石原:知志をはじめ、人を助けたいと思う人って、きっと自分がめちゃめちゃ助けてほしいと思い続けている人なんじゃないかと勝手に思っていて。わたしはこの教会に通うようになって、映画をつくって人と関わり合いを持つなかで、苦しんでいる人がいたら、自分なりの方法で愛したい——助けるっていうか、愛していきたいなと思ったんです。そう思ったのはわたし自身がマジでどうにもこうにもいかなくて、助けてって思ったことがあるからだって、初めてこの教会に来た日から今までずっと考えていることです。
奥田:そりゃまあわたしもいろいろあるよ。59年も生きてたら、「困ってるから助けて」ってことは大なり小なりある。なんていうか、それは個人の弱さの問題だけでもなくて、今抱えている問題を誰かが解決してくれたとしても、わたしが感じている存在論的な不安定さや心細さ、存在として不成立な感じは拭えないという感覚がある。この間、教会の交流会で飲んでいたときに隣に座っていた人から、「奥田先生の説教は、時々びっくりするほど自虐的な話をする」って言われて(笑)。
—知志さんのどんな説教を聞いて、その人は自虐的だと思ったのでしょうか?
奥田:ローマ書の7章15節の「わたしはなんて惨めな人間か」「この罪の体から誰がわたしを救うか」ということを、時々取り憑かれたように言うんです。それは、ものすごくいいことをしようとしているのに、結果的に悪いことをしているという使徒パウロの言葉で。ちょっと責任逃れな発言なんだけど、パウロは「わたしのなかにはわたし以外の何かが住んでいる」と言っているんですよね。ここに象徴されるような自己理解が、子どもの頃からずっとある。
幼少期に保守的なキリスト教と最初出会って「お前は罪人だ!」みたいなことを言われ続けていた悪影響がトラウマのように残っているのかもしれないけど、生きていること自体が「許されている」としか言いようがないくらい、自分自身の存在をとても不安定に感じているんです。この存在の希薄さや不安定さみたいなものが、たぶんわたしの「ひとりではいられない」という危機感につながっているように思います。