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創作・論考

石原海×奥田知志対談 善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続ける

生きてるだけで許される、魂の傷を共有できる場を求めて。『重力の光』対談

9月からシアター・イメージフォーラムほか全国で上映している映画『重力の光:祈りの記録篇』。これまで愛・ジェンダー、個人史と社会を主なテーマにしながらさまざまなヴィデオ作品をつくってきた石原海監督が北九州に移り住み、困窮者支援をするキリスト教会に集う人々との出会いと交流から始まったこの映画は、人間の「生」の姿に迫り、「祈り」とは何かを問う、フィクションとドキュメンタリーを交えた実験的な作品です。me and you little magazineでは、北九州市・東八幡キリスト教会を訪れ、監督の石原海さんと、映画にも出演する牧師の奥田知志さんの対談の様子をお届けします。

33年にわたって北九州市を拠点に生活困窮者の支援を行っているNPO法人・抱樸。その事務所の向かいにあるのが、抱樸を主宰する奥田知志さんが牧師を務める東八幡キリスト教会です。この教会には、元ホームレス、元極道、元被虐待児、生きる意味を模索したり長患いに悩んだり、様々なバックグラウンドを持つ人々が集まっています。

そんな教会に集まる9人がイエス・キリストの十字架と復活を描いた受難劇を演じ、その練習風景やインタビューを収めたドキュメンタリー映画『重力の光:祈りの記録篇』。監督の石原海さんは、奥田さんの「ここに住んだら?」という言葉をきっかけに北九州に移り住み、この映画を制作するに至りました。

互いを「海ちゃん」「知志」と呼び合う親子のような友達のような兄妹のような関係の二人。東八幡キリスト教会での祈祷会のあと、許し、愛、迷惑など、人との関わりから浮かび上がること、ひいては「生きること」について、二人の考えを聞きました。

「何かを解決しなくても一緒にいる」でいい、ということ。(奥田)

—海さんが北九州に移住されたきっかけが、奥田さんの言葉だったそうですね。知志さんはなぜ海さんに北九州で暮らすことを勧めたのですか?

奥田:海ちゃん、行くとこなかったから(笑)。もともとわたしの息子の愛基と海ちゃんが友人同士で、愛基が「今心配している人がいる」と連れてきたんです。それでこの教会の上にある我が家にいたんだけど、「このあとどうするの?」って話をしてもさしたるものもなかった。だったら、「まあともかく北九州に住んでみたら?」と。何かを先に決めて動いたわけじゃなくて、本当にそんな感じだったんですよね。

石原:いろいろあって住むところもどうしようかなあと思っていたときに、愛基が「実家がおもしろいところだから来たら」と誘ってくれたんです。最初は1週間くらいの予定だったけど、ずるずると2週間以上滞在して。当時はわたしも錯乱状態で、自分のことでいっぱいいっぱいでした。周りのことがよく見えていなかったから、ここで出会う人とどう仲良くなったらいいかもわからなかったし、大喧嘩したりもして。「住めば?」と言ってもらっていたけど、これだけ迷惑をかけすぎている場所に住むのもな……という気持ちで逃げるように東京に戻りました。でも、ここで過ごした時間がずっと記憶に残っていて。

石原海×奥田知志対談 善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続ける

奥田知志さん、石原海さん。祈祷会後の東八幡キリスト教会にて

—「住めば?」というのは一言ですが、力のある言葉だと感じました。

奥田:わたしがやってきた困窮者やホームレスの支援の世界では、アセスメントやスクリーニング、プランニングなど方針を決めて実行まで進み、成果を評価することが多いんです。専門職教育を受けたわけでもない、ソーシャルワーカーでも社会福祉士でもないわたしの現実からすると、何かを決めてから解決するアプローチも必要だけど、本人がどうしていいかわからない、何が答えかもわからないというときは、伴走型のアプローチが必要だと感じていて。つまり、「何かを解決しなくても一緒にいる」でいい、ということ。海ちゃんの場合はいろんなことが絡んでいたみたいだし、自分でもどうしていいのかわからないんだろうなって。もっというと、このまま死んだら死んだでいいかな、みたいな空気すらあった。だったら、決して解決策ではないんだけど、「ともかく北九州にいたら?」って感じでした。

石原海×奥田知志対談 善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続ける

取材日の小倉の空。よく晴れた秋のはじまりでした

石原:知志は「迷惑はかけるもんだ」って話もしてくれたよね。そのときは何を言ってるのかよくわかってなかったし、実際に迷惑をかけすぎていたから、嫌われてるんじゃないかとか、めちゃくちゃでヤバい奴だと思われてるんじゃないかと思っていて。でも、まあ、ここだったら受け入れてくれるだろうなみたいな気持ちもあった。そういう意味でも、ここはわたしにとって稲妻のような、今までとはまったく違う世界と出会った、って感じでした。

奥田:一生にひとり出会うだけでもびっくりしちゃうような人たちが次々に出てくる場所だからね(笑)。

—長年いろんなバックグラウンドを持った人たちと関わってきた知志さんでも「びっくりしちゃうような人たち」と思うのですか?

奥田:わたしは慣れちゃったけど、一般的な話で言ったらびっくりすると思いますよ。でも、慣れて自分のなかの基準が広がることってとても大事で。たとえば息子が本格的な不登校になったことがあるんだけど、当時、学校でいじめが次々と起こっていて、息子が学校に復帰したらターゲットが息子から次の人になっていただけだったそうで、「俺はもう二度と行かん」と。わたしが「学校は行くもんだ」っていう基準のなかでずっと生きていたもんだから、息子がイレギュラーに見えていたけど、息子の言っていることはまともだなと思ったんですよね。

わたしは、平均的なサラリーマンの家庭で育って培った「こうじゃなきゃだめ!」みたいなものも、ずーっとどこかでまだ掴んでいるけれど、ホームレスの世界だったり全然違う世界、いろんな基準を持つ人と出会うということを30何年も繰り返していると、自分のなかの基準が変わったり広がっていったり、どんな人に会っても「世界は広いなあ」くらいになっていきました。

石原海×奥田知志対談 善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続ける

東八幡教会に集う人々が、『重力の光 : 祈りの記録篇』でイエス・キリストの十字架と復活を描いた受難劇を演じている/『重力の光 : 祈りの記録篇』©2022 Gravity and Radiance

「実は自分の努力なんかではなく、ある種恵まれていて、特権性を持っていたからだということに気づけたことがすごく大きかった」(石原)

—海さんは、この教会で過ごしたり、『重力の光』を撮影したりするなかで、自分の基準に変化を感じましたか?

石原:そうですね。わたしは高校1年生になった瞬間からずっとバイトをして自分のお金で大学も行って、助成金を取って海外も行って、ほとんどは自分の努力でここまできたと思っていたんです。でも、たとえば看護師になりたいけど高校を出ていないとか、がんばっても高卒認定が取れない、あるいはそもそも座っていられない、問題を抱えていて自分ひとりでは生きていけないとか、いろんな人の話をここで聞いて、何かをやりたいと思っても、そもそも土俵に立つのすら難しい人がいっぱいいるんだと知りました。

学校はつまらなかったけど、それでも一応は普通に通えたということや、大学や大学院を卒業できたということが、どれだけ特権的なことだったのか。当たり前にひとりで生活してなんとか社会で生き抜くことができることが、実は自分の努力なんかではなく、ある種恵まれていて、特権性を持っていたからだということに気づけたことがすごく大きかったです。2年前に北九州に引っ越してくるまでは自分のことしか考えていなかったけど、それに気づいてからは初めて人のことに興味を持って、人のことを愛せるようになりました。

—さきほど知志さんから海さんに「迷惑はかけるものだ」という言葉をかけたというお話がありましたが、知志さんはなぜそう考えるようになったのですか?

奥田:そもそも人間って、ひとつの存在として自立できてないんですよ。たとえば、わたしが着ている服も「俺が働いて買ったんだ」と言っても、つくってくれる人がいなかったらいくらお金があっても買えないわけじゃないですか。聖書も神様が最初に人間をつくった段階で、「人はひとりでいるのは良くない」という宣言から始まり、男と女が生まれるストーリーになっています。今となっては男と女で一対だと言われたら、ちょっと待ってよって話になるんだけど、それにしても人間は相対的な存在だということですよね。

創世記の第1章は天地創造の物語で、6日間で天地万物ができるというものなのですが、人間がいつつくられたかというと、最後の最後なんです。人間が創造されたとき、神様は「地を治めよ、そして全世界を従わせよ」と人間たちに言う。それは人間が最後の最後につくられたのは、人間が相対的な存在で、全てが揃ってないと生きられないからだとわたしは思っています。だから「従わせよ」というのは「支配しろ」という意味ではなくて、「世界を守れ。そうでないとお前たちは生きていけないよ」っていうことだと思いますね。

—そもそもひとりで生きるのは不可能だ、と。

奥田:人間は誰かに助けてもらわないと生きていけない。だから、わたしはここに来るみんなを見ても対象化しきれないし、自分とまったく別のものだと言えないんですよ。たとえば『重力の光』でイエス・キリスト役をやった菊ちゃん(菊川清志。5回の服役後に極道から足を洗い、東八幡キリスト教会に通うようになる)の「俺が! 俺が!」という感じ。あれだけ露骨に自分を出せる自由さには憧れるけど、見方を変えれば「ああ、わたしや」と。あの人のなかにわたしがいるし、海ちゃんのなかにわたしがいる。そういうことも含めて人間って絶対的じゃないんですよね。自分のために他者が必要で、つまり誰もが本質的には困っているってことです。

人間は相対的で依存的な存在だと考えると、今わたしたちが言う「迷惑」って「迷惑」って言わないんじゃないの? って思うんですよね。だってさっき言ったように、いくらわたしが稼いだお金で服を買ったり、「実は蚕を飼っていて、それでつくった服です」みたいなことだったりしても、じゃあ蚕は蚕で育つためにくわの葉っぱを食べたり、いろんなものと相対的に関係してる。基準をそもそものところに戻して考えていくと「迷惑」という概念が、「生きてる」という概念に転換すると思うんです。つまり、「迷惑をかけてるのは、生きてるから」ということ。そうなると大概のことが起こっても、「海ちゃんが海ちゃんやってるやん」くらいの感じですよ。

石原海×奥田知志対談 善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続ける

イエス・キリスト役を演じた菊ちゃん(菊川清志)/『重力の光 : 祈りの記録篇』©2022 Gravity and Radiance

「善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続けるということ。問題を抱えながらもずるずると生きましょうっていうね」(奥田)

石原:知志をはじめ、人を助けたいと思う人って、きっと自分がめちゃめちゃ助けてほしいと思い続けている人なんじゃないかと勝手に思っていて。わたしはこの教会に通うようになって、映画をつくって人と関わり合いを持つなかで、苦しんでいる人がいたら、自分なりの方法で愛したい——助けるっていうか、愛していきたいなと思ったんです。そう思ったのはわたし自身がマジでどうにもこうにもいかなくて、助けてって思ったことがあるからだって、初めてこの教会に来た日から今までずっと考えていることです。

奥田:そりゃまあわたしもいろいろあるよ。59年も生きてたら、「困ってるから助けて」ってことは大なり小なりある。なんていうか、それは個人の弱さの問題だけでもなくて、今抱えている問題を誰かが解決してくれたとしても、わたしが感じている存在論的な不安定さや心細さ、存在として不成立な感じは拭えないという感覚がある。この間、教会の交流会で飲んでいたときに隣に座っていた人から、「奥田先生の説教は、時々びっくりするほど自虐的な話をする」って言われて(笑)。

—知志さんのどんな説教を聞いて、その人は自虐的だと思ったのでしょうか?

奥田:ローマ書の7章15節の「わたしはなんて惨めな人間か」「この罪の体から誰がわたしを救うか」ということを、時々取り憑かれたように言うんです。それは、ものすごくいいことをしようとしているのに、結果的に悪いことをしているという使徒パウロの言葉で。ちょっと責任逃れな発言なんだけど、パウロは「わたしのなかにはわたし以外の何かが住んでいる」と言っているんですよね。ここに象徴されるような自己理解が、子どもの頃からずっとある。

幼少期に保守的なキリスト教と最初出会って「お前は罪人だ!」みたいなことを言われ続けていた悪影響がトラウマのように残っているのかもしれないけど、生きていること自体が「許されている」としか言いようがないくらい、自分自身の存在をとても不安定に感じているんです。この存在の希薄さや不安定さみたいなものが、たぶんわたしの「ひとりではいられない」という危機感につながっているように思います。

石原海×奥田知志対談 善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続ける

東八幡キリスト教会

—冒頭でおっしゃっていた伴走型のアプローチのお話ともつながりますね。

奥田:だから、褒めるとか許すとか解決するとかじゃなくて、とにかく誰かに横にいてほしいとわたしは思うんです。キリスト教神学の世界ではわたしは古風なほうで、「original sin」、要するに「原罪」の話をするんです。原罪というのは、人間は根源的に罪であるということ。でも、現代の神学は、もっと実存の罪の話をしています。何をやったかやらなかったか、歴史的な罪、構造的な罪、社会的な罪とは何か、とかね。

石原:知志は、人間は全員罪人であるみたいなことをずっと言い続けてるよね。わたしはとにかく自分が生きていることが気持ち悪いし、死んだほうがいいってずっと思ってたし、この教会で人間は罪人だと聞いて「だよね」って思った。で、たしかに人間なんて全員罪人なんだけど、イエス・キリストがわたしたちの代わりに十字架にかかってくれたから、生きなきゃいけない、と。

自分なんて必要とされてないとか、死んだほうがいいとか、この世からいなくなったほうがいいって思っちゃいけないと思っていたわけではないけど、これまではその気持ちのやり場や落とし所がなかったんですよね。でも、今はそのやり場が一旦イエス・キリストになった。イエス・キリストが死んだんだったら、とりあえず今は死ななくていいのかな、時がきたら死ねばいいのかな、と思うようになりました。『重力の光』でも、この教会に通う人たちがイエス・キリストが十字架にかかるところから復活までの演劇をしたのですが、それは知志の原罪論的な考え方にすごく影響を受けたからだと思います。

—強い自己否定がありながらも、お二人がほかにないかたちでそれぞれ活動されていることについて考えていました。つくることで生きる方法を探している、というようなところもあるのでしょうか。

奥田:そうそう。それくらい強い自己否定感があるにもかかわらず、やっぱりどこかで生きたいと思っているから、存在の脆弱さが生まれるんだよね。わたしは一度も死にたいと思ったことはないけど、生きられない、生きていけないみたいな心細さに苦しんできた。かと言って、「じゃあ死ねよ」と言われてもたぶん死ねないし、そういう自らの底の浅さから逆に絶望感が生まれてくる。自分のなかにあるその薄暗さをすごく気にしながら、死なずに59年生きていることが、さらなる存在の薄暗さを生んでいるところもあるんだと思う。

石原:自分は本当に空っぽの、何もない人間だから、何かをつくることでしか人と関わりを持てないとずっと思っていました。ものをつくることで無理やり人と関わり、喋る機会をつくっているという側面があったような気がする。でもこの教会に来たときは、ものをつくってなくても生きることが許される場所があるんだと思ったというのがまずありました。

じゃあなんでものをつくるのか? ということと、生きることで言うと、わたしは自分のことを本当に罪人だと思っていて。そこにはいろんな理由があるにせよ、わたしみたいにクソでくだらない人間が、クソでくだらない人間のためのものをつくる必要があるんじゃないかなって。そういうふうにものをつくる人が一人くらいいてもいいんじゃないかと思って、クソで最悪でだらしない人間のまま、同じような人たちを肯定するためにものをつくってみている状態ですね。

石原海×奥田知志対談 善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続ける

『重力の光』撮影中の様子

石原海×奥田知志対談 善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続ける

奥田:今日の祈祷会で読んだ伝道の書7章18節の新改訳には「一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している」と書いてある。わたしはここにえらく惹かれたんですよね。いいことをしたいんだけど、ちゃっかり悪いこともするし、生きたいと思いながら一方では「俺なんて死んだほうがいいんだ」って思ってる。善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続けるということが、最初に言った「住んだら?」ってことにつながっています。問題を抱えながらもずるずると生きましょうっていうね。

「わからなさや共感できなさを互いに共感することが大事」(奥田)

—祈祷会にも参加させていただきましたが、想像と違ってイメージが変わりました。キリスト教をはじめ宗教の多くは、ひとつの教え、ひとつの方向にむかっていくようなイメージを抱いていたのですが、東八幡キリスト教会の祈祷会は、伝道の書7章の複数の訳をみんなで読みながら、一人ひとりがああでもないこうでもないと解釈をしていて、とても創造的なことに思えました。

少し飛躍してしまうかもしれないのですが、海さんは創作、知志さんは支援に軸足を置かれています。お互いの活動がどこか重なり合うようなーーたとえば、創作のなかにも支援が、支援のなかにも創造性の要素が含まれるような場面はあるのでしょうか。あるいはお二人が出会ったことで影響し合ったことなどはありますか?

奥田:難しいねえ!

石原:わたしは考えていたことがあって。ここに来る2年前まで、自分がつくるものを100年先まで残したい、100年先まで残すことが重要だ、と思っていたんです。でも、北九州に引っ越してきて知志や教会のみんなと出会ったことで、つくるものを目の前の人に届けたい、今この瞬間に届けば明日忘れられたとしてもどうでもいいくらいに思うようになりました。それは知志の支援している様子とか、教会の人とともにあるっていう生き方が、ものをつくることの考え方に大きく影響したんだと思います。

—もともとはどういう気持ちで「100年先」と思っていたのですか?

石原:自分のことをわかってくれる人が今この瞬間この世に誰一人としていないと思っていたから、100年くらい自分の作品が残っていたら、一人くらいはわたしのことわかってくれる人がいるだろう、って。でもこの教会に来て、とりあえずわたしのことを許してくれる人がいるから、100年先に届ける必要がなくなったんです。絶対的に「わかる」なんてことはないと思うんですよね。でも、少なくとも許してくれる人がいるんだなって思えるようになりました。それまでは、どんなに許してくれていても実は嫌われているんじゃないかと思っていたけど、これだけわたしと一緒にいてくれているってことは許してくれているんだ、と。

—自分のことをわかってほしいと思う人はきっとたくさんいるのではないかと思います。だけど、わかってもらうこともわかることもできない。それでも「横にいる、そばにいる」ことはできるかもしれないというのは、奥田さんの話ともつながりそうです。

奥田:そうですね。問題解決型の支援ではなく、わたしがやっている伴走型の支援の場合は、つながっていればいい、もっと言うと死なない程度に失敗できる社会をつくるということでもある。聖書のなかに、「明日のことは明日自身が思いわずらう。1日の苦労は1日にて足れり」という言葉があるのですが、人間の苦難っていうのは、上に乗っかっている苦難は取れても、ホームレスや深い困窮が重なっていくと魂みたいな根の深いところに一生の傷がつくんです。傷ついた魂をピカピカに返すのが支援ではなくて、魂の部分に傷を持っていることを共有していくことがつながりのポイントだと思っています。さらに言うと、わからなさや共感できなさを互いに共感することが大事。

今日の祈祷会で言うと、誰も聖書から答えを引っ張り出そうとしていないんですよね。刹那的な言い方かもしれないけど、それぞれに生きて、あの時間があの時間として終わることが大事なんです。「今日もみんなそれぞれなりに生きたよね、菊ちゃんは菊ちゃんやな」と1日が終わっていき、そこに答えを導き出すわけではない。それでいい。とは言えおもしろいのは、みんなバラバラに読んでいるはずなのに、時々全然意図してなかった意味合いが1つの星座みたいに浮かんでくることがある。そういう意味では創造的ですよね。

石原海×奥田知志対談 善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続ける

『重力の光 : 祈りの記録篇』©2022 Gravity and Radiance

奥田:支援というのは、支援者が対象者を理解しようとする試みですが、支援者が一方的に対象者を理解するということは、一歩間違えると支援ではなく「支配」とあまり変わらない関係になってしまいます。野宿しているおじさんの横に座って、生い立ちなどを聞いて、「大変だったね、辛かったね」と言うと、8割9割のホームレスの人は、「初めてちゃんと話聞いてもらった」って喜んでくれる。でも残りの1割2割の人は、「大変でしたね、わかりますよ」みたいなこと言った瞬間に、「お前に俺の何がわかるのか」と。わたしもそう言われたことがあったのですが、カチンときて「お前に妻子持ちの気持ちがわかるか?」と(笑)。一方的に理解しようとするのではなく、お互いわかんないねってところで合意しました。共感不可能性の共感みたいな世界もあるんですよ。それでもなんだか星座を描いていくような場面があるから、人間は出会わないとだめなんです。互いに全然違うことを言ってても、それがおもしろいんですよ。

石原:知志が言っていた共感の話について、わたしは共感しえない世界でわたしたちが生きていることを映画に撮っているから、「映画に共感しました」みたいな考え方って危険だなと思っています。特に映画って大衆芸術だからプロパガンダにもなり得るし、いつもものをつくるうえで、映画の持つ暴力性や支配性のことを考えています。共感からどれだけ離れて映画をつくれるか。それが大事だと思っています。

石原海×奥田知志対談 善と悪の両方を掴みながら、その狭間で生き続ける

『重力の光 : 祈りの記録篇』©2022 Gravity and Radiance

石原海

1993年東京都生まれ、北九州在住。アーティスト/映画監督。愛、ジェンダー、個人史と社会を主なテーマに、フィクションとドキュメンタリーを交差しながら作品制作をしている。

個展『重力の光』(資生堂ギャラリー/2021)『頭のいかれた悪魔の泥沼』(TAV Gallery/2017)主な上映に『重力の光』第14回恵比寿映像祭(東京都写真美術館/2022)初長編映画『ガーデンアパート』短編映画『忘却の先駆者』ロッテルダム国際映画祭(2019)主な助成に英国テレビBBC/BFI『狂気の管理人』監督(2019)リクルート財団(2018~2020)ポーラ美術振興財団(2023) 主な受賞に現代芸術振興財団CAF賞 岩渕貞哉賞受賞(2016)

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奥田知志

1990年、東八幡キリスト教会牧師として赴任。同時に、学生時代から始めた「ホームレス支援」を、ボランティアとしてだけでなく、教会の課題として継続し、北九州市において、2800人(2015年12月現在)以上のホームレスの人々を自立に導いたNPO法人「抱樸」(旧北九州ホームレス支援機構)の理事長としての重責も担う。その他、社会福祉法人グリーンコープ副理事長、共生地域創造財団理事長、国の審議会等の役職も歴任。毎日新聞社福祉顕彰など多数の表彰を受ける。NHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル仕事の流儀」にも2度取り上げられ、著作も多数と広範囲に活動を広げている。

東八幡キリスト教会
NPO法人抱僕
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『重力の光 : 祈りの記録篇』
(2022年/日本/72分/カラー/16:9/ステレオ)

監督:石原海/撮影監督:八木咲/撮影補助:杉野晃一/美術:中村哲太郎、前田巴那子/音楽:荒井優作/録音・整音:川上拓也/照明:島村佳孝、伊地知輝/メイク:宇良あやの、竹中優蘭/衣装:塚野達大/翻訳:Daniel Gonzalez/題字:石原邦子/コーディネート:谷瀬未紀(pikaluck) /制作:柿本絹、木村瑞生/プロデューサー:AKIRA OKUDA/出演:菊川清志、森伸二、⻄原宣幸、村上かんな、下別府為治、奥田伴子、川内雅代、藤田信子、石橋福音、奥田知志/撮影協力:枝光本町商店街アイアンシアター、東八幡キリスト教会、NPO法人抱樸、株式会社FRAGEN、桑島寿彦、つかのみき

配給:「重力の光」制作運営委員会 ©2022 Gravity and Radiance

9月3日(土)〜【東京】シアター・イメージフォーラム
10月1日(土)~【大阪】 シネ・ヌーヴォ
10月22日(土)~【愛知】名古屋シネマテーク
10月28日(金)〜【福岡】 KBCシネマ
11月18日(金)~【京都】 京都みなみ会館
12月17日(土)〜12月31日(土)【神奈川】横浜シネマリン

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