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同じ日の日記

山川域を異にすれども、風月天を同じうす/富沢櫻子

中国残留孤児の祖母の記憶、深圳に転校した夏の記憶

毎月更新される、同じ日の日記。離れていても、出会ったことがなくても、さまざまな場所で暮らしているわたしやあなた。その一人ひとりの個人的な記録をここにのこしていきます。2022年8月は、2022年8月15日(月)の日記を集めました。ナラティヴで独創的なアロマワックスサシェなどの蝋作品で知られる「檸檬はソワレ」をはじめに、ekot spectrum worksとしてさまざまな制作活動を行っている富沢櫻子さんの日記です。

7時15分、目が覚める。エアコンとサーキュレーターに当てられた皮膚がひんやりと冷めて痛い。28℃最低風量でも病み上がりの体には響くが、エアコンを切って眠るにも、まだまだ熱帯夜が続いていて、夜が明けないうちに半醒半睡のなかリモコンの電源ボタンを押してしまうので結局ちょっと肌寒い。

うとうとしながらアレクサにラジオ体操を注文し、小気味いいピアノと元気なおじさんの掛け声に合わせて体を揺らす。生まれてこのかた朝にはめっぽう弱い。当然、小学生だったときも朝のラジオ体操に参加できたことは一度もなかった。体操を終えて麦茶を飲み、グレープ味のメントスを一粒放り込む。3週間前にコロナに罹患してから体の調子はめちゃくちゃになってしまった。職業柄、嗅覚の良さは保ち続けなくてはならなかったから、コロナ禍に入ってからは健康管理と感染対策にはずっと腐心してきた。おかげで体の不調といえばワクチンの副作用が出たときくらいだったものの、3年目のこの夏、急激な感染拡大の波に私の体はまったく敵わなかった。今までの感染対策が功を奏して思い上がった自信も持ち合わせていたからだろう。気の緩みで罹患した。

症状はしっかり出た。ファイザーを打ち続けた3回ともそれなりに強い副反応が出続けていたので、なんとなくコロナに罹患したら無症状では済まないだろうなと推測していたが、高熱と不正出血とひどい倦怠感で10日間できっちり5kg痩せた。万年ダイエッターだけどこんな痩せかたはもう二度としたくない。8月5日に自宅療養が明けてから咳が出始めた。それから10日。強い咳が治まらず喀血や嘔吐を繰り返してしまう。熱が引いたぶん気は楽だが、むちゃくちゃである。ただでさえお盆のなか、忙しいであろう病院にかかる勇気が出ないままやり過ごす。肝心の嗅覚も味覚も調子は芳しくないが、こちらは少しづつ感覚が戻りつつある。味覚の感度は苦味が一番敏感に伝わりやすく、逆に甘味は一番弱いそうだ。口に放り込んだ一粒のメントスは、要は自分なりの味覚の定点観測だった。今日のメントスは昨日よりもすこし甘くて、体は本調子ではなくとも、それは希望を持たせてくれるささやかな甘さだった。

アトリエに出向きIHコンロのボタンを押し、低温で時間をかけながらゆっくりと蝋を溶かしていく。
蝋が溶ける合間に本を開く。

終戦記念日が怖かった。
日本に住む、どこにでもいる小学生として暮らしていた頃はそんなことを思うことは一度たりともなかった。

『火垂るの墓』や『はだしのゲン』に涙したり、ただ無垢に世界平和を祈ってこの日をどこか厳かな気持ちを抱きながら過ごしていた。

その感覚がはっきりと変化したのは中国、深圳(シンセン)の小学校に転校した頃からだったと思う。
香港と向かい合う大陸の都市深圳は、今では北京、上海、広州と並ぶ四大都市のひとつとされるようになったが、深圳はここ2〜30年で急速に発展してきた近代都市である。ハイテク産業やIT企業の本社拠点が集中する都市でもある。移民都市の深圳の平均年齢は30歳前後。今ではアジアのシリコンバレーと呼ばれるようになったそうだが、納得してしまうほどスピード感と、若さとパワーを象徴するような都市だ。
母の仕事の都合で私がこの都市で暮らし始めたのは2002年の春だった。その頃は長期にわたる都市開発の真っ只中で、数多の幹線道路やモニュメントとなるようなビル群はまさにこれから整備、竣工されるところで、まだまだ近代都市の気配はこれから醸成されていく、といった時期だったと思う。
私の祖母は中国残留孤児で、母はその2世だ。母が25歳に差し掛かる頃に、祖母の引き揚げと共に一家全員で永住帰国として来日した。母の母国語は中国語だ。
きっかけがどうあれ、家族の事情で、親しんだ文化や生活を捨て、言葉もわからない土地で1から暮らし始める彼女が対峙する厳しさは今でこそ察するに余りある。

深圳にくると、日本生まれ日本育ちで言葉の不安を抱えた私とは裏腹に、仕事に勤しむ母は皮肉なことに日本生活での言語のフラストレーションから解放されて意気揚々と本来の能力を存分に発揮し、水を得た魚のようにキラキラしていた。そして良い機会だからと、現地での生活に馴染んだ経験を積ませたい彼女の計らいで、日本人学校がない場合の通例ではインターナショナルスクールに通学させたりするものだが、私は現地校へと転入することになった。

その前年の夏、8月13日に時の首相が靖国神社に参拝した。そして私が現地校へ転入する直前、4月の終わりにも彼は参拝へ足を運んだそうだ。
確かに、ゴールデンウィーク明けに現地の学校に転入したタイミングで既に物々しい雰囲気で、ただの転入生とは違う仰々しい扱いをされたのを覚えている。
その日は学園内の見晴らしの良い吹き抜けのエントランスエリアやグラウンドに、赤いフラッグが何枚もはためいており、そこにゴールドの文字で彩られた「国威発揚」のフレーズが散りばめられていた。1限目の授業、国語の題材は抗日戦争についてだった。
その当時は中国語が喋れないけど聞き取れる、読み取れる程度の語学力だった私には、どんな内容なのかはきちんと理解していた。
苛烈な戦闘シーンや、虐殺の記録を生徒たちが音読していくたびに、彼らの視線が、私にぶつかる。侵略国からやってきた転入生。どんな反応をするのか気になるのだろう。
この不穏さを知っている。その昔、これも一時的に中国の内陸の保育園に通っていたとき、お昼寝の時間、眠っていた私の頭が叩かれたことがあった。その拍子で乳歯が落ちた。担任の保育士だった。頭への衝撃と驚きで目が覚め、困惑で言葉が出ないまま先生の顔を見たとき、中国語がわからないなりに「鬼子(グイズ)」と呼ばれたことだけは覚えていて、私は生きているだけで憎悪対象になりうる存在なのかと幼いながらに強い衝撃を受け、それはひどいトラウマとして苛まされた。この話を家族に吐露できたのも、今からほんの数年前のことだ。

転入した学校での友人関係はそれなりに楽しく、特段問題もなく過ごせていたが、少しづつ私は歴史問題を直視していくうちに、自分のアイデンティティについてうまく折り合いが取れなくなり始めた。
いつしか日本と中国の血と文化が混ざった私の体はものすごく濁っているのではないかと思い悩むようになっていた。
人前ではいつもと変わらず平然とした様子で暮らせるのに、ひとたびベッドで横になると震えて涙がこぼれてくる。そのうち無音では眠れなくなり、朝目覚めるまでコンポにCDをリピートさせ眠るようになっていた。毎晩のように希死念慮が体を包んで、22階の自部屋の窓からぽろぽろ涙を落としながら2〜3時間は地面を見ていた。幸い、窓は小さく開閉することしかできず落ちるに落ちれなかったが。

その年の夏から、なんだか急に戦争が自分にとって身近な存在に変わっていた。
毎年、残暑の前後は緊張するようになっていた。
日本の降伏が決まった終戦記念日から9月にかけては、日本にとどまらず誰しもが含みのある思いを抱いていることを日々痛感した。
政治や外交問題のニュースにも、子供ながらに敏感にならざるをえなかった。怖かった。
日本にとって終戦記念日だったあの日は、一方で抗日戦争に勝利し、侵略された自国の一片を取り戻した彼らにとっての契機の日でもあった。
靖国参拝が取り立たされ、慢性的に両国間の関係が冷え込んだ時期に、毎週末に訪れていた深圳の日系スーパーが、デモ隊の投石でガラス窓がいくつも割れていたのを見たときは卒倒しそうになったりもした。まるで自分の体に当たっているような気がしたのだ。反日も、嫌中も、全ての言葉が刺さり、小中学生の頃の自分にはなかなか捌くことができなかった。
そのうち自律神経を壊し、離人症気味になり、解離性健忘や自傷を繰り返すようになった。よく笑い、明るく過ごせる日にも欠落感があった。
普通に過ごそうとすればするほど反動がくる状態で、結果的に貴重な10代のうちの少なくない時間が、治療や自分と向き合う時間に費やされた。
歴史、政治、地続きの日常、自分の体に流れる血、別々に切り分けて考えられるべきことが、すべて並列に連なりままならなくなってしまっていたのだ。

蝋が溶ける。ちいさな溜め息をついた。
かつての思い出と絡まって、今日は本がなかなか読み進められない。
一度本を閉じて、用意した型に素材を組み分けて、香料を足した蝋を流し込んでいく。
流し込まれた蝋が冷えて固まるのを待ちながら、鍋に次の蝋を入れて溶かしていく。
私の仕事は合間合間に何かを見つけながら、何度も待つことを繰り返す。
もう一度、本を開く。今日読んでいるのは平井美帆『中国残留孤児 70年の孤独』。

残留孤児についてきちんと調べるようになったきっかけは、3年前に曽祖母、曽祖父の墓を建てたことからだろう。
「時薬」とはよく言ったもので、私自身の問題はさまざまな形で長い時間をかけて向き合うことで、ゆっくり解消され、やわらいでいった。
あの頃の自分が明確に「過去」と呼べるようになり、克服できるようになってから、ようやくフラットな気持ちであらためて自分のルーツについて思いを馳せることができるようになった。
2人の名前が刻まれた墓石の下には、彼らの骨は眠っていない。

祖母は長野で生まれ、両親、妹、弟と共に満蒙開拓団として満洲へ向かい、そこで終戦を迎えた。
満洲国の建国直後から太平洋戦争の敗戦に至るまで、大陸政策として満蒙開拓団は推進され、日本各地から送り込まれた。想像に難くないが、家を相続する立場の長男はほとんど移民に参加しておらず、開拓団の多くは次男以下とその家族たちであった。当時は昭和恐慌の流れを汲んでいたこともあって、農村経済は激しく困窮し、同時に開拓移民は積極的に推奨されていた。生活基盤を獲得するため、次男坊だった曽祖父を筆頭に、家族たちは満蒙開拓団の一員として参加した。ということがおおよそ推測できる。

ソビエト連邦による大日本帝国の傀儡政権、満洲国への侵攻は、玉音放送の一週間前、1945年8月9日に開始された。
広島へ原爆が投下された3日後、長崎に原爆が投下された日でもある。その当時、ソ連を通じて連合国に条件付き降伏を模索していた日本政府が無条件降伏を決定した重大な要因でもあり、ソ連の満洲侵攻は日本に対して仲介の役割を担うことはないという明確な意思表示でもあった。

このソ連による満洲侵攻について、私がこの日記でその悲惨な仔細を書くことは割愛するが、満州での民間人犠牲者の数は約24万5000人にのぼり、東京大空襲や広島への原爆投下、沖縄戦を凌ぐという。曽祖父はその戦禍でソ連軍の捕虜として連れ去られ、彼のその後は知る術もない。
その頃の曽祖母のことを思うと、おそらく今の私とほとんど同年代だったことだろう。まだ年端もない3人の我が子と共に取り残された曽祖母は、艱難辛苦、引き揚げ船に向かう道中で、ひとりさまざまな決断に迫られた。祖母の記憶によると、衰弱していた幼い妹を道端に置き、中国人の夫婦に妹が拾われていく様子を、物心のつきはじめた自分、2歳ほどだった幼い弟、曽祖母が共に物陰から見届け、3人は歩みを進めたという。
そしてその後、弟は道中で別の中国人に誘拐され、曽祖母は数少ない僅かな食事さえ喉を通らなくなるほど自らを責め、引き揚げの汽車を待つ駅の冷たい床に横たわり息を引き取った。彼女の遺体はその日のうちにどこかに運ばれ、ひとり駅に取り残された祖母の引き揚げが叶うことはなかった。終戦の残暑をとうに越え、過酷な寒さの気配が漂う深い秋だった。

7歳で満洲でひとりになった祖母は、養女を求めた中国人の夫妻に引き取られ、おそらく金銭的な事情からすぐに別の家庭へ売られた。そこでは激しい折檻と奴隷のように労働を強いられる日々を過ごした。その家庭には他に2人の残留孤児の少女がおり、3人はちいさな大衆役者として、京劇を歌う仕事から、あん摩や占いなど一芸の秀でた盲人を路上まで引き連れる仕事や、石炭を拾い集めるなどパシリのような雑用まで寝る間もなく働かされた。そして家では激しい暴力を受け続けた。その日々は彼女の心に深く影を落とし、彼女はどうにかして死んでしまおうとマッチ棒を飲み込んだり、幼いながら思いつく限り自分なりに自殺を度々試みた。
虐待は続き、身体中アザだらけだった彼女を見かねた近隣の通報によって、公安を通して民生施設に保護された頃には14、15歳になっていた。就学の機会を得られずにいた彼女はこの民生施設で住み込みで働くようになる。作業場を転々としたのち、施設内の療養所で実務をこなしていると半年ほどで識字ができるようになり、いつしか看護師として勤め始め、しばらくして中国人の祖父と結婚し家庭を持つこととなった。

二巡目の蝋を流し込み、午前の作業を切り上げてキッチンに移動、鍋でお湯を沸かす。昼食の用意がてらにテレビをつける。
最近はもっぱら元首相の銃撃事件の衝撃による派生したニュースと、宗教問題についての報道ばかりだ。あんなに報道されていたウクライナ侵攻について割いていた時間が今では随分と減った。
安倍元首相。第一次政権、そして長期間に渡った第二次政権でも彼を思うとき、自分のなかではいつも最終的には“愛国とはなにかを考える時間”に成り代わっていたように思う。首相という立場を退いてからも存在感を見せ続ける彼の様子を見て、ドラスティックに答えなく“愛国”について考えるその時間はもう少し長く続くとも思っていた。子供の頃の事情がきっかけとはいえ、日本の政治も、中国の政治も、もしかしたら人並み以上に思いを巡らせてきた自負はあるけど、それぞれの国から見て、私という人間のなかに愛国心はあるのだろうか。ないのだろうか。そもそも私は愛国心を抱く権利のある存在なのだろうか。“美しい国”を創ろうとした、あなたに聞いてみたかった。
……ああそういえば岸信介って満洲で成り上がったんだっけ。満洲人脈だったか。気乗りしないとはいえ深く学んでこなかったことを後悔する。少しは勉強しないとな。
「お盆直前に内閣改造したものだから……」とコメンテーターがぶつくさと自論を語っている。
そうか今日はまだお盆だったなあ。フリーランスなこともあり先月のコロナ療養のままなし崩しに休みを確保しながら過ごしていたが、3日後から始まるポップアップに向けて私は数日前からあたふた制作を再開していた。今年は休息を前借りしたようなものなので、お盆らしいお盆は過ごせずじまいだ。
沸騰した鍋にパスタを広げ、牛乳やコンソメ、卵を用意する。ブロックベーコンを短冊切りにして、そのうち茹で上がったパスタを湯切りし、熱したフライパンに全てを放り込み混ぜ合わせる。皿に盛り付け、卵黄とパセリを飾り立てる。
テレビに目を向ける。終戦特集に切り変わった報道番組。
カルボナーラの味は、濃いような、薄いような、美味しいのか、味気ないのか。まだよくわからない。
なんだか朝からずっと曖昧な気分。

お昼の家事を済ませ、食器を片付けて仕事に戻る。
ふたたびIHヒーターの電源を入れ、とりとめなく読書を再開する。
祖母と近い境遇で、しかし各々があまりにも孤独な戦いをあの時代に経験し、淡々と文字で綴られていた。
当時の満洲には推定170万人ほどの邦人が滞在していたそうだが、実際に46年から48年にかけて引き揚げられた在留邦人の実数はおおよそ105万人ほどで、それ以外はやむをえない事情による残留か、或いはソ連軍の捕虜として連れ去られたか、その地で命を落としたかさまざまで、語られる場は一様に少ない。
実際に当時の祖母はこの引き揚げについて知る術もなく、また彼女のように引き揚げの情報はおろか、そもそも日本が降伏したことさえ知らずにいた邦人も多数存在しており、彼らはそれぞれに過酷な状況のなか命脈を繋いでいった。
48年以降の中国国内での国民党、共産党の内戦が激化するにつれ、実質的な引き揚げはあまり記録されておらず、残留孤児、もとい残留邦人の数を厳密にカウントすることは難しかったようだ。1958年に正式に引き揚げ終了とし、1959年に「未帰還者に関する特別措置法」を制定、日本の国土を踏めずにいた残留邦人らの戸籍は「戦時死亡宣告」で抹消された。そして日中両政府の緩慢さから、その後1981年から大々的に「残留孤児訪日調査団」といった残留邦人の肉親を探す本格的な調査が再開するまで、彼らの存在はほとんどなきものとされていた。

満洲という名がなくなった中国東北部で祖母は家庭を築き、母や叔母たち三姉妹は丹東という町で生まれ育った。
中国と北朝鮮……中朝国境の町として知られる丹東で、一家は文化大革命を乗り越え暮らしていた80年代のはじめに、近隣の行政書士が祖母を訪ねてきた。中国には「档案(トウアン)」という、独自の人事資料制度があり、そこで把握されているものは人々の基本的な出身情報から家族構成・学校成績・党歴・職歴・結婚・言動・旅行歴・交友関係・犯罪歴など多岐に渡り、档案の存在は、中国が強靭な監視社会と称される所以でもある。把握される個人情報はマイナンバーどころではない。中国公安の高い調査力を遺憾なく民間人の把握にも発揮する档案の是非についてはさておき、少なくともこの制度による公的資料のおかげで、物心がついていないほど幼かった当時にこの大陸で残留孤児になってしまった多くの邦人の数少ない“邦人たる証明”として、40年叶わなかった帰郷の足がかりとなったのも紛れもない事実だ。

そうして、先の「残留孤児」調査の対象だと祖母は告げられ、一家は祖母の親族を探すために訪日、その数年後に永住帰国を遂げた。残留孤児として帰国を果たした約4割の人々は、自らがいくつかの調査で残留孤児であることが確定し、仮に帰国が叶ったとしても、親族はおろか、自分の本当の名前さえ判明できずにいるのが現実である(現在でも依然として、厚生省が各対象者の情報をまとめた孤児名鑑をインターネットで公開し、彼らについての情報を求めている)。祖母も帰国当時は既に日本語が話せなくなっていて、自分が邦人だという確かな記憶はあれど自身の名前はわからずにいた。思い出せる限りの記憶を頼りに支援者を介し、また肉親探しの報道を目にした彼女の親戚が、彼女の顔に在りし日の曽祖母の面影を見つけ出してくれたこと、さまざまなちいさな事実を積み重ね、互いにその存在を手繰り寄せることができたことで、奇跡的に祖母は自分が誰だかを知ることができ、生き別れた妹と弟とも再会を果たした。

仕上がった十数点のワックス・サシェを型から外し、色付けしていく作業にうつる。
変わり映えしない毎日に感じる日もあるが、あらためて私がここで生きていることは小さな奇跡の繰り返しで、それはもちろん私だけの特別な事情というわけではなく、大袈裟でなくすべてのことに言えるんだと本気で思う。それぞれの歴史に、それぞれの奇跡がいくつも重なり連なって今に至っている。私と一緒に暮らし、今日も白目を剥きながら眠るノルウェージャンフォレストキャットのチャオズも、そして保護猫のプーアルも。隣人も、友人も、好きな人も、苦手な人も、さっきテレビで持論を述べていたコメンテーターも。義なる者も、不義なる者も。なんびとも。

祖母たち一家が帰国を果たしても、言葉や文化、就労の壁はおおきく立ちはだかった。残留邦人として帰国した者、その家族は、行政からの支援はあれど、そのほとんどは寄る辺もなく、戦前と様変わりした80年代の日本で生活を組み立てていかないとならない。彼らが放置されてきた40年という時間はあまりにも長く、たとえ身寄りが見つかっても頼ることができる者は僅かで、当時は生活保護を受けたりしながら、なんとか食い扶持を繋ぐのが精一杯という人が大半を占めていた。切磋琢磨、社会に適応していこうと奮闘するなかで、中国でも日本でも、心優しき支援者が居るように、心ない懐疑や言葉を投げかけられる場面に出くわすことはそう珍しいことではない。それらの影響は2世、3世にも緩やかに引き継がれていく。中国では日本人、日本では中国人と呼ばれたりすることはよくあることで、私のようなアイデンティティ・クライシスに陥ってしまったり、いわゆるグレてしまう者もいる。実際問題、私が「残留孤児3世なんです」と言ったところで大抵の反応は「なにそれ?」か「あの準暴力団のやつ?」である。言語力という点では2世では難しくとも、日本で生まれ育った3世は反目する日中情勢のはざまで、ルーツ自体を敢えてひた隠しながら暮らす者も少なくない。

その後、母は日本に留学していた中国人の父と結婚し、私は日本で生まれ育つ。母の仕事で数年暮らした深圳での生活。ゆるやかに自分の過去と、祖母の過去、母の過去を思う。過酷さは比べ物にならないが、それぞれ別物に感じながらも、どれもちぐはぐしていて、なんだか似ているように思えてくるから不思議だ。ほんの少し前まで、私たちにとって、終戦記念日はそれこそ近くて縁遠いものだったのかもしれない。戦争は終わったのに、まるで何にも終わっていないように思えてしまう夜がいくつもあった。自分ではどうしようもできない事情や歴史に揺られ、ちいさな隙間を見つけて生きてきた。家族のために、妻のために、定年間際に自らの仕事や交友関係をほとんど断ち切るような形で、言葉や文化にゆかりのない土地に移住を決断した祖父はどんな思いだったんだろう。母と生きることを決めて、この国に帰化することを選んだ父はどうだったんだろうか。2人は曽祖父たちの名前が刻まれた墓石の下で眠り、今ではどちらも確かめる術はないけれど……。

色付けし終わったサシェを乾かしながら事務連絡を済ませ、2022年8月15日の仕事を切り上げる。
そういえば9月末で日中国交正常化50周年だけど、日系であり中国系である私ですら忘れてしまいそうになるほど祝賀機運もなければ実感もない。
まあ相変わらず互いの外交は低空飛行状態だろうし、そんなもんだろう。
まだまだ猛暑日が続いて、夕どきも茹だるような暑さが続いていた。
ルーティーンの散歩に行く気にはなかなかなれない。梅酒をソーダで割ってベランダで風に当たる。夜風は生暖かい。朝からいろんな思い出やが感情が芽生えては、小さくて固い粒子に変化して、心はざらざらする。

気づけば昔のように終戦記念日を前にして緊張することも不安に思うこともなくなったけど、今年は否が応でもウクライナ侵攻のことが頭をよぎる。
隣り合う国家や領土同士が争うとき、完璧に線引きしてどちらかの立場であれる人と、そうした都合で生きられないルーツを持つ人間がいる。長きに渡る争いが続く中東はもちろん、身近な日中韓、そしてウクライナとロシアを思うとき、どうしても狭間で生きる人々を思う。社会の絶対多数と比べれば少数かもしれないけど、きっと私たちが思っている以上に存在している。また、ウクライナ侵攻の直後はソ軍の満洲侵攻と重ね合わせる論評なんかも見かけて、その度に胸が痛くなったのを思い出す。ベランダでどれだけ逡巡を繰り返しても、私には満洲をウクライナと同一化して感傷に浸る粗暴な考えには至れなかった。13年間、幻の国として満洲国は確かに存在したが、その土地は御託並べながら侵略し、奪取した土地であることに変わりはないのだから。

今年の残暑はいつまで続くんだろう。
過ごしやすくなるまで時間はまだまだかかるのだろうか。
山川異域、風月同天とはよく言ったものだけど。

富沢櫻子

ekot spectrum works 主宰
幼少期から東京、香港、大陸各地での生活を経て、 2015年からナラティヴでアンニュイな世界観、無国籍な佇まいのアロマワックスサシェを製作する「檸檬はソワレ」として活動。2018年より、より裾野を広げた制作・提案を目的とした『ekot spectrum works』を立ち上げる。主軸の創作活動以外にも、ミニチュアプレイング、文筆やエッセイ、書評の執筆と、インディペンダントに活動の幅を広げている。現在は東京を拠点に活動中。

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