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同じ日の日記

Emptiness makes room for grace. /大堀晃生

その勝手さをお互いに大事にしあい勝手に生きている

毎月更新される、同じ日の日記。離れていても、出会ったことがなくても、さまざまな場所で暮らしているわたしやあなた。その一人ひとりの個人的な記録をここにのこしていきます。2022年10月は、2022年10日31日(月)の日記を集めました。Taiko Super Kicksでベースを担当している大堀晃生さんの日記です。

太陽がカーテンに熱を溜めていてほこほこになっていて、触れると熱く、窓を開ける。起きてマキの部屋にいきマキを起こして、スロートレーニングを始める。今日も筋肉を追い込む。体重は70.3㎏、10月を69㎏で〆るという目標をミスしたが、体重を一行日記に記録する。一行日記は去年の12月から始めて、日記を初めて続けられている。2021年の12/1はLaura day romanceとBROTHER SUN SISTER MOONのライブに行き、その翌日は久しぶりにパーマをかけたらしい。スロートレーニング、一行日記、最近では朝晩のヨガも続けている。6月に79kgまで太り、腹の肉で前にかがめないくらいになってしまい、久々に会った人にも絶句されたのをきっかけにダイエットをした。よく頑張ったと思うし、習慣を習慣として維持したいと思う。

“Emptiness makes room for grace.”とCo–Starという占星術アプリからの通知が表示される。毎日ランダムにメッセージが送られてくるのでその一瞬意味を考える、ことに意味があると思った。だいたいの占いやメッセージは、その与えられる内容ではなく、その時に自分が何を考えるか、それはすぐに忘れられるが、その時間や、その後数時間は何となく覚えていたことを後になった今、思い出せることに意味がある。意味などなく、その時々にやってくる思いや考え、体調などに目を向ける。特に気に入ったらこの日記のようにどこかに書き留めるのも良い。“Emptiness”を暴飲後翌日の虚無感とするならば、それは何かとても素晴らしいものや美しいものが入ってくるための余地となる、そう思うだけでもなんだか楽になるわ。ここの語尾が「わ」になることは余地や予感、勝手な断定を表している。

あとゴロゥさんの週めくりカレンダーを週始まりだからめくる、今週は「そなえあればうれいなし」。すだちもそのままでは食べにくいが、シロップ漬けにするとのどにいい、というイラストが描いてある。カレンダーでは月の満ち欠けや天体の位置関係も教えてくれる。月の満ち欠けや天体の位置、広く占いや占星術について、曖昧で確たる知識をもたない(それなりにはもってるつもり)まま、そのまま自分としては「占い好きの人間」ということにしているし、そうなっている。積極的に居酒屋とかでも話のタネとして、初対面の人に占いをしてみたりする。こんなやつが飲み屋の隣にいたら嬉しいな、と自分が思う奴を勝手だけど、そういう奴として存在する。飲み屋に限らないか、仕事でもそうか、みんなそうなのかもな、しかしいい奴としての笑顔をし過ぎると左下の顎関節の痛みが、その無理なのか何なのかが実際に痛みとして来る。これが結構痛い。無理に口を大きくガクッと広げ、一時的に忘れられた顎の伸びしろを思い出させてあげる、これが結構痛いのだ。しかし笑顔は気持ちいいし、相手を安心させるのは笑顔と相槌だ、だから笑顔で相槌を打ち続けるし、仕事でも居酒屋でもそう。
 
10/29は日比谷・有楽町にてノア・バームバックの『White Noise』を観た。東京国際映画祭では上映終了間際スタッフロールが流れ始めた時点、あるいはスタッフロールが流れきり、場内の照明が点いたときに観客が拍手をするという慣習があるが、あれには慣れない。慣れない慣習とは、実は一番辛い。しかし映画祭は祭りであるから、映画館でも拍手をするし、その慣習を知りつつ観にいくというよりも参加しにいっている、と思えば、まあいいじゃないかとできる、しかしその「まあいいじゃないか」、に対して反発したいから、特に映画に関しては僕はそうしたいからどんなに良い映画だとしても拍手はしない。そもそも「拍手」という行為について、映画でなくとも、ダンスや演劇、音楽のライブなんかでもそうだが、僕の中では躊躇いがいつも伴う。頭で何も考えずに、周囲の環境や隣の人の拍手のタイミングなどの影響を受けることなく、心からの拍手(感動をダイレクトに身体で表現すること?)をしたことは、これまでにあるだろうか(あったとしても、それは記憶に残らないような性質の経験ではないだろうか。そして僕はおそらくダイレクトな表現にこそ、憧れているのではないだろうか)。「拍手するタイミング」は大概決まっていて、その強さやその持続時間なんかも、暗黙の了解や経験からある程度定められている。その中で、隣の人がまだ拍手をしているから僕もまだ……、とか、隣の人はまだ拍手しているから僕はもうやめる。など、本当に小さいが、いろいろ考えてやっている。拍手は露骨に「わたしの態度」であり、態度は数少ないわたしの表明のチャンスであり、時に「絶対に曲げられない」、と苦しさを感じながらも譲れない場面がある。何らかのショーの、規模の大小に関わらず、観客側が設定されており、その観客の主体性や参与度が総じて高い場合、拍手は特に形として大きくなりやすい気がする。形式化し、熱狂を帯びてくる。熱狂はその中に入ってしまうと本当に気持ちいいし、かなり「生きていて良かった!」と感じられるものだけど、そこに入りきれないものを徹底的に無視する。熱狂は大雑把な残酷さと裏表である。観客の主体性や参与度が高く、そのなかでも対象に関する期待度やカテゴリーに関する習熟度を経てどこか観客側に「余裕や優位性」がある場合、そうした熱狂はその場の人々に「観客としての怠慢」や「視界の狭さ」を生む、あるいは強要する可能性があるだろう。もちろん、そういった残酷さや強要のない、気持ちのいい一体感を持った拍手もある。拍手のタイミングに至るまでの空気感やもちろんそのショーの内容と自分の状態などなど、あらゆる要素がゆきゆきてあらゆる種類の拍手が巻き起こるのだろう。

拍手を、特に舞台芸術のカーテンコールの永遠の拍手、あれはなんなのだろう、といつでも思う(あれも含めてショーの体験なのか)。音楽のライブのアンコール(こちらは拍手を受ける側の場合)に対しても、バンドメンバー間で何度も話したことがある、実際にやるのかなど検討を常に重ねるも、決まった答えは特に見つからない。観客としてアンコールの場面に参加するときも、いつもいつも、毎回毎回、何なのかと思う。観客が拍手をすることによる期待や感情の高まり、「総じて良かった」と伝えることも大事な意味があると思う、が、それが慣習や熱狂によって「まあ(細かいことを考えないで)いいじゃないか」と人に強要したり、自分の意に反してそれに参加することには、本当にしてはいけないことであると思う。全体の拍手は観客の主体性のアピールであるともいえる(前述のとおり、それはたまに怠慢ではないか、という部分も大事で)。さらには上映中の過剰な笑い、失笑もそうだ。私は受動的な観客ではなく、主体的に芸術を堪能するものである! という宣言、異常な笑い。実際怖いだろう、映画のユーモアあるセリフひとつひとつを逃さぬように笑う観客というものは。あるいは隣の私の耳を壊すほどの爆音の拍手を永遠に、まっすぐ舞台をみながら手をパンパンに腫らせて、帰路につく人は。感動はいいが、共有はしなくても、別にいい。

そして『White Noise』は面白かった。最後LCD Soundsystemの新曲が流れて解散はしていなかったのか、と知る。その後マキと日比谷のガード下に広がる新しめの巨大な居酒屋で感想を言いながら飲む。これは10/29の話。今は11/3にこれを書いている。自分たちよりも若い感じの客が多く、通路を挟んだ左側に座った女性二人は着席するなり前髪をスマホ画面に映して整え、チャミスルを頼む。いきなりチャミスルを頼むのが良いなと思った。右隣には男女の二人がいて黒い服を着た男性は酔いつぶれそう、しかしなんとなくいい奴そう。女性は全然平然としている。22時を過ぎたあたりでその卓にもう一人やってきた、元居た二人は向かい合わせから隣に座りその向かいに今来た男性が座る。23時を過ぎたくらいか、私はヴェイプの充電が切れてしまい、手巻きで吸おうと隣の元々いた男性にフィルターを貰えるか、と聞くと、「このアメスピ試供品で貰ったやつなんで何本でも吸っていいですよ、僕IQOSなんで吸わないので」、と言って吸わせてくれた。その後も何本も吸っていて、さすがにあれだな、と思い、さっき買ったおいしそうなグラノーラをお返しとしてプレゼントした。グラノーラが好きらしく、喜んでくれた。のでさらに、12月にあるバンドのライブの宣伝をしてラインを交換して、チケット情報を送った。翌日ラインがその彼から来て、グラノーラが美味しかったことと、彼女と一緒にライブに来てくれることを送ってくれた。共演は名古屋のシラオカ、こちらもほんとうに全ての人に観てほしいバンド、なかなか東京ではみれない。ほんとに好きなんですシラオカ。(ため息、ブリザード。)

10/30、この日は前から東京競馬場に行く予定をしていた日、結局昨日2時まで飲んでしまったため、もちろん体調は良くはない。マキは朝からボーナストラックでやっている日記のイベントにしっかり目覚めて出発した。偉い。僕はプールに行こうとしたが、アプリでやってる“元気になるモーニングヨガ”のメニューがきつく疲れてしまったのでだらだらして昼頃に出発する。登戸で待ち合わせ、マキは朝昼を食ってないらしくゆっくり食べたそうだが、競馬場にも行きたい気持ちもあり、なんとなくそんな雰囲気を出しているとおにぎりと唐揚げを買って、駅の下のドラミちゃんの後ろの花壇で座って食べていた。普通にゆっくり食べればよかったなと今は思う。府中本町の駅に着き、臨時改札を抜け競馬場まで直結の長い歩道橋のようなドームを歩いていくと、後ろから靴を思い切り踏まれて脱げてしまう、しかし踏んだ人は何も言わずに速足で通り過ぎ進んでいく、耳には無線のイヤホン。ここ数年で増えた、ハンズフリーな人たち、まあいいが、電話や曲で意識を狭めすぎていないか? 周りにも人はいるし、同じように目的をもってそこに存在することを、イヤホンをしているということで無視していいことにはならないぞ。いつの間にか街にはイヤホンをして、その先っぽだけをペロリと、許可証のように見せつけつつ、周囲からの影響を極力排除し、周囲への自分からの何かは忘れる、そんな街が広がる。電話はそもそも、最近読み進めている滝口悠生『水平線』に出てくる電話のように、空間や時間を超えてどこかとどこか、だれかとだれかを結びつけてしまう恐るべきものであったし、今もそれは変わらない。何ももたずに前をみて歩きながら話す人は、他者から見ると怖いものだ、耳にピロッと出ているものを確認しほっとするのはいつもこちら側であり、彼らはとても真剣にあるいはとても楽しそうに大声でどこか遠くにいる人と話している。周りに誰もいないかのように話すかれらはまるでシャーマンのよう。いつか耳チョロも必要なくなり、誰彼知らず、街中で遠くの人との電波交信大会が始まるだろうが、そこで僕は生きていけるのだろうか。競馬のゲートではマキのスマホの電波が悪く、予約していたチケットの確認が取れなくて、なかなか入れず、私はまたイライラしてしまう。マキは悪くない。そのあと僕のスマホでログインすることで入れた(最初からそうすればよいものを)が、中に入ると当たり前だが、大きなイベントであり人だらけ、落ち着ける場所はなく、喫煙所にシートを敷きお酒を飲んでいるおじさんもいる、いつもはそういうのも楽しめるが、そういう状態ではなく、帰ることにした。帰ってからはマキの部屋でマキが読み始めた『九条の大罪』を読む。こういった虚無感はよくある、ギャンブルが本当にどうでもよく思えるときの虚無感。死んだ父親が居酒屋やバルで盛り上がっていたのに、口数がだんだん減ってきて、そろそろ帰りましょというとき。

“Emptiness makes room for grace.” 、その翌日。10/31の日記。打って変わって晴れてるし心地がいい朝だ。何時間ぶりかのタバコをベランダで吸うと、雲一つない空とじんわりと熱い太陽が頭頂部から後ろ首、背中のあたり、上を向けば喉から首、ニコチンのあれもあってか、サウナでいう「整う」と同じ感覚を得る。日比谷の居酒屋で飲んだ彼からラインが来たのはこのタイミングだったかもしれないがわからない。とっても気持ちがいい朝だ。ちょろりと仕事をしてから、砧公園にマキを誘っていく。美味しいパンを買っていつもの広いとこで食う。砧公園のカラスは人間との距離感をちゃんと図っている、むしろそうありたいとカラス側が願っている、という話をする。多様性はなんでもありのごった混ぜではなく、多様な人がそれぞれの距離感を尊重することが前提にあると思う。硬いフランスパンのサンドを選んだマキはこの日も眠かったようで亀のように口を上下にゆっくり動かし齧って食べている、その全体がなんだかいいなと思った。『アホウドリの迷信』の最後の方を読みながら眠くなったので寝た。地面の上で寝るとあらゆる電波がグラウンドされます。私たちの体もうまくアースすることが必要。『アホウドリの迷信』で読める、ルイス・ノーダンの「オール女子フットボールチーム」は久しぶりに本で、しかも電車の中という環境で謎の涙が出てくるくらい良かったのでぜひ。何が良かったかというと、女子がフットボールチームを作ることになり、男子がチアをする、チアをすることになった男の子のお父さんは女装するのが本気で好きで、その父子のやりとりもいいし、その父親の子どもがずっといやいやチアの準備をしつつ、そのくせ女子がフットボールの防具を身にまとった姿を見た瞬間神を見出したりしつつ、自分がチアリーダーの恰好で踊るときに何かが抜ける、これは読んでほしい。

『水平線』、快快の『コーリング・ユー』、あとTIFFでもう一本観たジョアン・ペドロ・ロドリゲスとジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタの『この通りはどこ? あるいは、今ここに過去はない』、あと10/31に聴いたYo La TengoのToday Is the Dayのロックバージョンの、偶に英語の歌詞をしっかり読みたくなって読んだらそうだったんだけど、やっぱり人はこれまでもこれからも意味もなく生まれてきて意味もなく死んでいくことだけは本当で、でもその端緒だけを見たり考えてもしょうがなくて、偶々存在するもの同士が動いていくなかで少なくない影響を与え合うことで関係しあって、それは人間だけでなく動物も植物も場所も時間もそうで端緒だけ見ることに意味がない。思い出すことは具体的なものが現前することであって、それは想像することについてもそう。思い浮かんだことを実行できたり、単に夢想するでも、心配になって電話をかけたり、電話をかけるまでも至らないその思いつきとか、たまに葬式前に片づけた父親の部屋の冷蔵庫にあったしいたけの煮つけを思い出し、しっかり料理をして生活を改めて始めようと希望していて、しかし車も売らねばならず近くには気楽に飲める店もなく、そもそもお酒を飲める身体でもない、年を取り身体がそうなってしまう衰えと悲しさを考えたり、「何を言っとるんや晃生、うまく炊けたんやしいたけ。そろそろ東京でお前らの飯を作ってやらなな。またおこづかいちょーだい」と今言われるのも勝手な本当。真実は誠、勝手なものでしかない、その勝手さをお互いに大事にしあい勝手に生きている。

大堀晃生

1989年5月7日、岐阜県下呂市(当時は益田郡下呂町)にて生まれる。
Taiko Super Kicksというバンドのベースを担当。

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