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同じ日の日記

物々交換カフェ〈エノアール〉でめぐり合う、資本主義の“裂け目”/宮越里子

野宿者の人たちが営むカフェのメニュー、<だめ茶>と味噌汁

毎月更新される、同じ日の日記。離れていても、出会ったことがなくても、さまざまな場所で暮らしているわたしやあなた。その一人ひとりの個人的な記録をここにのこしていきます。2022年10月は、2022年10月31日(月)の日記を集めました。デザイナー/フェミニストとして活動し、フェミニズムZINE『NEW ERA Ladies』の編集&デザインを担当する宮越里子さんの日記です。

全身が筋肉痛だ。アイアンメイデンのような鉄の女状態で、ぎしぎしと軋んでいる。でもこれは心地良い痛み。身体は思うように動かないけど、頭が見知らぬ国へトリッパーしていて、難しい脳内会議や仕事を拒否する覚醒ゾーンに突入。今日は仕事をボイコットすると決意。(つまり、お布団にin!)
こどもの頃、その日あった愛おしい夢のようなできごとを覚えていたくて、眠りたくなくて、こっそり夜中に外に出たことが何度かある。今日はそういう興奮状態で、昨日あったできごとを白昼夢として舐りたおすことにした。
昨日は某所で野宿している、いちむらみさこさんや小川てつオさん、ホームレスの人たちがやっている物々交換カフェ<エノアール>へ遊びに行った。“謎のヨガインストラクターRYU★CO”さんによるヨガの日で、下のきょうだいのsuper-KIKIちゃんと友人のYさんに誘われてて、ずっと行きたかった場所。仕事と社会運動で頭とカレンダーがめいっぱいぎゅんぎゅんの連続だけど、一日だけ確保したスペシャルホリデイ。
RYU★CO(KOじゃなくてCOなのがポイントらしいです)さんのヨガはゆるゆるで、「レクチャー」とは全く関係ない自由な動きをする人、いつの間にかスヤア……と寝てしまう人もいた。女神のポーズがハイライトらしくRYU★COさんのキメ顔が面白くてひとしきり笑ったりと、とにかく私が知っているあんま好きじゃないヨガとはまったくの別ヨガだった。(受講者が自由な動きをすることで怒るヨガインストラクターもいるって聞いて驚愕である……)
のびーっとしながら寝転んだら、体についた泥や落ち葉とか、地面に吸い付いていくわたしの身体とか、久しぶりに見た木々の隙間から見える、高くてすきとおった秋の空とか、あたりまえのプリミティブさにガーン。肩こりがちがちの毎日とは違う感覚を味わってしまった、ちょろすぎるわたし。
仕事と社会運動の忙しさを伝えた時、「幸せな悲鳴だね」と言われたりすることもあるけど、「んなわけねーだろ」(RYU★COさんはこんなに口悪くないが)とぶん殴ってくれる空間がそこには広がっていて、その場所を独り占めしたくなくて、あの人やあの人を連れてまた来たい、お裾分けしたいって思った。
エノアールはもしかするとまぼろしだったかもしれない、と錯覚してしまう場所にある。草むらをわけて、突然現れる。メニューもよくわからない。KIKIちゃんが前に<なぞ茶>を頼んだと言ってたのでそれを頼もうとしたけど、今あるのは<だめ茶>らしい。ダメとは・・? と、一瞬ひるむが<だめ茶>とやらを頂く。これは一体・・・? 思ってたんとだいぶ違う味だけど、寒いからか、なんでもおいしい。あと、お味噌汁も頂いたけど、なんでだろう、みんなで食べてるから? めちゃくちゃうまい。具がなぞだけど(日はとっぷり暮れていたので暗くて見えないし、味噌汁だったかもわからない)。
エノアールカフェは物々交換のため、家にたくさんあった葛根湯を持っていく。とても喜ばれた。「各人は能力に応じて働き、各人は必要に応じて受け取る」ようなコミュニズムのスローガンよりも(おそらく)ゆるいシステム(ちなみに、わたしは「能力」という規定も、呼吸とか、生きてるだけとかも含まれる可能性を考え中)。
わたしが今、歯の治療が大変すぎて医者からキシリトール噛めって言われてるため、健康にいいかしら、と持っていったBTSパッケージのガムに、はじめましてのMさんがすごい反応して「この大学生、顔がいい」とやたら褒めてくれた。BTSに大学生は誰もいないが、個人的には31歳(韓国年齢)のジンさんはもはや「永遠の大学生」だと思うから間違ってない。そしたらいちむらさんが「顔のことあんまり言うのはちょっと、ねえ?」とすかさず突っ込み。うん、そのとおり、さすがだ。いちむらさんが言うと不思議と全然きつく感じないので羨ましい。いちむらマジカル。Mさんは「わたしは女の人の顔のことはあれこれ言わないよ」と反論してて、すごく笑えた。そうゆうこっちゃないけど、なんかわかる気がしてしまう……。この時のわたしはルッキズム批判ポリコレ閉店中だったため、右から左へ流してただ笑うのみ。田中美津さんが「24時間フェミニストって人いないでしょ?」って言ってたしね。『とり乱しウーマン・リブ論』は、顔と膝をつき合わせて矛盾が発生する現場でつくりあげられたものだ。正論と、赦しと、ぶつかり合いのごった煮。
月が登ってきたころ、茂みから突然、ガサガサっやっほー☆彡っと飛び込んできた人が、「こないだ欲しいって言ってからZINE持ってきたよ」と友人のYさんに声をかける。あとからYさんが「たぶん初めましてだけど……?」とボソッと言っていたけど、そんなことはYさんも誰も気にしてはいなくて、とりあえず表紙からして面白そうだったので買う(そしてこの勘がドンピシャだったので後述する)。500円のワンコイン。
縮こまってギリギリ歯軋りしてた心がどんどんほぐれていって、ロラン・バルトの“裂け目=プンクトゥム”はここにあると確信する。これが自由ってやつかもしれないスペシャルな時間を過ごした。アフリカ系アメリカ人の公民権運動を扇動する曲も作り、自由と黒人ルーツを求めてリベリアへと移住したピアニストのニーナ・シモンが、ドキュメンタリー『ニーナ・シモン〜魂の歌』で「言葉にはできない」と前置きしつつ、「自由とは、恐れがないこと」と語っていた。この「恐れ」「恐怖」はとても厄介で、人は恐怖に駆られて差別をしたり、いじめをしたり、分離主義に走ってしまう。
以前いちむらさんに恐怖を乗り越える方法を聞いたら「ない」って答えが返ってきた。「公衆トイレに入った時、この穴は何? というのを見つけた瞬間に恐怖が襲ってくるんだけど、そこから逃げるっていうよりは穴になんか詰めたり、そもそも穴って何? とか考えるとか、距離をとって飼い慣らす」みたいなこと言ってて、すげーな、なんかジュディス・バトラーみたいなこと言ってんな、と思った。逃れられない権力の網の目から、変化する主体としての可能性。恐怖は攻撃と表裏一体だから、飼い慣らしたり、意味をずらしていく訓練をしたい。訓練とか、すぐ好戦的なマッチョなこと考えるのがわたしっぽい。でも、大好きなニーナ・シモンも『ミシシッピ・ガッデム』という曲を作った理由として、汚い罵り言葉は、黒人男性も言わなかったけど、女性が使う暴言の重要性をあげていたので、マッチョをすべて悪魔化しないで文脈をみてほしい。
エノアールで出会った人たちや会話のおかげで、ちょっと信じられないくらい呼吸しやすくなったので、この時間と場所が続いてほしい気持ちを込めてほんの少しだけカンパをした。でもそれが言い訳になってはいけない。映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』のパンフレットでケン・ローチがこう書いている。

ともかくチャリティは一時的であるべきということです。チャリティで許容できないことを、許容できることに変えてはいけません。チャリティがいらないように社会のシステムを変えるべきで、同時に政治的運動も欠かせません。

この一文は、パンフレットの「映画が、社会にできること。」の返答で監督が答えているのだけど、さすがの左翼すぎる。わたしも表現の力は信じているクリエイターだけど、表現とカンパという再分配のまやかしではシステムが変わらないのは、現実を見れば明らかだ。

引き続き良くなる気配がない筋肉痛。この痛みが消えないうちに、積読しておいたいちむらみさこさん責任編集号の『エトセトラ』と、昨日購入したZINE『りのさとふたりぐらし』を読むことにする。
エトセトラの副題「くぐりぬけて見つけた場所」は、昨日わたしがたどり着いたエノアールとぴったりそのもの。そして「私は、私に帰るために家を出た」というまえがき。
いちむらさんが、女性のホームレスたちと立ち上げたフェミニズムグループの<ノラ>。この名前は、ヘンリク・イプセンの『人形の家』で「良き妻」である主人公のノラが、家庭を捨てて外へ出るラストが元ネタである。
特集ではテント村で暮らしていて亡くなった「小山さん」と呼ばれていた女性のことが書かれていた。病院に行くのを強く拒否し続けていた小山さん。ついに息絶えたとき救急車で病院に運ばれたのだが、連れて行った人たちが「本人が嫌がっても連れてこないと助けられないでしょ」と医師や看護師から非難されたそうだ。そこでいちむらさんは「間違えた。救急車を呼ぶべきではなかった」と後悔したそうだ。
人の生存と、幸せ、それらを誰かのモノサシで一律にされてしまうことの怖さ。生きることが正義だと刷り込まれる社会と、生きられないのは自己責任でしょ、という突き放しの狭間で、小山さんは生きて、抵抗する身体となっていたように思う。小山さんが書かれたノートの書き起こしが掲載されているのだけど、鋭い言葉だらけで、これはフェミニスト同志には絶対に読んでほしい書きもの。ぜひ誰か出版してほしい。今のわたしと同い年くらいの40代前半の時に「自由があって自由がない」と書かれた文章は、わたしが噛み潰しきれずに胃液が上がってきてしまう毎日そのものだった。
小山さんはオイディプス王のギリシア悲劇に出てくる、国家に絡め取られないために抵抗する命がけの身体、そして誰にも良い顔をしない、アンティゴネのような人だと思った。誰かに理解されたくて生きてはおらず、筋を通し続ける生きざま。そんな小山さんは果たして「弱者」なんだろうか? ホームレスの人は「手を差し伸べて救うべき弱者・マイノリティ」のカテゴリー分けでいいんだろうか? 放置してネオリベの思う壺になるのでもなく、主体的に手を伸ばせば生存も可能だし、手助けを拒否したとしても誰かに管理されない。そんなシステムを作ることがなぜこんなに難しくなっているのか?

「反資本主義」という言葉はポップカルチャーに飲み込まれた。すでに革命の広告化時代に突入している。ドラマ『ユーフォリア』ではNIKEがBlack Lives Matterの革命性をポジティブに広告化しながら、黒人の貧困層が買えないような値段でスニーカーを売りつけることを皮肉っているし、映画『パーフェクトケア』でも、ネオリベラリズムのリーン・インフェミニズムが続かないことを示唆するラストになっている。

反資本主義ブームは「このシステムではだめ」メッセージの伝搬になるから心強い一方で、SDGsのアヘン化のごとく「言っている/やっている感」だけではむしろ悪手だと思う。例えばMIYASHITA PARKで環境問題をテーマにお店を広げて周知することは、消費の加速になり気候変動をますます悪い方へ引きずってしまう。さらに宮下公園に居た野宿者・ホームレスたちの排除と抵抗の歴史を覆い隠してしまう。
何か知恵を絞らないといけない。アドバスターズのように商業広告そのものを風刺するスタイルは昔からあるけど、同じ土俵で闘うこと自体、限界がきているように思う。
他の世界があるはずなのだけど、(すでに失敗している社会主義ではない可能性をわたしは探っているが)、とにかく資本主義は想像力を容赦なくもぎ取っていく。

昨日買った『りのさとふたりぐらし』というZINEは、ちょっと予想を斜めに突きぬける面白さで、ここに書かれた考え方や共存、相互扶助をもっと探りたいと想像力が回復して一気にうるおう。早速影響されてしまう素直すぎる自分も若干こわいが。
荒井聡子さんと理乃さんという、障害者の二人暮らしのあれこれ、絵、「介助者」の鶴峰まや子さん(つるさん)の言葉が並ぶ。長野県松本市の橋本和子さんみたいに、重度の身体障害がありつつ一人暮らしをしていて、近所の人やら、海外から来たバックパッカーやら、毎日誰かが必ずいるシステムを作ったレジェンドのことみたいだな、と思っていたら橋本さんがZINEにも登場してびっくりした。パラリンピック批判で盛り上がったらしい。繋がっていることに、社会の狭さと、日本がこんなに狭いなら変えられるかもしれないって希望もみえてくる。
デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』を読んだつるさんの「こういう. システム. やめて. もっと. どうにか. みんなと……」という言葉。
津久井やまゆり園で殺傷事件を起こした植松聖に「死ぬときまで 生きましょう。新しく何かを見付けるかもしれない。はじめて気付くことがあるかもしれない。生きましょう。」と書いて手紙を出したこと。

「幸せ」をおカネとジカンに切り縮めてしまった人がいる。植松聖という人がそうだが、ほかに たくさん。おカネもジカンも足りない、もっとあったらな、という気持ちがそうさせると思う。(中略)未来がもう、できあがって準備されている。先どりしすぎて、今 が 消えた。
— 鶴峰まや子

東洋経済の記事で、<障害者は不幸を作ることしかできません>と大島理森衆議院議長に宛てた犯行予告の手紙の一部が紹介されていて、その考えに至る理由がわからない、と書いてあることに驚く。
え? 鈍すぎんか?? んなことある??? こんなに毎日毎日、個性や能力を伸ばせと言われ続けて生産性を求められる優生思想が転がっている社会なんだから、植松はそれを摂取し続けた一人の例に過ぎない。わたしだって、誰だって危うい。資本主義と能力主義と優生思想のないまぜ社会の中で、ぎりぎりの「正義」で踏みとどまっているだけ。
都議会でも、どっかの議員が障害者雇用を広げるために、各々の能力をもっと活かして……と効率を求めている。いやいや、どんだけよ。
そういえば最近、「私には個性がない!」とラップする女性(に見えるひと)の作品を観たばかり。そうそう、個性や才能を見つけろと言うな! と声をあげるのがジャスティス。
「わたしはわたし」はあっという間に広告化されたけど、それらのポスターを拝見する限り、皆さんたいへんお綺麗な方々か、個性がある方々ばかりでまぶしすぎる。映画『ブレックファスト・クラブ』は青春映画の通過儀礼かよ、ってくらい勧められるけど、ゴスっぽい嘘つきなアリソンに化粧をしてお嬢さんに変身させる「個性的なわたし」潰しラスト。ほんと「まじオマエの価値観押し付けんなFuck」っていう台詞がないのが不思議だから台本書き直せ。スクールカーストは階級があること自体がクソなので、階級の「上位」に格上げしてヘテロの恋愛おめでとうエンディングは、ほとほとげっそりである。

そうゆうクリシェなうんざり物語じゃない、そっちじゃないよ、こっちだよって手を引いてくれるようなZINEとの巡り合い。
それと、パートナーの人もおそらく重度の障害者のようなのだけど、相方だからこその悪口(?)というか、あたりまえの文句も載っていて、政治的な正しさでもなく、ポリコレ批判を言い訳にした冷笑の逃げでもない、生の闘いに挑んでいる人と人のリアルが転がっている言葉の数々に凄みがある。このZINEは正直傑作であった。これも誰か出版してくれないかなあ……と安易に消費トラックにのせることをつい考えてしまう。あんた全然わかってないね、って怒られるかもしれないけど(笑)。
ちょうど植松聖に手紙を出した、と言う箇所を読んだところで偶然、マイケル・ナイマンの曲が流れる。映画『ひかりのまち』のサウンドトラック。ウィンター・ボトム監督が製作したすべての人の生の肯定、人間讃歌のだいすきな映画。ラストに映し出されるタイトルの原題は『WONDERLAND』。
このZINEにふさわしいテーマ曲を聞きながら身体が回復するのをすこし待って、またエノアールの人たちに会いに、「私は、私に帰るために家を出る」。

宮越里子

フリーランス・デザイナー。『ミュージック・マガジン』『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』(高島鈴/2022/人文書院)、あっこゴリラ『GRRRLISM』、『対抗言論 反ヘイトのための交差路』vol.2(杉田俊介・櫻井信栄/法政大学出版局/2021)装丁、エディトリアル、グラフィックデザインを中心に手がける。共同制作として、フェミニズムZINE『NEW ERA Ladies』編集・デザイン担当。

[インタビュー/寄稿]
IWD 持続可能なわたしたち:『オオカミの群れと、99%のためのフェミニズム』宮越里子 & super-KIKI
・『対抗言論 反ヘイトのための交差路』vol.2
「中心をつくらない社会運動? デザイン、フェミニズム、複合差別」インタビュー掲載
・『ユリイカ』2023年3月号 パク・チャヌク特集号
「霧の中の映画監督」(イ・ヒャンジン×鈴木みのり×宮越里子)座談会参加

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