この春、新しい町に引っ越してきた。前の家はマンションだったが、小さな一軒家だ。桜の蕾がほころびるにはもうすこし、「春は黄色から咲く」の言葉通り、蝋梅、万作、山吹、れんぎょう……黄色い花が、寒空に映えるころだった。
引っ越してきた町は、前の街より畑が多く、いたるところで野菜を売っているし、洗濯物を干していたら、雨降ってきたわよー! とご近所のおばあさんが外から叫んでくれる、のんびりした町だ。そののどかな空気はお布団のようで、私たちはここですっぽり安心して、身を隠せるような気持ちになる。
すこし荷物が落ち着き本を整理しているとき、ふと松谷みよ子『モモちゃんとアカネちゃん』の文庫本が目に入った。いつか娘に良いのでは、と思って買ってあったものだ。離婚をむかえる夫婦の現実を、子どもに対してどう伝えるか、母親の孤絶感、子どもの受け止め方を描いた画期的な本だが、後にも先にもここまで夫婦の実情を子どもに対して描いた書は、他に類例がないと思う。
まさにいまこそ娘に読み聞かせてあげたいと、ベッドのなかで読みながら、私は次第に震えあがっていった。
モモちゃんとアカネちゃんとお母さんは、大きかったおうちから、3人だけで小さなおうちに引っ越す。まわりでは春の花が咲き、1人の若い男の人と出会うのだが、それは4月から新しく入る小学校の担任の先生だとわかる。モモちゃんはこの4月に一年生になる6歳、妹のアカネちゃんは1歳をむかえ、歩き始めたばかりだ。
わが家の娘も4月に小学校に入学する6歳、下の子は男の子だがアカネちゃんと同じで1歳になったばかりだし、最近歩き始めた。私は自然にモモちゃんとアカネちゃんが暮らすおうちを、私たちの小さなおうちをイメージして読み進めた。
出会った男の先生は、三人が見知らぬ土地に親近感をおぼえる希望の象徴のようになっていくのだが、うちの娘の小学校の担任の先生も若い男の方で、出てくる先生の描写にどことなく似ていた。モモちゃんとアカネちゃんのお母さんは引っ越した先で、子育てと仕事に孤軍奮闘するのだが、ときおり熊が家にやってきて夕飯を作ってくれたり、森のなかにアカネちゃんを連れ出して、森の動物たちの協力を得ながら保育園のように預かってくれたりする。私のうちにも熊くんが来てくれたらいいのにと、そこだけは美しいファンタジーに胸こがれるようにして読んだが、どうも書かれていることが私たちとぴたり符号が合い過ぎていて、偶然にしては怖いくらいだと、私は松谷みよ子さんのかつてのおうちを調べ始めた。そこで震撼したのだ。
松谷さんが離婚して子どもたちと暮らした家は、その後図書館となって地域に開かれたが、数年前に閉鎖したとのことだった。そこが、まさに私たちのおうちと目と鼻の先だったのだ。松谷さんの自然描写に、うちの近所の畑や木々を想像して読んでいたのだが、まさに同じ風景を見ていたのだった。
おまけにあとがきを読んだら、その作家が書いている自身の子ども二人の名前と、うちの子の名前が二人とも完全に一致した。ここまでの一連で、私は本当に鳥肌がたった。
季節はぴたりと一緒だし、新しい土地で小学校に行くという緊張を前に、三人が肩を寄せあってふっと息を詰めているような様子まで、まさにいま読むべき本として、私の手のひらのなかに降りてきたのだ。言葉にされるのは早いかもしれないと、娘には途中で読むのをやめたのだが。
今回はこうした「偶然の符号」について書きたかったのだが、前置きがいかんせん長くなった。実は私はこのあとも、新しい土地でさまざまな偶然に助けられることになった。子どもを一人で育てるというのはどういうことか、経験者である或る人を想っていたら、その日の午後に乗ったバスで隣に座っていたのがまさにその人で、降りる駅まで深い話ができたこともあった。
私にはこうした怖いくらいの偶然がときおりあって、救われる想いをするのだが、こうした事態は、何か心を決めかねていて、ゆらゆらふわふわする不安定なモビールのような状態のときにやってくることが多い。私のなかにはいつでも白黒つけられず、決定できないものが満ちあふれていて、そのあいまいな宙吊り状態のなかに自分がいるという感覚がある。幼いころから病の家族をケアしてきた少女を描いた「サスペンデッド」という映像作品を作ったことがあるが、病に苦しむ人に心をうつしている状態は、まさにサスペンデッド、宙吊りの状態だった。それが精神的な病であればなおさら……。不分明なもの、決定不可能なもののなかにたゆたいながら、ピリオドを打たずにいるという態度は、私がものを作るときのスタンスともなっている。
それは記憶や経験に対してもそうだ。たとえばつらい体験や思い出したくもない記憶は、自分のなかの風景の闇にとけこむこともあれば、光り輝いていて目があけられないときもある。その生成変化する景色を、私はときおり見に行って、そこで起こる新しい感情に身を浸す。記憶や経験というものを、人は事実だと判定してしまいたくなる。しかし、実際に起こった体験も、こうだと解釈をし意味を決めつけてかぎかっこで括りたくない。意味をオープンにしておきたいという欲望がある。そうするとさまざまな偶然が、向こう側からこちらに来ていることに、気付くことができる気がするのだ。
そうして薄闇のような中途なもののなかに身をおいて、私はものを考えていたいし、迷ったり悩んだり変化するプロセス全体を作品にして来た。決定し、結論づけた方が人は安心できる。結論をオープンにしたまま歩むのは、本来は冒険だと思うのだが、なぜか私は決定すると息が詰まってしまう。未決定性のなかにいることで、私は深く息をして、あと一歩をふみ出すことができる。
たぶん、それが私たちの生そのものだから。