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安田菜津紀さんに聞く、“遠くの国のこと”ではない、すぐ隣にある難民・移民のこと

「難民の人たち」という大きな主語が「あなたとわたし」になるために

me and you、前田エマさん、クラブヒルサイドがお送りする「わたしのために、世界を学びはじめる勉強会 ――本、映画、音楽を出発点に」は、本や映画、音楽といった身近な「好き」や興味を出発点に、日々の発見や違和感を掘り下げ、世界の歴史や社会問題について学び考えていくシリーズです。

第1回目の「BTSの音楽から、韓国を知りたい~なぜ、韓国の人は声をあげるのか」に続き、2022年2月8日に開催された第2回目は、東南アジアや中東・アフリカ・日本国内で難民や貧困、災害の取材を続けていらっしゃる、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんをゲストにお迎え。「日本で暮らすなかで自分ごととして考える、難民・移民のこと」をテーマに、異なるルーツの人々とどう「共に生きる」ことができるのか、そして一人ひとりが「自分ごと」として捉え考えていくためのヒントをじっくりと教えていただきました。

勉強会の前編では、安田菜津紀さんに日本における難民受け入れや入管問題、人種・民族差別の問題などについて、食や本・映画などのカルチャーの話も交えながらお話いただき、後半はコーディネーターの前田エマさん、me and youの野村由芽と安田さんの3人による鼎談や、参加者のみなさまとの質疑応答を行いました。今回はその鼎談の模様をお届けします。

「差別や排斥の言葉は『◯◯人はこうだから』『◯◯人は嫌い』『◯◯人は出ていけ』というように、人を大きな主語に回収して排斥しようとするところに暴力性がある」

野村:勉強会の前半で安田さんのお話を聞いて、エマさんはいかがでしたか。

エマ:ニュースなどでもいろいろな情報が入ってきますけれど、安田さんがこうやって一人ひとりの人生を“どこかの誰か”ではなく、まるで自分のお友達のことを話すような温度感で話してくださったことで、見えてくる景色がまったく変わってくるなと思って感動しました。

安田菜津紀さんに聞く、“遠くの国のこと”ではない、すぐ隣にある難民・移民のこと

前田エマさん

野村:安田さんも、その部分は心がけていらっしゃいますか?

安田:そうですね。例えば差別や排斥の言葉って、「◯◯人はこうだから」「◯◯人は嫌い」「◯◯人は出ていけ」というように、人を大きな主語に回収して排斥しようとするところに暴力性があると思っています。もちろんその人の出自や属性をそれぞれが大事にするということは尊重されるべきことなのですが、でも一方で、暴力的な回収の仕方にどう向き合っていったらいいのかということを考えたときに、やっぱり人と「出会う」ということに尽きると思うんですよね。

わたし自身も取材を続けていると、「難民の人たち」という大きな主語でぼんやりしたものが「あなたとわたし」という関係性になってきて、そうすると一気に「あなた」が抱えてる問題、「◯◯さん」が歩んできた道のり、というふうに感じられます。今までわたしが取材で訪れてきたシリアやイラクは、残念ながら誰しもが気軽に行けるようなところではありません。だからこそ、写真を通してなるべく「出会った」ような感覚に近づいていただけたらな、と心がけていることではあったので、そこを汲み取っていただきありがとうございます。

絶対的な線引きがあるわけではないものの、対応や措置に違いがある「難民」と「移民」

野村:ここであらためて移民や難民の基本的なお話を安田さんにお伺いしたいのですが、まずは「移民」と「難民」という言葉の違いについてご説明いただけますか?

安田:「難民と移民ってどう違うんですか?」というのはよく聞かれることなのですが、これは絶対的な線引きがあるわけではなく、あえて言語化するとすれば、「難民」は紛争や迫害などの命の危険によって、やむなく故郷から逃れてきた人たちです。一方「移民」というのは、例えば「生活の場所を移そう」とか「働きに行こう」というように、どちらかといえば自発的に移動してきた人たち、というふうに説明をされることが多いです。

ただ難民の人たちも、自分の子どもの将来を考えて「やっぱり故郷を離れるしかない」と自ら決断をして、という意味では自律的な意思も働いていますし、一方で「働きにいこう」と自発的に移動してきた人も、故郷の経済状況がものすごく悪いといったやむを得ない面もあるわけです。でも決定的に違うのは、難民の人たちは多くの場合、自分の国籍国の政府や軍などから命を狙われているために、異国で自分の国の出先機関である大使館に助けを求めて駆け込むことができないという、不安定な状況にあることではないかと思います。

安田菜津紀さんに聞く、“遠くの国のこと”ではない、すぐ隣にある難民・移民のこと

安田菜津紀さん

野村:「政府から命を狙われる」という状況は、日本において日常を生きている多くの人にとっては遠くのできごとだと感じられるかもしれませんが、その言葉から、想像したり、知ろうとしたりすることはできますよね。「難民」と「移民」では、保護しなければならないかどうかなど、受け入れる側の国での対応や措置にもなにか違いがあるのでしょうか。

安田:国によっても措置は違うのですが、日本では難民認定を受けられた場合、日本語や日本の基本的な生活習慣を学習するプログラムのような公的な定住支援を受けられます。でも、移民として自発的に来たとされる人たちは、そういった公的支援が非常に乏しいなかで、自己責任でなんとか身につけなければならないような状況なんですね。例えば、公立学校に通っているものの、日本語が全然できずにずっと教室で座っているだけになってしまう。でも学校も手一杯だから、日本語支援がなかなかできなくて困っているという子どもたちが、かなりの数いると言われています。日本の場合は、特にそういうところへの手厚い支援がまだまだ追いついていないということも、現状としてありますね。

「日本でも『自分の声を上げていいんだよ』『あなたの声には価値があるんだよ』っていうことを、教育の中でもっと感じられるような場面があったらいい」

野村:2020年に日本で難民認定された人数はわずか「47人」で難民認定率(※1)は「0.4%」であるという数の低さや、ウィシュマさんの事件などに対して、世界からも批判があったりするのではないかと思うのですが、それを受けての日本の動きはどうなのでしょうか。

安田:実はこれまでたくさん言われてきているんですよね。難民の認定率に関しては「独立した難民法をちゃんとつくってください」と言われていますし、収容の在り方に関しても「司法の介在も期間の上限もないような収容の在り方は国際人権規約違反です」という意見書が、2020年に国連人権理事会の恣意的拘禁作業部会というところから出ています。それ以前にも、国連拷問禁止委員会から勧告を受けてきているのですが、日本政府はなかなか耳を貸してこなかった。だから入管で起きていることを、ウィシュマさんが亡くなって遺族が勇気を出して顔と名前を出して声を上げるまで知らなかった人たちが、たくさんいたと思うんですよね。

「人が亡くならなければ変わらないんだろうか」というもどかしさも非常にあるのですが、一方で、ここまで入管の内部で起きていることに光が当たったこともなかったかもしれないとも思っています。せっかく国際的な勧告や意見書といったしっかりとした裏付けがあるので、自信を持って市民の側から「これではおかしいよね」「改善していかなきゃいけないよね」と、声を上げることが大事なのかなと思っています。

野村:エマさんも、ウィシュマさんの事件を受けて入国管理局の話に興味を持っていったということですが、今のお話を受けて、なにか気づきや思うことはありますか?

エマ:ウィシュマさんの事件で少しずつ明るみになってきた、入管での収容されている方たちへの態度というのは、本当に「虐待」「拷問」といえるようなもので、人間として扱われていないようなことが次々と起きていますよね。でも海外の例などを聞くと、パソコンが使えたりだとか、外の世界とのやりとりができたりとか、一人ひとりの人権を尊重しているように感じ、日本とはかなり違うということにもびっくりしました。

わたしはウィーンに少しだけ留学していたことがあるのですが、そのときに一番思ったのは「日本って島国なんだな」ということです。ヨーロッパだと、学校に行けばいろいろな国の生徒がいるし、その子たちと友達になると実家に連れていってもらってその国の文化を知ったりすることもあって、この地球上にはさまざまな民族の人がいることがある意味当たり前みたいに感じていました。わたし自身は川崎の生まれで、幼い頃から地元の学校に通っていました。わたしの学校には日本語が上手にしゃべれない中国人の子がいたり、ルーツが自分と違う子がいたりしましたが、そういった体験もないまま大人になってしまう子どもが日本には多いのかなという思いもあります。外国では、子どもたちは移民の人や自分とルーツが違う人たちに対して、どういうふうな感覚を持って育っているんですか?

安田:シリア難民としてドイツに逃れた知人に会いに行ったときに、「市民社会の在り方」が違うのかもしれないと感じました。もちろんドイツも、難民がどんどんやって来ることに拒否をしたり、そういう考えの政党が議席を伸ばしてきたりということもあるんですが、難民排斥デモなどが起きたときに、その倍以上の数のカウンターの人たちが「それはおかしいよ!」というふうに集まってくるんですよね。いろんなバックラッシュがあるなかでも、例えば普通のメトロの駅に「Welcome Refugees」という言葉が掲げられていたりですとか、市民社会が自分の意見を表明したり、それを持ち寄ったりしていいんだという雰囲気を醸成するのは、すごく大事なことだと思います。

日本の教育も少しずつ変わってきているとは思うものの、まだどちらかというと「1+1=2」の「2」を導くように、もともと正解のあるものにたどり着くことの方が得意になるような教育で、「正解のないものを一緒に議論していこう」というところはまだまだ乏しい気がしています。ドイツで育った友達からは、「自分が受けてきた教育では、とにかくいろんなものがディスカッションベースで進んできた」という話を聞いたことがあります。そうするとまず、「意見が違う人がこの場にいるんだな」ということを前提にしてものを考えるし、たとえ意見が違ったとしても同じ空間を分かち合うこともできるということも、実感ベースで積み上げていく。そうしたことに裏打ちされた「自分も意見を表明していいんだ」「声を持ち寄っていいんだ」という意識から、ああいうアクションが起こるんだなというふうに思っています。すごく遠回しなことかもしれないんですけれど、やっぱり日本でも「自分の声を上げていいんだよ」「あなたの声には価値があるんだよ」っていうことを、教育の中でもっと感じられるような場面があったらいいなと思っています。

「差別や偏見を目の当たりにしたとき、とてももやもやするのに、同調圧力やアウティング、反感などを恐れて行動することを諦めてしまう」。どうしたらいい?

野村:今回、参加者の方から事前にいただいた質問のなかに、「差別や偏見を目の当たりにしたとき、とてももやもやするのに、同調圧力やアウティング、反感等を恐れて行動することを諦めてしまいます。相手に理解を求めても、歪んだ解釈や感覚のズレから、さらに自分が傷つくと思うと身動きが取れません。そんな考え方を変えるために必要なことを伺いたいです」というものがありました。すでに差別の問題などに関心をもっている方たちのなかには、こう思っている人も結構多いのではないかと思うのですが……。

安田:日常の中で、マイクロアグレッション(小さな悪意や偏見)に遭遇することってあると思うんですよね。この前インタビューさせてもらった沖縄に住む女性は、お父さまが黒人の米兵でお母さまはウチナーンチュ(沖縄の人)の方なんですけれど、「もう、この部屋を出て5分でマイクロアグレッションが始まるから。『え、日本語喋れんの?』とか『その髪触らせて』とか」と言っていました。でも、自分が過去にそういうことを言ってしまっていたとしても、当事者の声にちょっと触れるだけで「あ、これってマイクロアグレッションだったんだな」と気づくんじゃないかなと思うんですよね。そして気づいたら、今度は「小さな介入」をしていく。例えば何人かで話をしていて、友達が「日本語喋れんの?」と言われたときに「いや、それはちょっとおかしくない?」と言ってみるとか。行動するのはすごく勇気がいることなので、介入の仕方もいくつか選択肢をつくっておくのが大事なのかなと思っています。

これは民族差別の文脈ではないですが、わたしがすごく好きな作家さんでアルテイシアさんという方がいらっしゃって、彼女が脚本を担当した映像のなかに『#ActiveBystander=行動する傍観者』というものがあります。例えば飲み会の場でハラスメントに遭っている同僚がいたり、路上で絡まれている女性がいたりしたときに、見て見ぬふりをするのではなくて「それセクハラですよ」と言ったり、友達のふりをして「久しぶり!」と声をかけてみる。これだと「おい、お前なにやってんだよ」と相手に立ち向かっていくよりはハードルが下がりますよね。0か100かだとできなくても、2とか3ぐらいの行動だったらできるかもしれないという、それぐらいの行動の選択肢を頭に入れておくだけでも違うのではないかと感じています。

アルテイシアさんが脚本を書き、シオリーヌさんが監督を務めた動画「#ActiveBystander=行動する傍観者」

「知ること以外で次に自分になにができるのか」のヒント、よく聞かれる「偽装難民が多いのではないか」という質問への回答

安田さんとコーディネーターの2人との対談も深まってきたところで、続いては会場にお越しいただいている参加者の方からの質問にもお答えいただくことに。

「いろいろなものごとが『まずは知るところから』で終わってしまうことにずっともどかしさを感じてきた」という方から、知ること以外で次に自分になにができるのかということへのヒントがほしい、という声が上がります。

それに対して、「『知る』ということができたのであれば、次はやっぱり『知らせる』側に自分がなっていくと思うんですよね」と安田さん。日常生活のなかでいきなり難民問題についての話題を振るのはハードルが高くても、例えば友達とランチに行くときに、高田馬場の「リトル・ヤンゴン」と呼ばれるエリアにあるミャンマー料理のお店に連れて行って、そこで民主化運動の弾圧から逃れて日本にやってきて、クーデターによって自分が祖国に帰れるという希望が遠のいてしまったミャンマー出身のお店の方たちに実際に出会うと、その後のニュースの見方や近さがその友達のなかで変わっていくかもしれない。

あるいは、例えば安田さんもいつも身につけているという、シリア難民の方がつくった寄木細工のアクセサリーを友達にプレゼントすると、もらった人はそれをつけるたびに「これシリアの人がつくったって言ってたな」「今どうなってるんだろう」とその人のなかで思い出すきっかけになるかもしれない。そんなふうに、カルチャーを通して接点や共通点が生まれることで、自然とその人の日常に入り込んでいけるような方法で知らせていけたらいいのではないか、とお話ししてくださいました。

次に挙がったのは、「距離的にも文化的にも遠い日本に毎年1万人以上の難民の方が来ようと思うのは、どんな動機があるのでしょうか?」という質問。それに対して安田さんは、これまでに取材されてきた方たちのお話を振り返りながら、「一般化はできないですが、難民にならざるを得なかった方たちは、危険からなるべく早く、なるべく遠くに逃れようとしてさまざまな国に難民申請をしたなかで、一番早く認定が下りたのがたまたま日本だったということが多い」という現状を話します。

また、よく聞かれる「偽装難民が多いのではないか」という声についても、難民該当性がないのに難民申請している方もたしかに存在してはいるものの、それは移民の方たちが日本で“人間として”働き住み続けるための仕組みが、日本ではまだ十分に整えられていないことの表れでもあると言われているのだといいます。その顕著な例として、外国人技能実習制度を使って日本に来た方たちは、凄まじい人権侵害によってその職場から逃れざるを得ない一方で、多くの借金があり、そのまま帰れば家族を苦しい立場にさせてしまうといった事情から、「自分が日本に居続けるには難民申請しかない」と、該当性はなくてもこの制度を頼ってしか救われる道がないという方も存在しているのだということについても、教えてくださいました。

勉強会の最後には、本・映画・音楽を出発点に「難民・移民」というテーマについて日常のなかから学び考えていくためのおすすめの作品を、安田さん・エマさん・me and youからそれぞれご紹介しました。「安田菜津紀さん・前田エマさんと選ぶ。難民・移民のことを知り始めるための本・映画」にてご紹介しているので、ぜひ併せてご覧ください。

第2回「日本で暮らすなかで自分ごととして考える、難民・移民のこと」
安田菜津紀さん・前田エマさんと選ぶ。難民・移民のことを知り始めるための本・映画

※1:「認定率は、その年の認定数を、同年の認定数と不認定数の合計で割った百分率として算出しています。(日本については、法務省発表データから「認定数÷(処理数合計ー申請/不服申立てを取り下げた者等の人数)」として算出。各国については、UNHCR Refugee Data Finder 掲載データ項目から Recognized ÷ (Total decisions – Otherwise closed) として算出)」(認定NPO法人 難民支援協会ウェブサイトより)

安田菜津紀

1987年神奈川県生まれ。NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

前田エマ

1992年生まれ。東京造形大学在学中からモデル、エッセイ、写真、ペインティング、ラジオパーソナリティなど、分野にとらわれない活動が注目を集める。2020年にはウェブマガジン「SPINNER」の編集長を務め、企画展のキュレーションも行った。2022年6月、初の小説『動物になる日』がミシマ社より刊行。

『わたしのために、世界を学びはじめる勉強会――本、映画、音楽を出発点に』

「社会に出て幾年月。今だからこそ、学びたい!」
すこし前まではどこか遠くに感じていた世界のできごとや政治が、映画や本、音楽を通して自分たちの日常とつながっていることがわかってきた、そんな体験はありませんか。me and youと前田エマさんが企画する「わたしのために、世界を学びはじめる勉強会」では、日々の発見や違和感を掘り下げ、国とテーマを変えながら、世界の歴史や社会問題を学びます。 わからなくても、詳しくなくても大丈夫。興味を持ち寄り、世界を知り、自分を知るための扉を一緒にひらくことができたら嬉しいです。年齢性別問わず、さまざまな方にご参加いただければと思います。

第1回:「BTSの音楽から、韓国を知りたい~なぜ、韓国の人は声をあげるのか」 ゲスト:権容奭(一橋大学大学院准教授)
第2回:「日本で暮らすなかで自分ごととして考える、難民・移民のこと」 ゲスト:安田菜津紀(フォトジャーナリスト)
第3回:「日本で暮らしながら考える、沖縄のこと」ゲスト:宮沢和史(音楽家)
第4回:「ロシアのウクライナ侵攻から1年。日本に暮らす私たちにもつながっているこの戦争を、もう一度知りたい」ゲスト:藤原辰史(歴史学者)

Dialogue for People

安田菜津紀さんが副代表を務めている認定NPO法人Dialogue for People。困難や危機に直面する人々、社会的課題の渦中にある地域に飛び込み、語り合い、写真や文章、動画、音楽など様々な表現を通じて、ともに同時代を生きる全ての人々に「伝える」ことを活動の主軸としていらっしゃいます。現在、マンスリーサポーターを募集中だそうです。

Dialogue for People

『あなたのルーツを教えて下さい』

発行:左右社
発売日:2022年2月5日
価格:1,980円(税込)

あなたのルーツを教えて下さい | 左右社 SAYUSHA

『動物になる日』

発行:ミシマ社
発売日:2022年6月10日
価格:2,420円(税込)

動物になる日 | 書籍 | ミシマ社

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