絵本を1ページずつめくるように美しい画面が展開するこの映画をみて、思い出したことがある。ロンドンの教会で開催されたホームレスアートフェスティバルに参加した時のこと。
東京の公園のブルーテント村に住んでる私は、他の住人と一緒に絵を描く会と物々交換カフェ・エノアールを開いている。「絵のある」カフェなので「エノアール」カフェ。このエノアールカフェをロンドンにも作るために、このフェスティバルに参加することになった。フェスティバル会場となっている教会の門の前には、たくさんのホームレスの人たちが座ったり寝たりしていた。私はカタコトの英語で交流し、街のどこで何が拾えるか教えてもらった。街にあるゴミや廃材を使って小屋を建て、フェスティバル開催中、ホームレスの人たちが憩えるカフェとするためだ。教えてもらったゴミ置き場へ1日何度も通っていると、大きな犬と一緒に路上生活する人やスクウォッター(空き家や空きビルを占拠して居住している人)たちにも会うことができ、その度に私は翌日から始まるフェスティバルに誘っていた。
そうして出会った人たちも手伝ってくれて教会の裏庭に「エノアールカフェ・ロンドン」が完成。開催初日、教会の中では炊き出しやライブなど様々なイベントが行われる。路上で出会った人たちも続々とやってきた。ところが、教会の入り口で警備員がホームレスに対して荷物検査をして、お酒を持っていたり飲んでいる人たちは入れなかった。ショックだった。ほぼ全員のホームレスが外に追い出され教会に向かって怒っていて、私も外に出て「これはホームレスなしのホームレスアートフェスティバルだ」と一緒に抗議した。
大騒ぎしていると、教会のスタッフがやってきて、山盛りの食事のお皿をみんなに配り始めた。するとみんなは大人しくご飯を食べはじめ、中に入ることを諦めてしまった。私は出展者として教会に入ることがとても切なく、それとは裏腹に中のイベントはとても華やかだった。主催者が私の前に座り込んで何か話していたが、この人の英語はまったく耳に入らなくて、私はただ大きな声で泣いた。豪華な炊き出しも、美しい歌声も、心暖かい言葉のアピールも、実際にはホームレスに向けられていないことが悲しくてたまらなかったからだ。
その夜は作った小屋で眠ろうと、鍵がかかっている教会の門の下の隙間から中に入って裏庭に行ってみた。するとすでにホームレスの人たちが小屋の中でぐっすり眠っていた。私が横になれるスペースはなかったが、寝場所としても使ってもらえてほんとうに嬉しかった。
翌日、この小屋でみんなと歌ったり絵を描いたりして過ごしたことは最高に楽しかった。また、ホームレスの方は移民も多く、女性たちやトランスの人もいて、私は教会の中よりも居心地がよかった。私なりにホームレスの仲間たちとホームレスアートフェスティバルを開催できた。
想起したのは、教会にまつわる、そのような思い出だ。今となっては、アルコールの問題について、イベント参加の権利と制限、そしてケアについての議論が重要だったと思っている。教会の中で号泣したことを思い出すと赤面してしまうが、あの時の私はジーザスの前でやるせなさを全身全霊で訴えることになった。
この映画に出てくる福岡の教会にも、様々なひとたちが集まっているのだろうと思う。都市にある教会は、食事を分けるだけでなくホームレスの人たちに開かれてあってほしい。
それぞれの場面には光と共に神秘的に施されているテクスチャーがあって、とても暖かい印象があった。私はさらに、そのスポットライトの当たらないところで、個人的な思い出を背景に、誰かが号泣し舞台を台無しにしている姿を見た気がした。この映画にはそんな自由な想像を誘う気配がある。