バックパックの中身をぶちまける必要があった。その中からようやく引っ張り出したのはスケートボードだ。今回の旅で一番大きな荷物になっている。これさえあればと思っていた。
その国や街の歴史や文化を深く知りたければ、現地で知人や友人を作るのが一番だと思っている。そのためにはきっかけが必要だ。ウクライナでは若者たちに話を聞くため、現地でスケボーを手に入れて一緒に滑った。その後訪れたセルビアでもスケーターたちと仲良くなって現地の実情を聞かせてもらった。であればここボスニア・ヘルツェゴビナでも、という単純でどこか一本槍な企みだ。どこに行けば彼らに会えるのだろうか。まずはこの国に一軒だけというスケボーの専門店に向かうことにした。
ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史は“複雑“という表現を避けて通れない。ここでは多数の民族と宗教が混ざり合いながら、時には衝突しながら重ねてきた歴史がある。近年では1992年に勃発したボスニア紛争でボシュニャク人(ムスリム人)とセルビア人勢力が敵対し、その後4年間にも及んで首都サラエボは包囲される状態が続いた。虐殺もあった。「スレブレニツァの虐殺」である。その事件には平和維持軍のオランダ部隊が関与しており、その経緯や問題がさらに複雑化している。それらの歴史を踏まえ、今のサラエボの人たちは何を考え、何を思っているのか知りたかった。地元のスケーターに会うことができればきっと教えてくれるだろう。
サラエボの旧市街地周辺は観光地らしい佇まいで活気があったが、生活の場である新市街地に入ると歩く人は少ない。飲食店には客がおらず、従業員は気だるそうにしている。それはこの街の多くの住民がイスラム教徒であり、今はラマダンの最中だからだろう。しばらく歩くとかつての社会主義国らしい古い高層のアパートが立ち並ぶエリアになった。
角を曲がろうとした時だった。目の前の壁に小さな穴が空いているのが目に入った。なんだろうと見上げると、その穴はアパートの壁の一面に続いていた。すべて銃痕だった。思わず周りを見渡した。どの建物も同じような方角から撃たれた跡が残っており、砲撃によって崩れている箇所もあった。 かつてサラエボは周囲の山から囲まれるようにして攻撃を受けていたというが、確かに銃痕の残る建物の対面を見渡すと遠くに山がある。サラエボの内戦が終結したのは1995年。約30年たった今もこの状況なのだ。少なくともこの風景を見ると、何も終わっていないような気がした。