しきりに、なにやら泣きたいような気持ちになる、言いようもない、はじまりの見えない巨大な水槽に覆われているみたいな状態になることがしばしばある。今日はその日だった。ずっとそうだったといえばそうだし、今年に入ってからはいっそう、二月になってからは尚さら、そうかもしれない(同時に、なんでもかんでも今年は、二月は、って年間や月間で区切るような言いかたをしたいわけではないのにと思う)。でもべつにこれはわたしの内側でのみしずかに起きていることだから、きっとだれにも気づかれない。なにか心当たりがあるのかと問われてもいろんな気持ちがある、それらを名指しでひとつひとつ答えることができない。からだに特記するようななにかがいま起きているわけではない、心に関しても。こういうとき、もしかしたら心とからだとはまたべつの、もうひとつの場所を人間は持っているのかもしれない、というところまで思いいたる。
いつもと違う道をえらんだ帰り道で、煌々とわざとらしく光る知らないぴかぴかのコインランドリーがあらわれる。ある、じゃなくてほとんどあらわれる、だった。あたりには心許ない街灯の明かりが点々、というか 点 点 点、ぐらい。あとは光るものはときおり走る車ぐらい。異様な光りかたをしている見知らぬ大きなものが突然あらわれると、すこしこわい。オープンはまだらしい。コインランドリーそのものではなく、いきなり目の前にあらわれた主張の強い明るすぎるもの、にたいする胸のざわつき。
わたしにはわからないことがありすぎる。わからない、というのは、知識や情報のことではなく、じぶん自身の気持ちが。あっちにもこっちにも気持ちがある。どっちにもあるし、いま用意されているどこにも所属させてあげることができないと思うことがある。ひとつに束ねられない、言いきれないことがあまりにある。
日付けが明日に差し掛かる、もうこの2という数字が六つもならぶ日が終わりかける頃(どうして隣りあう同じ数字の連続にこうもよろこんでしまうんだろう? っていう思考が一日じゅう点滅していた)。少なからず、いま置かれている場所でのおおきな波、にけっしてさらわれることなく きっちりじぶんの目で対象を見つめている友人のはなしを聞いていると、その目はほんとうに、素晴らしいものだよと伝えたくなり、そうする。そうしたら、「あなたもそうだよ」と言われる。おどろいて、「わたしはすぐにわからなくなる、それにわからないことがありすぎる」と伝える。すると「わからないことをわかっているじゃないですか、わからないことをわからないと言えています。わからないことすら知らない、もしくは、そんなことどうだってよいというひともいます。だからあなたがそうやって迷ったり悩んだりする姿がわたしにはとても魅力的です」と続けられる。おどろきながら、うまく受けとりきれないまま、そうだった、とも思いなおす。わたしたちはこういった会話をたびたびする。忘れかけるたびに、する。そのたびに思いだす。じぶんの揺れているさまを、真正面から目を合わせて「魅力的です」と言ってもらえる心強さと、揺れつづけているじぶんへの煮えきらなさに押し寄せられてやっぱりなにやら泣きたい。だけれどわたしだって、ほんとうは信じていることも知っている。五年前に、ほんとうはみんな、一緒くたにできない、途中の、言葉になる前のいろんな気持ちがあって、そのことをそれでいいのですとみずから肯定するためにつくった本を、読み返すことにした。