「知らなかった」と打ちのめされた後、どんな風に向き合っていったのか
2023/3/22
me and you、前田エマさん、クラブヒルサイドがお送りする勉強会「わたしのために、世界を学びはじめる勉強会 ――本、映画、音楽を出発点に」は、本や映画、音楽といった身近な「好き」や興味を出発点に、日々の発見や違和感を掘り下げ、世界の歴史や社会問題について学び考えていくシリーズ。
第1回ではBTSの音楽から見えてくる韓国について、第2回では難民・移民について、そして、2022年7月に行われた第3回目のテーマは、「日本で暮らしながら考える、沖縄のこと」。1972年に沖縄が日本に復帰してから50年という節目の年でもあった2022年に、代表曲の一つ“島唄”の発表以来、音楽を立脚点に沖縄の人や土地、歴史と30年にわたって関わり続けてこられた、音楽家の宮沢和史さんをゲスト講師としてお迎えし、沖縄という場所の過去や今について学びながら、未来に向けて自分たちがどう向き合い関わっていくことができるのかということについて、いっしょに考えていくことに。今回はその勉強会のレポートの前編をお届けします。
※2023年3月23日14時20分頃に、本文の一部に関する記述に対して編集部による註釈を追記いたしました。
まず、この勉強会のシリーズをはじめたきっかけは、韓国のボーイズグループ・BTSだったという前田エマさん。今から40年以上前に起きた、多くの一般市民が軍によって虐殺された「光州事件」(※)をテーマに、メジャーなアイドルが歌詞を書き(“Ma City”の作詞を手がけた一人であるJ-HOPEは光州の出身)、歌う姿に衝撃を受けたといいます。
※韓国では「事件」ではなく「光州民主化運動」と言われている。日本でも「光州民主化抗争」と名称を変えていこうとする動きがある。
「歴史や過去のことを語るときに、実際に体験していない、当事者ではない人が語ったらいけないのではないか、という躊躇いがあると思います。でも、わたし自身がBTSの歌を通して光州事件のことをもっと知りたいと思ったように、むしろその中にいない人だからこそ、他のアプローチで『伝えていく』『学んでいく』ことをどう拡げていけるのかということに、すごく興味を持ちました」と話します。
「当事者ではない」立場であっても、ある問題に直面させられている人々の状況を知り、自分の暮らしや行動と地続きの出来事として考えること。日本という国で共に生きるうえで、わたしたち一人ひとりはどれくらい沖縄という土地や人々の歴史を、自分たちと関わりのあることとして知っているでしょうか。その問いに向き合うため、まさに当事者ではない立場から「音楽」を出発点に長年関わり、学ぶことや伝えることを続けてこられた宮沢和史さんをお迎えし、沖縄の人々や土地が辿ってきた歴史について、ご自身の個人的な体験やエピソードもふんだんに交えながらお話を伺いました。
まず宮沢さんは、「沖縄へ行ったときの印象が、自分が思っていたものとあまりにも違うものだった」ということが、沖縄について深く知ろうと思うようになったきっかけだった、と話します。
もともと喜納昌吉&チャンプルーズの“ハイサイおじさん”のような琉球音階を用いたポップスは耳にしていたものの、プロデビューの前後に本格的な沖縄民謡を好きになり、沖縄の美しい音楽や三線の美しい音色、聞いたことのないようなメロディーやリズム、音楽家としての探究心をくすぐられるような耳心地のいい言葉や発声の仕方——そういった沖縄の音楽を構成するすべての要素に心を揺さぶられたこと。「こんなに美しいものを作る人たちはどんな人たちなんだろう」と興味を持って、琉球音階を使った楽曲を作ったり、CDのジャケット撮影で沖縄に行ったりしたこと。
しかし、それから足繁く通うようになると、想像していた以上に「戦争の傷跡」が目に入ってくることに気づいたといいます。宮沢さんのふるさとは山梨県甲府市。日本の他の多くの場所と同じように、戦時中に空襲でほとんど焼けたために戦後復興で街がリセットされ、物心つく頃には戦争の傷跡を感じることの少ない風景に囲まれて育ちました。しかし、沖縄に今も残る生々しい傷跡を目の当たりにして、自分たちが戦争を「過去」として今の現実から切り離して考えてしまっていたことに気づくとともに、戦争に対する自分の中での距離感が、大きく変わっていったそうです。
もう一つ、「沖縄戦」を自分ごととして感じるようになった大きなきっかけが、「毎年8月15日にテレビの終戦記念日の特集番組を見つめる母親の横顔だった」と宮沢さんは話します。
幼い頃に第二次世界大戦の最激戦地の一つであった硫黄島で父(宮沢さんの祖父)を亡くした母親は、いつも何か言いたげな表情を浮かべながら黙ってテレビを見つめ、時々何かを呟いていたそうです。子どもの頃、宮沢さんは「母親がぶつぶつ言っているのは敵国アメリカに対してなのだろう」と思っていたものの、時を経て、沖縄の戦跡を見ていろいろな人と話すうちに、ふと「母親が怒りをぶつけようとしていたのは、アメリカではなく日本に対してだったのではないか」と思うようになったといいます。
「当時の日本の軍事教育や軍部の戦略の誤りによって、死ななくてもよかったはずの人の命が何十万と失われ、沖縄島だけでも一般の島民・日本軍・米軍合わせて二十数万人が亡くなっている。その事実を沖縄で知り、それがかつて見た自身の母親の姿と繋がったとき、『沖縄戦』が急激に自分の方へ引き寄せられ、もっと学ばなくてはと思いました」
「母親の横顔の理由を探したい」と、半ば個人的な思いもあって知識欲に駆られた宮沢さんは、当時ずっと行動をともにしていたスタッフと三人でバスに乗り、沖縄を知る旅へ出ます。しかし、ひめゆり平和祈念資料館やガマ(沖縄島の各地にある自然の洞穴。葬送や祈りの場所でもあり、戦時中は防空壕や野戦病院としても使用された)などの戦跡をまわるうち、その傷跡の多さや深さをさらに知っていくと、それまで自分があまりにも何も知らずに生きてきてしまったことを恥ずかしく思い、ひどく打ちのめされたといいます。
「戦争の傷跡がリセットされた後の山梨で1966年に生まれ、カラーテレビや車が各家庭に普及していく右肩上がりの高度経済成長期に子ども時代を過ごし、何不自由なく中学や高校に通って大学にも入り、周りは浮かれたバブルの世の中を謳歌している。
そんないい時代に生まれて生きてきた自分が、ひめゆり平和祈念資料館では自分もガマに迷い込んだような感覚になりながら、『沖縄戦では島民の4人に1人が亡くなった』『集団自決があり、その中で家族が殺し合ったり、自分の子どもを殺めたりといったこともあった』『何をされるかわからないから、アメリカの捕虜になるくらいなら自分で命を絶ちなさいという教育がなされていた』という事実をはじめて知り、打ちひしがれました。
自分が見てきた景色や生きてきた人生が、日本本土を守るという軍部の戦略のためにアメリカに差し出されるような形になった沖縄の人々の死の上にあるのだとしたら、『もっと沖縄のことを知らなければ罪なのではないか』と思ったんです」
その後、宮沢さんは少しずつ沖縄についての本を買って読んだり、時間があれば度々沖縄に行ってガマを見に行ったりするようになったそうですが、同じ「ガマ」と言ってもどこも同じ体験をしたわけではない、といいます。
沖縄出身の日系二世のアメリカ兵がうちなーぐち(沖縄語)で呼びかけたことによって全員助かった読谷村のシムクガマのようなガマもあれば、同じ村であってもチビチリガマのように、集団自決によって多くの人々が亡くなってしまったガマもありました。
「チビチリガマの話を聞いたときには、暗闇から出られないくらい落ち込みました。『生きるんだ』という思いと、『お国のため』『戦陣訓を守らなきゃ』という思いの間で、運命が二分されてしまったのかもしれないですね」
戦後、チビチリガマには「世代を結ぶ平和の像」が建てられ、人々が訪れて手を合わせられるような場所になったものの、それが右翼団体によって破壊されるという事件がありました。その際、「破壊されたのも一つの歴史だ」ということで、すぐに修復せずにしばらくそのまま保存しておこうという動きがあり、それこそが沖縄の人たちの「塗り替えられていく歴史」への向き合い方を象徴している、と宮沢さんは言います。
「 <いつも歴史は上塗りされる 便所の戸板のペンキのように>と、THE BOOMの“オキナワ”という曲の中でも歌っているのですが、沖縄の歴史は、その時々の強い者の言い分によって塗り替えられてきた。でもその一つひとつ、赤で塗った者がいるのならその下の青を、ほじくって見るべきだと僕は思うんですよね。
一方で、沖縄に対して戦争責任を感じながら生きていかなきゃいけない、罪滅ぼしをしなきゃいけない、と全員が思う必要はない。ただ行ってみたいな、知りたいなと思って沖縄に行って、たとえ何も感じなかったとしても、自分のボキャブラリーの中に『沖縄』というものが一度入るだけで、次に取る行動が全然変わってくると思うんです。そして、たとえば『沖縄の人たちはなんであんなふうにいきいきとしていて元気なんだろう?』と感じる中で、その笑顔の皺の深さにはそれなりの理由や歴史があると考えると、いろいろ見えてくる、聞こえてくるものがある。そうすると、沖縄からの声がだんだん耳に入ってくるようになります」
必ずしも罪悪感や義務感からではなく、純粋に魅力を感じる気持ちから、深く知り、考えるための行動に繋がっていくことの可能性について知ることができました。
同時に、最近の社会を見ていると「知りたくない」「知ってしまったら面倒くさいし、もっと知らなきゃいけなくなるから耳をふさぐ」という人々の態度が少なからず見受けられるという指摘も。今起きているロシアによるウクライナの侵攻の背景にも、その空気があるのではないかという懸念についても話が及びました。戦争が決して過去のものではなく、今のわたしたちと間違いなく繋がっていて、だからこそ「知ろう」とすることが大切であると改めて感じる時間でした。
宮沢さん自身が沖縄の人々や歴史を知り、深く関わるようになったきっかけやその過程についてのエピソードをじっくりと伺うパートはここまで。ここからは、参考資料として配布された歴史の年表を見ながら、日本の学校教育などではあまり語られることのない、より詳細で長いスパンの沖縄の歴史について、ピックアップして教えていただくことに。
たとえば「流求」という言葉が中国の文献にはじめて登場したのは飛鳥時代、大化の改新より前の605年であったこと。「琉球国」になる前は北部・中部・南部の国(三山)に分かれていてそれを尚巴志が統一したこと。世襲制だった第一尚氏が、1469年に起きたクーデターによってまったく関係のない第二尚氏によって統治されるようになったこと。また、1854年にペリーが浦賀に来航する前の年に、実は先に那覇に来航して独立国として修好条約を結んでおり、「琉球」がアメリカにとっては昔も今もアジアに進出していく上で都合のいい場所であり、それが沖縄の悲劇を生んだ大きな理由の一つだろうということ……。
その中で特に印象的だったのが、「実際の歴史というのは、年表に書かれているほど単純でもなければ簡単に割り切れるものでもない」と宮沢さんが繰り返し言葉にされていたことでした。
たとえば、1609年の薩摩による琉球侵攻に関してよく言われるのは、薩摩が琉球に侵攻して首里城を占拠し、戦うまでもなく琉球が島津の支配下に収まり、強圧的に支配されるだけだった、というようなこと。
しかし、たしかにそれは事実である一方で、200年以上の長い関係があった薩摩と琉球の間には、ただ搾取しされただけではなく、薩摩から援助を受けたことや、反対に薩摩が琉球から影響を受けたこと、また琉球が薩摩には黙って中国にも朝貢を続けていたしたたかな面もあることを挙げ「そんなに単純なことじゃないと思うし、簡単に“属国”であったかのように語ってしまうのは乱暴だと思います」と宮沢さんは強調します。
「年表に書くと歴史はどうしても単純でざっくりとしたものになりますが、その隙間や行間にはたくさんの人々の押し引きや悩み、葛藤、妥協……いろいろなものがあるはずなんですよね。それをもっと勉強して知っていくことが、これからの僕の課題かなという気がしています」
そう話す宮沢さんの言葉に、聞いているわたしたちも、何かを簡単に言い切ったりわかったつもりになったりするのではなく、常にいろいろな人の声に耳を傾け、知り続けながら、隙間を想像し続けていくことの大切さについて考えさせられました。
(2023年3月23日:編集部)
上記パートに関して、記事公開後の指摘を受け、下記に補足いたします。
この記述のもとになった宮沢氏の発言は、「琉球の人々が薩摩の一方的な圧力にただ服従していたと言い切ってしまうのは一元的すぎるのではないか」という意図が込められたものでしたが、編集段階においてその意図を正しく伝えきれていない記述になってしまっており、大変申し訳ございません。
この発言は、近年の琉球近世史研究においてヤマトや中国との関係性を考えるにあたり「唐・大和御取合い(ウトゥイエー)」と呼ばれる概念に代表されるように、被支配側である琉球がただ無力に薩摩に従っただけでなく、さまざまな制限の中でも主体性をもって逞しく強かに両国と渡り合ったことに着目する研究が蓄積されていることを反映しています。琉球・日本双方に残された史料の分析から、近年はより実証的に近世の琉球・日本の外交関係の姿が明らかになってきており、宮沢氏の発言はその中における琉日間の政治・文化などさまざまなレイヤーの複雑さへの言及であって、薩摩の侵略的性格を正当化・擁護する意図はないと編集部では判断しております。
また、この勉強会は前提として「薩摩の侵略や、日本の明治政府によって琉球国が滅亡に追いやられたいわゆる『琉球処分』を経て太平洋戦争〜現在にいたるまで、日本と沖縄の間には大きな不平等や差別が温存されていることを、ヤマトの人間としてどう考えるか」ということをもとにスタートしているものでもあります。
ただし、トーク中の発言を短くまとめた記事の本文として編集・再構成するにあたり、そうした意図や前提が捨象されてしまったことで、それらが正しく伝わらないものになってしまったことは編集部側の落ち度と考えております。この今回の機会を踏まえて、今後はより一層、深く学んでいきたいと思います。
そして時代が下り、話題は戦争へと移ります。
「戦争を経験していない世代にとって、当時日本各地で起きた『空から爆撃されること』の恐怖はとても想像し得ないものですが、1945年3月26日に始まった沖縄の地上戦では、『一対一で銃口が向けられる、敵と目が合う恐怖』という、空から爆弾が落ちてくる恐怖とはまた違った、さらに想像を絶する体験があったはずです。沖縄の人の心の中に戦争の傷跡が多い理由は、眼前で敵と対峙した戦いだったからだと思います」と宮沢さんは語ります。
実際に、沖縄では今でも不発弾や人骨が数多く見つかっており、不発弾処理による通行止めの看板を道で見かける機会もよくあるとのこと。宮沢さんが“島唄”のサビで<島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を>と歌っているのも、まさにガマや沖縄のさまざまな場所で今もまだくすぶっているマブイ(沖縄語で「魂」のこと)を、どうにか家族や恋人のもとへ届けたい、という思いを込めたのだそうです。
また、同じ戦時中の出来事でもあまり語られることがないのが、沖縄戦の前年の1944年10月10日にあった沖縄各地への大空襲(十・十空襲)。那覇ではこの空襲で主要な場所がほとんど焼けてしまい、琉球の頃から形を変えて続いてきた沖縄の遊郭にも爆弾が落とされ、その長い歴史が終わってしまったといいます。
「公娼制度自体への評価はまた別にあるにしても、そのなかでお座敷の芸として沖縄の民謡や琉球舞踊などが研ぎ澄まされ、洗練されていったという歴史があること、それが断たれてしまったことはぜひ知っておいてほしいです」と、音楽家である宮沢さんならではの視点から、ご紹介くださいました。
そして、最後は戦後〜現在までの沖縄の歩みについての話に。終戦後も、沖縄はアメリカと日本との狭間で翻弄されました。日本復帰の気運が高まる中、多発する米兵による事件や事故とその不当な処理に対する住民の憤りが爆発した1970年のコザ騒動に代表されるように、「基地のない復帰」は沖縄の願いでした。その後、1972年の日本復帰、1975年の国際海洋博覧会の開催など、沖縄と日本の新しい関係が始まりますが、沖縄の日本復帰には多くの問題点がありました。米軍基地が温存されたままであることも、その一つです。
また復帰後も、沖縄の人たちは出稼ぎに行った日本各地で名前や言葉も含めた文化的な違い、人々の無理解や偏見によって、飲食店への入店やアパートへの入居を断られるなど、さまざまな差別を受けたといいます。
そのような状況の中で、1976年に沖縄出身の具志堅用高さんがボクシング世界ライトフライ級王者を獲得したという出来事は、一日にして本土の人々の沖縄に対する印象や態度をがらっと変えてしまった、沖縄にとっては歴史的な出来事だった、と宮沢さんは言います。
その後、リゾート化が進んだことなどもあり、多くの人が興味を持ったり旅行に訪れたりと、日本人にとって「沖縄」が少しずつ異質なものではなくなっていった80年代を経て、80年代後半から90年代になると、今度は「文化」が沖縄と日本の間の重い扉をまた一つこじ開ける流れがあったとのこと。
沖縄からは、長いブランクから復活した喜納昌吉さんや、りんけんバンド、知名定男さんプロデュースのグループ・ネーネーズなどによって、琉球音階や琉球楽器を用いた沖縄の現代音楽が次々に打ち出され、当時のワールド・ミュージック・ブームの一つの文脈として、日本のリスナーにも届きました。そして日本の側からは、THE BOOMと時を同じくして、BO GUMBOSやソウル・フラワー・ユニオン、山口洋さん、高野寛さんといった方たちが音楽によって沖縄へアプローチし、沖縄と日本の間の壁をなんとか壊そうとする動きがあったと続けます。
そのようにして沖縄と日本の間の文化の扉は開いたものの、1995年の米兵による少女暴行事件や、普天間飛行場の辺野古移設問題などをはじめ、政治的な問題は引き続き山積みという状況が、“島唄”のリリースから30年間続いてしまっているといいます。
「“島唄”という歌は平和を希求する歌、そして鎮魂の歌ですから、沖縄という小さい島に本物の平和や幸せがやってきたら、この歌を歌う必要は一切なくなります。僕はその日が明日にでも来ることを願いながら、30年経ったというのが実感です」
この言葉で会の前半を締めくくった宮沢さん。宮沢さん自身の体験や思いと、音楽という視点を交えながら、「沖縄」の過去から現在までの歩みについてじっくりお話を伺ってきた前半のお話から、ただ沖縄という場所や人・文化の明るい部分だけを無邪気に楽しむだけでも、罪悪感や責任感から歴史や戦争について学び考えるだけでもない、個人的な「好き」という気持ちや興味関心を入り口に、無理なく自然な形で「自分ごと」として知り、関わり続けていくための手がかりを得ることができた方も、きっと多いのではないでしょうか。
続く後編では、宮沢さんと、コーディネーターの前田エマさん、me and youの野村がそれぞれの思いや体験を持ち寄りながら対談した様子を、たっぷりとお届けいたします。
第2回「日本で暮らすなかで自分ごととして考える、難民・移民のこと」
東南アジアや中東・アフリカ・日本国内で難民や貧困、災害の取材を続けていらっしゃる、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんをゲストにお迎え。「日本で暮らすなかで自分ごととして考える、難民・移民のこと」をテーマに、日本における難民受け入れや入管問題、人種・民族差別の問題などについて、食や本・映画などのカルチャーの話も交えてお話を伺いながら、異なるルーツの人々とどう「共に生きる」ことができるのか、そして一人ひとりが「自分ごと」として捉え考えていくためのヒントをじっくりと教えていただきました。
安田菜津紀さんに聞く、“遠くの国のこと”ではない、すぐ隣にある難民・移民のこと
安田菜津紀さん・前田エマさんと選ぶ。難民・移民のことを知り始めるための本・映画
第3回「日本で暮らしながら考える、沖縄のこと」
2022年は沖縄が1972年に日本に復帰してから50年となる年ですが、日本に暮らすわたしたちは、どれぐらい沖縄の土地や人々の歴史について知っているでしょうか。THE BOOMの代表曲の一つである“島唄”の発表以来、音楽を立脚点に沖縄の人や土地、歴史と30年にわたって関わり続けてこられた、音楽家の宮沢和史さんをゲストにお迎し、沖縄という場所の過去や今について学びながら、未来に向けて自分たちがどう向き合い関わっていくことができるのかということについて、一緒に考えていきました。
宮沢和史さんと話した沖縄のこと。自分なりの目線でいいから、もっと知る
宮沢和史さん・前田エマさんと選ぶ。日本で暮らしながら沖縄を考えるための本、映画、音楽
「わたしのために、世界を学びはじめる勉強会」関連記事
宮沢和史
1966年山梨県甲府市生まれ。THE BOOMのボーカリストとして1989年にデビュー。1992年、沖縄戦の生存者の話を聞いて作った代表曲「島唄」を発表。全国で200万枚以上のヒットとなる。
2014年のTHE BOOM解散以降、表舞台での活動を一時休止。歌唱を再開した現在も自身の転機となった沖縄の音楽を後世に橋渡しする活動に力を入れており、三線の材料となるくるちの木の植樹、沖縄民謡のアーカイブ制作、新作琉球舞踊・様々な形態の歌会のプロデュースなど独自の方法で沖縄と関わり続けている。
前田エマ
1992年神奈川県生まれ。東京造形大学卒業。モデル、写真、ペインティング、ラジオパーソナリティ、キュレーションや勉強会の企画など、活動は多岐にわたり、エッセイやコラムの執筆も行っている。連載中のものに、オズマガジン「とりとめのない日々のこと」、みんなのミシマガジン「過去の学生」がある。声のブログ〈Voicy〉にて「エマらじお」を配信中。著書に小説集『動物になる日』(ちいさいミシマ社)がある。
プロフィール
『わたしのために、世界を学びはじめる勉強会――本、映画、音楽を出発点に』
「社会に出て幾年月。今だからこそ、学びたい!」
すこし前まではどこか遠くに感じていた世界のできごとや政治が、映画や本、音楽を通して自分たちの日常とつながっていることがわかってきた、そんな体験はありませんか。me and youと前田エマさんが企画する「わたしのために、世界を学びはじめる勉強会」では、日々の発見や違和感を掘り下げ、国とテーマを変えながら、世界の歴史や社会問題を学びます。 わからなくても、詳しくなくても大丈夫。興味を持ち寄り、世界を知り、自分を知るための扉を一緒にひらくことができたら嬉しいです。年齢性別問わず、さまざまな方にご参加いただければと思います。
第1回:「BTSの音楽から、韓国を知りたい~なぜ、韓国の人は声をあげるのか」 ゲスト:権容奭(一橋大学大学院准教授)
第2回:「日本で暮らすなかで自分ごととして考える、難民・移民のこと」 ゲスト:安田菜津紀(フォトジャーナリスト)
第3回:「日本で暮らしながら考える、沖縄のこと」ゲスト:宮沢和史(音楽家)
第4回:「ロシアのウクライナ侵攻から1年。日本に暮らす私たちにもつながっているこの戦争を、もう一度知りたい」 ゲスト:藤原辰史(歴史学者)
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