコントロールによって行われていたことを知って、ぞっとしました。

その次の日にポーランドでライブだったんですが、ワルシャワの街中にも壁に銃痕がいっぱいありますから、彼らの悲劇を “島唄”に込めて歌ったらたくさんの拍手がありました。僕が“島唄”をいろんなところへ連れていっているつもりでいたんですけれど、それは大きな思い上がりで、“島唄”という歌が、沖縄が、僕をここまで連れてきたんだなと、そのときは思いましたね。

エマ:私もヨーロッパを廻ったときにアウシュヴィッツにも行きました。教科書でただ見ていた場所を実際に訪れ、その場所の空気を体験するというのは、見えてくる景色がこんなにも違ってくるものなのかと、驚きましたし、大切なことだと思いました。でも、それが今コロナ禍ですごく難しくなってしまっている。特に若い世代がそういう体験を得る機会が減ってしまっているというのは、本当にいろいろ考えなくちゃいけないなっていうのを、今お話を伺っていて思いました。

「未来のことを想像しているだけで僕は楽しいし嬉しいから続いている」

野村:宮沢さんは長い時間感覚をとても大事にされているように思います。その一つである「唄方プロジェクト」をご紹介いただけますか。

宮沢:2012年から5年弱かけて、沖縄民謡をアーカイブ化しようと思いまして、基本的に一人一曲、唄い手の方たちに後世に残したい唄を歌っていただいて、それを記録してCD17枚組の「唄方」というCD BOXにしました。2016年の『世界のウチナーンチュ大会』に合わせてつくって、沖縄県の図書館と学校、そして世界中にある沖縄県人会に寄贈したんです。その収録自体は僕が自分で全部おこなったのですが、形にするときに寄付を募って仕上げました。

宮沢和史さんと話した沖縄のこと。自分なりの目線でいいから、もっと知る

2016年に始動した「唄方プロジェクト」。2022年にはCD-BOX内の「歌詞・解説集」を改訂した第二期プロジェクトの制作が行われている

野村:ありがとうございます。時間感覚のことで言うと、今の時代はスピードが速いですよね。SNSや、短期的な「結果」を求められること……息苦しさを感じるけれどどうにもならない、という人も多いのではないかなと思います。そんななかで、宮沢さんが「唄方プロジェクト」や、沖縄でとれなくなっている三線の木を植えていくプロジェクト「くるちの杜100年プロジェクトin読谷」などに取り組む理由を教えていただけますか。

宮沢:今この歳になると、現世で贅沢をしても別にあんまり楽しくなくて、それよりもいい音楽が聴けて、いい芝居や踊りを見て、綺麗な空気を吸って、大切な人たちと交流することができれば、これ以上の幸せは別にないんじゃないか、と思うときがあります。贅沢をすることよりも、今植えた木が100年後、200年後に三線になって子どもたちがそれを弾いていたらなんて素敵だろうって、あるときから思うようになったんですよね。

自分が人から求められているかとか、どうお金を得るかとか、どうしてもそんなことを考えがちですし、僕だってもちろんそう思います。だけどもっと楽しいことがあるというか。これから100年後、200年後の沖縄の人たちがどうなっていたらその人たちは幸せかな、みたいなことを想像して、今自分が何ができるかを考える。だからやっぱり「罪滅ぼし」とか「沖縄に対して何かしなきゃ」という使命感とか、そういうことでもないんですよね。未来のことを想像しているだけで僕は楽しいし嬉しいから続いているし、周りにそういう人が集まってくる。それが渦になって、推進力になっているという感じかな、と思います。

エマ:なんだかキラキラした、楽しい気持ちになってきました。ありがとうございます。

勉強会の後編としてお届けしてきた、沖縄という場所や人、文化と歴史をめぐる3人の対談。そこには沖縄についてより深く知り、考えるためのきっかけが散りばめられていたのはもちろん、「好きだからこそ、もっと知りたいと思うし、自分のことになる」「差別は“知らないから怖い”という感情から生まれる」「答えは一つではないことを常に意識しながら、自分で溝を埋めていく」「長い時間感覚を大切にする」など、決して沖縄のことだけにとどまらず、この世界のさまざまなものごとと向き合い、考えていく上で大切なことの数々が、たしかに見えてくるような時間となったのではないでしょうか。

今回の勉強会で交わされた言葉や考えたちが、参加者の方やこの記事を読んでくださったみなさまにとって、まさに沖縄のことを「自分のこと」として感じ、未来に向けて自分なりの方法で関わりはじめるためのささやかでたしかな一歩となることを、願ってやみません。

第2回「日本で暮らすなかで自分ごととして考える、難民・移民のこと」
東南アジアや中東・アフリカ・日本国内で難民や貧困、災害の取材を続けていらっしゃる、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんをゲストにお迎え。「日本で暮らすなかで自分ごととして考える、難民・移民のこと」をテーマに、日本における難民受け入れや入管問題、人種・民族差別の問題などについて、食や本・映画などのカルチャーの話も交えてお話を伺いながら、異なるルーツの人々とどう「共に生きる」ことができるのか、そして一人ひとりが「自分ごと」として捉え考えていくためのヒントをじっくりと教えていただきました。

安田菜津紀さんに聞く、“遠くの国のこと”ではない、すぐ隣にある難民・移民のこと
安田菜津紀さん・前田エマさんと選ぶ。難民・移民のことを知り始めるための本・映画

第3回「日本で暮らしながら考える、沖縄のこと」
2022年は沖縄が1972年に日本に復帰してから50年となる年ですが、日本に暮らすわたしたちは、どれぐらい沖縄の土地や人々の歴史について知っているでしょうか。THE BOOMの代表曲の一つである“島唄”の発表以来、音楽を立脚点に沖縄の人や土地、歴史と30年にわたって関わり続けてこられた、音楽家の宮沢和史さんをゲストにお迎し、沖縄という場所の過去や今について学びながら、未来に向けて自分たちがどう向き合い関わっていくことができるのかということについて、一緒に考えていきました。

宮沢和史さんに聞く。沖縄の人々の歴史を自分ごととして知り、考えるために
宮沢和史さん・前田エマさんと選ぶ。日本で暮らしながら沖縄を考えるための本、映画、音楽

宮沢和史

1966年山梨県甲府市生まれ。THE BOOMのボーカリストとして1989年にデビュー。1992年、沖縄戦の生存者の話を聞いて作った代表曲「島唄」を発表。全国で200万枚以上のヒットとなる。
2014年のTHE BOOM解散以降、表舞台での活動を一時休止。歌唱を再開した現在も自身の転機となった沖縄の音楽を後世に橋渡しする活動に力を入れており、三線の材料となるくるちの木の植樹、沖縄民謡のアーカイブ制作、新作琉球舞踊・様々な形態の歌会のプロデュースなど独自の方法で沖縄と関わり続けている。

前田エマ

1992年神奈川県生まれ。東京造形大学卒業。モデル、写真、ペインティング、ラジオパーソナリティ、キュレーションや勉強会の企画など、活動は多岐にわたり、エッセイやコラムの執筆も行っている。連載中のものに、オズマガジン「とりとめのない日々のこと」、みんなのミシマガジン「過去の学生」がある。声のブログ〈Voicy〉にて「エマらじお」を配信中。著書に小説集『動物になる日』(ちいさいミシマ社)がある。

『わたしのために、世界を学びはじめる勉強会――本、映画、音楽を出発点に』

「社会に出て幾年月。今だからこそ、学びたい!」
すこし前まではどこか遠くに感じていた世界のできごとや政治が、映画や本、音楽を通して自分たちの日常とつながっていることがわかってきた、そんな体験はありませんか。me and youと前田エマさんが企画する「わたしのために、世界を学びはじめる勉強会」では、日々の発見や違和感を掘り下げ、国とテーマを変えながら、世界の歴史や社会問題を学びます。 わからなくても、詳しくなくても大丈夫。興味を持ち寄り、世界を知り、自分を知るための扉を一緒にひらくことができたら嬉しいです。年齢性別問わず、さまざまな方にご参加いただければと思います。

第1回:「BTSの音楽から、韓国を知りたい~なぜ、韓国の人は声をあげるのか」 ゲスト:権容奭(一橋大学大学院准教授)
第2回:「日本で暮らすなかで自分ごととして考える、難民・移民のこと」 ゲスト:安田菜津紀(フォトジャーナリスト)
第3回:「日本で暮らしながら考える、沖縄のこと」ゲスト:宮沢和史(音楽家)
第4回:「ロシアのウクライナ侵攻から1年。日本に暮らす私たちにもつながっているこの戦争を、もう一度知りたい」 ゲスト:藤原辰史(歴史学者)

『沖縄のことを聞かせてください』
著者:宮沢和史
発行:双葉社
発売日:2022年4月28日(木)
価格:2,420円(税込)

沖縄のことを聞かせてください│双葉社

『動物になる日』

著者:前田エマ
発行:ミシマ社
発売日:2022年6月10日
価格:2,420円(税込)

動物になる日 | 書籍 | ミシマ社

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