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濱口竜介さんの『ハッピーアワー』を友達と見に行った、オールナイトです。5時間もある映画を初めて見たのですが、普段見ている映画の文法と違っていてからだがおかしくなってしまった、それはそのまま5時間拘束されているから体が痛いとかではなく、むしろそこでは短いくらいに感じられ(ぴんぴんしている)、それよりも心的な時間、たくさんの別の時間を送り込まれ、自分の身体のなかでそれが伸び縮み(永遠にまで)してそれにより身体が拡張される思いでした。やっぱりわたしにはカイロス時間の方が実感を持って身体と繋がっているように思えます。
映画の最後はダダ泣きでした……。友達とも話したのですがそれは感動や悲しみとはあまり関係なく押し寄せてくるもので、月並みですが泣いた理由を説明してしまうとそれはすべて間違っているみたいな状態でした。空虚な言葉をわたしはもう吐きたくない。逆を言えば、わたしはずっと本当のことを言いたい。これ、伝えたいことが本当になにも伝わらない言い方だなと思いながら話すのはつらい。とりあえずで話した言葉は実はすべてばれている。『ハッピーアワー』について話す想像を何度か反復すると、もう迂闊に浮ついた言葉を世に放たないようにしようというそういう気持ちになる。自分の気持ちに納得したい。それができないなら喋らない方がましなのかも、あたりさわりのないことを大事なときにも言い続けることは、とても不吉だ!(最近、ぼんやりこれは体調などを崩す可能性がある、自律神経など……という予感でやめておこうと思うことがたくさんある、自分がぼろぼろと崩れてしまう想像をよくする、これはいわゆるASDのこだわりなのかも……)
このことを考えていると『口の立つやつが勝つってことでいいのか』という本が読みたいことを思い出したので、いまのいま通販で購入しました。わたしは本当に口が立たない。口が立たないことを知っているからへんに工夫を凝らしてしまいそれが不器用だからわけのわからないことになり、たぶんずっとみんなを困らせている。そんな中みんないろいろありがとう(ごめんなさい)。だけど対話の中で意味があるのって言葉だけじゃなくて、すべてを言葉にしないままでもコミュニケーションってできるんですね……。横にいてくれたり、いてくれなかったり、目を合わせてくれたりそらしてくれたり、そういうことをもっと感知しなくては。そういうことを感知し始めたのが去年くらいで、そのあたりから日記映画を撮り始めた。口の立つやつが勝ちというわけではないぞということで、続けています。
まだ読んでいない本のことを話すのは変だけど、口が立つやつが勝ちではないというより口が立たないやつが負けってわけではないということなのかも! 読んでからまた考えます。こういうことをまあ知ってはいたけど、今日やっと実感を持って知ることができた。ようやく気付いたの、ちょっと遅すぎるなとも思うよ。でも人には人の発達だしな、わたしはわたしの発達のしかたとうまく生きていきます。
映画の後LINEを見たら、徹夜で東京タワーを散歩していた友達たちからモーニングに誘われていた、本当に行っていいかどうかの確認の返事が来る前に電車に乗り込む。