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創作・論考

プラトニックな光

連載:プラトニックな光で満ちた窓が見えるよ/水沢なお

中原中也賞を受賞した第一詩集『美しいからだよ』に続き、『シー』『うみみたい』を発表している詩人の水沢なおさん。自分と他者の名づけようのない関係性や、人や人ではないものを等しく愛しいと思う気持ち、「産む」という行為へのアンビバレンスなどをテーマに言葉を磨く、水沢なおさんのエッセイ連載が始まりました。

どうしてわたしは詩を書いているのだろう。身体があることは時たまとても苦しく、けれど、誰かや世界と触れ合うことを求め続けている。連載最終回、辿り着いた「プラトニックな光」とは──。

プラトニックな光。
幼馴染の運転する車で、夜の海を見に行く。
カラオケで自分のためだけに、宇多田ヒカルの“光”を歌ってくれる。
みずうみの畔、白鳥のボートのとなりに、てんとう虫のボートが浮かんでいる。
「わたしの恋人と、あなたの指が似ている」と言われる。
わたしのために雷を落とす。ボールを投げる。
放課後の教室で、オーボエを吹いてくれる。
知らない花の名前を教えてくれる。
スマートフォンの画面越しに毛を撫でた犬。
お絵描きチャット、教室で呼ぶ時とは異なる名前であなたを呼ぶ。
海のクレヨンで詩を書く。
あなたがうんだ、かもしれないたまごを手渡される。
爪を磨いてもらっているときのかすかな皮膚の熱。
病室で、ワイヤーが入った下着を脱ぐように指示するときのぎこちなさ。
わたしの背骨は曲がっている。
親しい人々と恋愛関係で結ばれていた、もう二度と会うことのないやさしいひとたち。
ゲームソフトのなかに、名前とプレイした回数だけ残っている。

光たちの記憶。光の記憶。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

宮沢賢治の『春と修羅』の詩を諳んじる。シーツのうえに寝転がりながら、天井を見つめる。シーリングライトの丸くて淡い光が、ぼんやりとした意識とともにやわらかい布地に沈み込む。だれとも接続していないとき、自分にはどうして身体があるのだろう、とよく考える。暗闇の中、ちかちかと明滅する青い照明のように、あるいは公転する惑星のように、だれかとコミュニケーションを取ることはできないのだろうか。
ある時、大切な友人から手紙をもらった。恋をしたら詩が書けなくなると思っているのかもしれないね、と綴られていてそうかもしれないと思った。例えばキキみたいに、と手紙の中には書いてあった。それは、ほうきで空を飛ぶ少女の名前だ。『魔女の宅急便』の小説や映画をまだ見たことがないから、キキがどうして魔法を使えなくなってしまったのか、本当のところをわたしは知らない。ただ、恋をしたから魔法が使えなくなった、とも受け取ることのできる物語なのだろう。
恋をすると、魔女から人間に近づく。
恋をすると、詩人から人間に近づく。
本当に?
恋をしたから、人間から詩人になってしまった人も、もちろんいるはずだ。それに、恋をしないと人間になれない、なんて絶対に思えない。
わかっている。
友人は恋することを恐れないで、と手紙を通してわたしに伝えてくれた。それは、そっと背中を撫でてくれるような、あたたかい言葉だった。それなのに、未だにわたしは恋をおそれている。いや、それは恋に限らない。わたしはだれかと触れあうことを、親密になることを、ひとつになることを、強く求めながら、いつも恐れている。

ひとつになること。ふたりであること。一対一であること。
そうあろうとする人々、あるいは物や存在、それらの関係を描いた物語に、わたしは常に心惹かれてきた。
幼少期に出会った作品はどれも、人間と、人間のようで人間ではない存在との絆が描かれていて、その物語をこよなく愛していた。たとえば、『金色のガッシュ!!』『ミルモでポン!』『とっとこハム太郎』『おじゃる丸』『デジモンアドベンチャー』『ポケットモンスター』……。
かわいくて天真爛漫なキャラクターたちの姿に、安心感や愛おしさを抱きながら、時にはまだちいさな自分のかたちを重ね合わせていた。それでいて、マグカップからミルモのような妖精が現れないかな、草むらから野生のポケモンが飛び出てこないかな、キャンプに行ったらパタモンと出会えたりしないかな、とよく夢想した。冷蔵庫のなかで冷えている麦茶をカップに注ぐとき、通学路につくしが生えているのを見つけたとき、習い事へ向かう車の後部座席。あらゆる日常の隙間にふと、心通じる存在を探していた。
中でも、『金色のガッシュ!!』は、わたしがはじめて漫画を購入した、思い入れの深い作品だ。当時のわたしは、ガッシュのような漫画を連載したいと思っていた。
ガッシュは、百人の魔物の子と、百人の人間が力を合わせて、魔界の王を決めるお話。つまり、作中には百組の二人組が登場するのだった。魔物の子は、人間の子どもに似た姿の子もいれば、犬や馬などの動物に似た子、ロボットのような見た目の子、いわゆる大人にしか見えないような子など、さまざまな子がいる。人間との心のつながりや絆がおおきな力となり、ふたりを夢へと導いてゆく。友人のような、恋人のような、きょうだいのような、同僚のような、いがみ合うような、主人と僕のような、さまざまな関係性のふたりがいる。
そんなふうに、たくさんの二人組が出てくる漫画が描きたいと思っていた。どうしてみんな、ガッシュのような物語を書かないのだろうとすら思っていた。百通りのふたりをつくりたい、出会いたいという、いまとあまりにも地続きの夢がその頃からあった。
もう少し歳を重ねると、お笑いにも夢中になった。ひとがお笑いをするとき、それは必ずしもコンビという単位には限らない。ただ、二人組での活動を選択している芸人はなぜだか多い。とくに漫才を見ていると、ふたりの人間がただおしゃべりしている、と感じる。どれだけ突拍子もないことを言い出しても、相方は必ずなにかリアクションをしてくれる。舞台に立っている間、漫才をしているあいだだけは、片方は片方のことを絶対に見捨てることはない。
そして相方、という存在への憧れ。もし自分がお笑い芸人だったら、と中学生くらいの頃、授業中によくそんなことを考えた。出囃子は相対性理論の『LOVEずっきゅん』にしよう、とか、単独ライブのタイトルは、LLRとか霜降り明星みたいに、なにか規則性のある名前にしよう、とか(LLRは田中麗奈出演の映画から、霜降り明星はポケモンのわざの名前から取られている)。ラーメンズとかジャルジャルみたいに、いつでもおそろいの衣装を着て、それでいて、ちょっぴりかなしいようなコントをする。そんなふたり。
ただ、わたしの隣にいるであろう相方の姿が、まるで想像できない。わたしのようで、わたしではない存在が浮かぶ。ふたりは影になる。透明人間になってしまったかのように、二着の白いシャツだけが、舞台上で揺れている。

今でも、ひとりの部屋で、恋愛を主題とした漫画を読む。なにか、無垢で純粋で、今にも壊れそうな思いを吐露する瞬間、それが壊れないまま成就する瞬間、わたしはいつも泣いてしまう。曲で言えばSPEEDの『White Love』とか、『熱帯夜』みたいな、そんな純真さと痛々しさのことだ。まだめくっていないページの奥に潜んでいる、地下水のようなそれを察知した瞬間、押せば水が出る装置のように、わたしの眼は圧され涙が音もなくこぼれてくる。
自分とまるで関係のない恋愛の話を、いつまでもしていたい。冬の夜にする編み物のように、ストーブのうえで煮える水のように。あらゆるひととひと、ひとやものが通じ合う瞬間を信じていたい。そんな無垢な光の前で、わたしは自分のかたちを一度、失う。気がつくと、わたしは走り疲れた白い犬のように、透明な涙を流しながら眠っている。

まぶたをひらいて、つめたい水で顔を洗いながら生活をしていると、触れ合わなくても、一対一にならなくても、ひとつになれなくても、それでよいのだと思える。日々すれ違う人々と、傷つきながら、ときには自分のかたちを変容させながら、わかりあえないことをわかちあっている。完全にひとつにならなくても、わたしたちは、そばにいることができる。そのことの喜びをわたしは知っている。
それなのにわたしは、たまに、わかりあえないことが、わからない。ひととひとはなにもかもすべてわかりあえるのではないか、ひとつになれるのではないか、と心の奥底では信じている。それはカーテンの細い隙間から射す光のように、ひっそりと、まっすぐにわたしをつらぬいている。
光がわたしの心臓の近くで明滅する。本当にひとつになれないんだったら、もう、なにもいらない。この身体なんて特にいらない。透明になりたい。身体があることは時たまとても苦しくて、でもそれ以上に、髪の毛や指先が透き通っていたらとてもうれしいと思うから。

どうしてわたしは詩を書いているのだろう。詩を書いているときの、あの全身が透きとおるような感覚はなんなのだろう。言葉と向き合うとき、わたしがどんどん消えていって、世界そのものが、限りなくわたしになる。わたしはわたしを見失う、知覚することができなくなる。わたしはあらゆる身体に憑依する。だれのものでもない、透明な身体へと。
透明にならないと、わたしは世界と触れ合うことができない。だから詩を書いている? だとしたら、詩はわたしにとって、世界と、だれかと接続するための唯一の手段だ。
わたしたちはわかりあえない、ひとつにはなれない。そう思いながら、ひとつになるための詩を書いている。だけど、だからこそ、わたしはなにかから解き放たれ、他者とすなおに触れ合える気がするのだ。詩を読んでいるときもそうだ。わからない、とよく思う。どれだけ好きな詩を幾度読み返しても、ぼやけた目で遠くを見つめているときのような、あるいは、肉薄するあまり視界に収まりきらないような、途方のない気持ちになる。
ただ、不明瞭なうすい靄の中にとつぜん、光が差し込み、ほんの一瞬だけ触れ合う。伸ばした指と指、曲線を描いた爪がかすかに触れ合う、完全に重なり合う。その瞬間、爪先ほどの狭い隙間から、相手のすべてが身体に流れ込んでくる。それは、ただの思いこみかもしれない。でも、その瞬間のまばゆさをわたしは忘れることができない。詩と混ざりあい、わたしはだれかと向き合っている。

プラトニックな光。ひと、けもの、魚、植物、鉱石、たまごっち、インターネット上のいきもの、ぬいぐるみ。きみ。あなた。わたしが詩のなかに綴ったあなた。会ったことのないどこかにいるあなた。あなた。いま、この言葉を読んでいるあなた。
あなたのことが、わからなくて。わたしの追い求める光のなかに、わたし以外のすべてがある気がして、足がすくむのだ。
銀河の果てと果てにある惑星くらい、遠く離れているのに、何もかもすべてわかりたい、わかってもらいたいなんて傲慢だろうか。身体が触れ合っていなくても、見つめ合うことでひとつになれたりしないだろうか。
その祈りの果てにあるのが、詩だ。自分の身体を、希求を、詩にすることで、わたしは惑星に、青い照明になることを可能にする。詩はわたしに適切な距離を与えて、そして身体を曖昧にする。わたしは、遠く離れた場所にいる。あなたのことだけを考え続けている。その距離を保ったまま、肌の、髪の毛の、爪の、瞳の境界線を失うほど、ひとつに溶け合ってしまうような、そんな光のなかであなたと出会えたらいいのに。

わたしは臆病で、傷つくことを恐れている。
そのくせ、だれかと繋がりたくて。
詩はいつも待ち望んでいる。
わたしもそうだ。
あなたと溶け合いたいのだと思う。
言葉であなたに触れている時、なによりも親密に感じる。
ひとは透明になるために生きている。
重なれば重なるほど、光は透明になってゆく。
だから、わたしは詩を書いている。
この世界のすべてと重なってしまいたくて。
触れあうほど透明に透きとおってゆく――それが、わたしにとってのプラトニックな光だ。

水沢なお

詩人。1995年静岡県生まれ。2016年に現代詩手帖賞を受賞し、デビュー。2019年刊行の詩集『美しいからだよ』(思潮社)で中原中也賞受賞。第二詩集『シー』(思潮社)。近著に初の小説集『うみみたい』(河出書房新社)がある。

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『うみみたい』

著者:水沢なお
発行:河出書房新社
発売日:2023年3月25日(土)
価格:1,760円(税込)

『うみみたい』│河出書房新社

『シー』

著者:水沢なお
発行:思潮社
発売日:2022年11月1日(火)
価格:2,200円(税込)

『シー』│思潮社

『美しいからだよ』

著者:水沢なお
発行:思潮社
発売日:2019年12月19日(木)
価格:2,200円(税込)

『美しいからだよ』│思潮社

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