5〜7月は友達のスナネコと2人で1本ずつ「同じ日の日記」を書いてきた。「同じ日」という条件の下で各々が日記を書いても、当然同時期の異なる場所の異なる生活があるだけで、私と「誰か」の日記がただ並列されるに過ぎない。そうではなくて、異質な「あなた」と一緒に日記を書く行為を通して、私と「あなた」が交差し、影響し合い、混ざり合い、反発し合うことで、「私とあなた」というテーマを深めたいと思った時、スナネコに声をかけようと思った。数多くの友達の中でもスナネコでなければならなかった。理由は複数あるが、1つは親しくなる前から私に「全てを楽しむ素養がある」と言ってくれたから。そして同じ素養を私もスナネコにも見出したから。2人で日記を書く時は日付以外にも条件を設けてきた。例えば、5月はそれぞれの朝の音の録音を交換して、相手になりきって相手の朝の日記を書いた。6月は雨、7月は健康という共通の題材を立てて「同じ日の日記」を書いた。どれも互いに補完し合う、相手がいなければ成立しない日記だ。そしてあっという間に8月になった。
スナネコは毎朝早くから70年代の古き良きロックとパンクの曲を送ってくれる。どれも尊厳についての音楽だ。自由と愛を求める闘争の歌。スナネコはこれまで「同じ日の日記」で毎回朝について書いてきた。それは朝の時間を1日で一番大切にしているからなんだって。生死の境目を綱渡りしたことがある者にとっては、日常のどんな些細に思える習慣にも意義がある。全ての朝、全ての食事、全ての入浴、朝聞く音楽の1曲1曲。全てが、今日も自分は生きている、今日も自分の体は確かにここに存在している、という思いの発露だ。