『重力の光』の舞台となる教会は、居心地の良い空間のように見えた。そこには、さまざまな境遇の人たちがふらふらと集まってくる。ある人は、その場所の周りにそびえ立つ壁を感じていたかもしれない。あるいは自分の周りに壁を作っていたかもしれない。それが少しずつ揺らぎ、薄れてゆく。そのことが、それぞれの言葉で語られる。
いちいち表明する必要がないことは重々承知だけれど、「キリスト教徒ではない」自分にも、その空間は心地よさそうに映った。長年私の中に居着いたキリスト教に対する不信感が消えたわけではない。しかし、東京からでもどうにか行ける距離にこのような場所があるという事実に、安心感を覚えもした。観終えて、何を書こうかと考える。書きたいことは色々ある気がするが、どこから書いけば良いのかわからない。結局はいつもみたいに自分のことばかり書いてしまいそうな気が既にしている。だから、とりあえず自分とキリスト教との、そんなに多くはない接点について書いてみたいと思う。
2000年代初頭から中頃にかけて、アメリカに留学していた。同性愛者である私にとって、当時のアメリカでキリスト教は恐怖すら覚える存在だった。9.11からまだ時間が経っていなかったことも影響していたのかもしれない。もちろん、日常的に恐怖を感じるようなことはなかった。しかし、たとえば内陸の方に旅をして、そこで出会った若者たちが皆キリスト教徒だったりして、私が同性愛者であることを彼らが知ったらどう思うだろう、と考えずにはいられなくなるような体験を何度かした。直接的に攻撃されたこともないけれど、時々見え隠れするそれは強固な体制、強固な境界線だと感じられたし、私自身向こう側との接触を拒んでいた。
変化も感じた。ある時、神学校に通う同世代の男性が、当時制作していた写真シリーズのモデルになりたいとネット経由で声をかけてくれて、学内の寮、彼の部屋で撮影をした。詳細は省くが、神学校という空間のある一部屋で、神様が見ていたらどうしよう、と(いくらか環境に引っ張られて)背徳心を感じてしまうような撮影だったが、それでも彼はカジュアルに、あけすけに、被写体になってくれた。聖職者を目指しているという彼は、学内でも同性愛者であることを公言していると言っていた。女性やマイノリティの権利についてリベラル寄りの態度をとるエピスコパル系の学校だったが、彼の存在に不快感を示す者もいたらしい。少し、自分の中で境界が揺らいだような体験だった。2005年ごろのこと。
日本に帰国し、東京に住むようになってから、沖縄・日本・アメリカの関係性を背景にした作品を作るようになった。そして2012年にスタートしたのが、今も続く「American Boyfriend」というプロジェクトだった。当初のテーマは、「沖縄人男性とアメリカ人男性が、沖縄という土地で恋に落ちることは可能か」。存在としてマスキュリンな基地がある沖縄で、歴史のおもて面には出てこないような、フェンスを介した男性同士の関係性を、メロドラマティックな物語を用いて語ってみるという試み。続けるうちに、こちら側からフェンスの向こう側を想像するだけではなく、向こう側の語りに触れてみたくなった。かつてニューヨークで、神学校の男性の語りに短い間ながら触れることができたように。ある時、ネットの英字ニュースで、沖縄の基地内で軍属の人々によるドラァグショーが企画・開催されていると知り驚いた。米軍基地とはつまり異性愛者の男性以外は排除されがちな社会だと考えていたから。さらにネットを探ると、ショーの企画者達のFacebookページを見つけ、そこには煌びやかな姿で踊り、リップシンクをするクイーンたちの動画があった。彼らにコンタクトを取り、紆余曲折を経て、そのうちのひとりが撮影に応じてくれ、私は彼がドラァグクイーンに変化してゆく様を、そしてクイーンとしてリップシンクする姿を映像に収めた。その時もまた、境界が揺らいだ。基地のフェンスに秘密の抜け穴を見つけ出したような感覚を覚えた。
プロジェクトを継続しているうち、日本とアメリカとの関係性の不均衡、そこで生まれる物語は時代や場所を超えた普遍的なものではないか、と思い始めるようになった。排除の歴史、なきものとされた人々。沖縄以外の場所の歴史に意識を向けた時、真っ先に浮かび上がるのはキリシタンの歴史だった。ちょうど津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』を読んでいたことも大きかった。弾圧を逃れるように九州へと向かうキリシタンの人々、その度に加わるアイヌの少女の物語。長崎にたどり着いた彼らは、生きるために、信仰を守るために、マカオやバタビア(ジャカルタ)などへと散り散りになってゆく。
もっと深くその歴史を知りたくなって、私は法皇に謁見するためにイタリアを旅した天正遣欧少年使節をはじめとする、キリシタンの人々にまつわる土地をいくつかめぐることにした。長崎の外海地区や島原半島、マニラ、マカオ。不思議な偶然もあった。リサーチをしていた2016、17年ごろ、天正遣欧少年使節にまつわる新たなふたつの発見がニュースになったのだ。使節団のひとりで、帰国後に棄教したとされる千々石ミゲルの墓所とされる場所でロザリオらしきものが見つかり、ミゲルが信仰を捨ててなかったかもしれない可能性が浮上した(のちにそれはミゲルのものではなく一緒に暮らしていた妻のものと判明した。今年になってその墓所がミゲルと妻の墓だと確定されたようだ)。
もうひとつ、特に感情を揺さぶられたのは、新たに発見されたという使節団の伊東マンショの肖像だった。ヴェネチア派を代表するティントレットの工房で描かれたその絵には、資料などでよく見かける平坦な少年の姿ではなく、うっすらと髭を生やした青年マンショの姿があった。彼もまた、血の通った人間だったことがわかり、途端に親近感が湧いた。かつての自分がそうだったように、彼もまた異国の文化に困惑するひとりの若者だったのかもしれない。青年マンショは、そして棄教するに至ったミゲルは、イタリアで何を見たのだろう。言葉や文化の違いに戸惑い、食事も口に合わなかったのではないか。好奇の眼差しにさらされ、心無い言葉を投げつけられたかもしれない。印刷機など、当時日本になかった技術を目にして驚いたのではないか……。歴史の上で語られる大きな物語ではなく、彼らの日常や感情を知りたいと願うようになり、結果、2019年にはイタリアで彼らが巡った土地を旅するまでに至ったのだから、巡り合わせというのも不思議なものだと感じた。私は、天正遣欧少年使節の気配を感じ取ろうとしていた。彼らの辿った人生は過酷なものだったけれど、彼らの存在に、その周りに壁を感じることもなかった。たとえキリスト教という背景があったとしても。
『重力の光』を観ながら常に感じていたのは、この人間の気配、居心地の良さだった。映画内で教会に集った人々は、キリストの受難を描いた劇を皆で作り上げようとしている。演技経験の少ない、年齢もばらばらな人々が言葉を交わしながら。彼らもまた、私が使節団に感じたように、遠いキリストを自分に近づけて、その存在に親近感を覚えている。パンフレットに掲載された石原監督による「二人で腹を割って飲んだことはないんだけど、大人数で飲んでる時に、なんとなくそこにいてくれるだけで安心感があるようなタイプ」というキリストに対する言葉はそのことをよく表している。
人々はそれぞれに、消し去れない過去があり現在もいろんなものを抱えながら、教会に通う。同時に、飲んだくれているし、鼻毛は出ているし、天使の羽をつけて妙な踊りをしながら茂みの向こうに消えていったりする。彼らは、向こう側の人ではない。当たり前のことなのに、身構えるような自分の態度がどんどん解かれてゆく。映画の中で、特に好きな箇所がある。劇中でも重要な最後の晩餐のシーンにおいて、パンをどう分け与えるかと人々が議論をする。キリストが厳密にどう振る舞ったかとか、書物にはどう描かれているとか、そういうことではなく、その舞台環境の中で効率よく、動きやすい方法を探る。忠実さを求めるのではなく、そこにいる皆が振る舞いやすいようにする。短いシーンで、その何気ないやりとりに関係性の豊かさを感じた。
実際に演じられたシーンには、確かな崇高さがある。同時に、議論を経て決定に至ったのであろう、キリスト役の男性がパンをちぎってお皿に持ってゆくその様はどこか素朴で、緊張感よりも安心感や懐かしさを感じる。遠い昔に、誰かにこんなふうにパンをちぎってもらったことがなかったか。その場にいて、一欠片を口に入れて噛み締める自分を想像する。きっと、あの人のかけらの方が大きかったな、とか(グラスは空だろうけど)もっとワイン飲ませてほしいな、とか思うのだろう。あるいは演じた人もそんなふうに思っていたかもしれないし、使徒の誰かもほんの少しそんなことを考えたのかもしれない。そんな余計なことを考えていたって良いのだというおおらかさがある。パンフレットでも、イエスの死の場面で出演者のひとりが笑いこけていたというエピソードが語られていた。
真摯で、でもどこかおかしみを感じさせるそのシーンを観ながら、かつてのイタリア旅行、フィレンツェの教会で見たフレスコ画を思いだす。薄暗い部屋の中、天井か壁面に開けられた丸窓から入った太陽の光が壁画の一部を丸く照らしていた。そこに描かれていたのは岩肌を破って、開いた穴から人間の世界に現れたらしい悪魔たち。どこか素朴な表情を浮かべた彼らを、私が部屋に足を踏み入れたちょうどその時間に、午後の柔らかな丸い光が包んでいた。悪魔たちがとぼけた顔で見ているのは磔にされたキリストだったりするのだけれど、悪魔にすらも温かな光を注ぎ、そこに同居させている。意図されたものかは分からないが、その絶望的とも言える受難の風景に生まれたおおらかさのようなものに強く惹きつけられた。彼らはそこにいて、そして温かな光の中でぼんやりと佇んでいる。悪魔となるとまた別の話……と言われてしまえばそのとおりながら、そのおおらかさのようなものが、『重力の光』には確かに存在する。
映像の中で人々に当たる光も、教会に差し込む光も、羽を背負った人々を包む晴天も、眩い。それでも、目を逸らしたくなるような明るさではない。そっと壁に開いた抜け道を示してくれるような、おおらかで謙虚な光に満ちた映画だった。