6時すぎに都心を出発して西へと進む彼らのレンタカーが最寄りのコンビニに到着したころ、ぼくはクーラーボックスを引きずってその待ち合わせ場所へと出発した。
年末に都心から引っ越したこの新しい町はいくぶん山に近くって、旧街道沿いのコンビニにはちゃんと駐車場がある。到着すると車止めに寄りかかって、とんかつさんが肉まんかなにかをほおばっている。店内ではじゅんやさんがあたたかい飲みものを見ていた。それぞれに順番に「うーっす!」と声をかける。釣り仲間でありつつ草野球仲間でもあるふたりに会うと、無意識に球場でのあいさつが口をついて出てくるみたいだ。
今日は釣りの日。
冬の間ってなかなか釣りに出られない。そんなときにハマってしまった管理釣り場でのマス釣り──エリアトラウトフィッシングと呼ばれる──に、釣り部のみんなで出かけることにしたのだ。
「管理釣り場ってね、釣り堀だと思うじゃん? でも違うの。魚は見えるのに、釣れない時は全然アタリすらないの。そんな時でも上手なひとは釣っているわけ。で、その原因を色々と考えるのよね。気温、風、日の入り方、時間。あと潮も大事。海じゃなくっても引力は関係するらしいから。色々考えて、スプーンならこの色この重さかなとか試していって、釣れるパターンを見つけたときのよろこびはすごいものがあるんだよ!」
初心者のコーフンでもって熱弁すると、いつもの釣りの仲間たちは目をきらきらさせて行こう行こうとなって、静岡県のある管理釣り場に向かった。
平日だ。
フリーランサーと経営者の特権を活かした日程を組み、万全の気持ち。東京からぼく、じゅんやさん、とんかつさん。現地でぼくのあらゆる釣りの先生でもある横田さんが合流する。一番楽しみにしていたフォトグラファーのゆうたろうからは、前日悲痛なLINEが届いていた。なんでも撮影場所の飼い猫が体調不良、という理由でリスケになっていた撮影が急遽今日入ってしまったという。なんとも不憫だけど「猫ならしかたない……」という気分にもなる。だって元気になったわけでしょう、猫が。それ端的にいいことだ。
とんかつさんもじゅんやさんも、道にくわしい。
ふたりの会話から、平日の午前中でも圏央道は混むことが知られた。運転も道もぜんぶ任せて後部座席にすわり、窓の外を眺めながら年上のふたりの話を聞いていると、子どもの時のような安全な気分が身体を包み込んだ。先のことを考えず、ただ点と点をつなぐ線の上から外の世界を味わい続けてたあの感じ。だからふたりのことをあの時の両親のように頼もしいとすら思わないまま、その手前のただただ安全な気分に揺られていた。
SAでおにぎり(とり五目)を買って、9時すぎ到着。6時間4500円のチケットを買う。
ここには4つの釣り場がある。水の澄んだクリアポンド、ややにごりのあるマッディポンド。渓流を模した流れのあるストリームエリア。いろんな釣りのできるミックスポンド。ぼくの目当てはなによりクリアポンド。普段行く管理釣り場はマッディで、手前1メートルくらいしかルアーの動きも魚も見えない。だから今日は想像と現実のすりあわせが1番の目的なのだった。自分のルアーがイメージ通りにアクションしているのか、想像通りの深さを泳げているのか知りたい。
富士山の水が流れ込んでいるのか、クリアポンドの水質は想像以上にきれい。「飲めそうだなあ」といったら、やめてねといわれる。たくさんの魚影が目に入る。偏光サングラスをかけるとそれがさらにくっきりとして、口元がにやついているのがわかる。アベレージ30センチ強くらいのニジマスたちの群れを悠然と横切っていく巨大な影、あれはたぶんイトウだろう。あんなの、このロッドでかけてしまったら、折れちゃうんじゃないかしら。
さて釣りをはじめよう。ぼくの、ぼくだけの計画と方針で。
最初に取りつけたのは、ふだんからパイロットルアーとして使っている1.9グラムの焦茶のスプーン。湾曲した金属片に針をつけただけのスプーンというシンプルなルアーが、エリアトラウトフィッシングの基本だって本に書いてあったから、いつだって本を参照するぼくは楽しい気持ちで鵜呑みにしている。
パイロットルアーってことばも本で知った。自分の手になじむ重さで、それを使ってその日その場所の釣り場の状況と魚の活性を探るためのもの。これをぼくは「定規」のようなものだと思っている。その日の状況を測るための、ひとつの「定規」。そんなルアーで釣れてしまったらそれはそれでいいし、ダメならで収集した情報をもとに方針を変えていく。それが醍醐味、らしい。
数投しても魚たちはまったく見向きもしない。
「定規」がぼくに伝えてくれたのは「もっと軽いルアーでゆっくり巻いて長く魚に見せてあげて」「色ももうすこしあざやかでいいかも」ということだった。それに従って1.3グラムの桜色のものに変える。すると着水時点でルアーを眺めていた魚が徐々に近づき、数秒後、ひったくるような強いバイトがあった。急いでフッキングするとそのまま真横に走っていき、リールはシャーっとかん高いドラグ音を響かせた。
え、なんなんこれ……。
そう思ったのはクリアポンドだから見ることのできた魚影が、平均的なサイズのニジマスだったからで、それにしては引きが強すぎる。ぼくのかけた魚はそのまま走り続け、横の釣り人が「ひゃっ」と言って竿を上げてくれた。じっくりやりとりして陸にあげるまで、そいつは5回もジャンプした。いつもの釣り場じゃあり得ないようなことだった。
必死にロッドを魚の進む方向と逆にアプローチして、がんばって陸にあげる。傷ひとつないうつくしい魚がそこにいた。大人だから大きな声でよろこんだりはしないんだぞ、と思う。それでも口からは「んおおお!」と、まだ言葉を見つけられていない感情が音だけの姿でもれ出していく。
一緒に出かけても、釣りはひとりだ。
みんな思い思いの場所に散っていくと、没入度がぐっとました。
写真における周辺減光のように視界の四隅がぼんやりと暗くなり、世界はぼくと水と魚だけになる。そこにルアーを何度も投げ込んでいくとぼく自身も消失し、次第に自分自身がルアーそのものになった。
狙った場所にぼくは勢いよく飛び込んで、目を閉じる。
まっくらの中、こつんと伝わっていくのは着底の感触で、うん、これは砂利だ。今カリリッと鳴ったのは、ちょっとした石だろう。もったりするのは、青々とした藻だ。世界のさまざまな感触の中から、ピリリとくる魚の命のふるえだけをていねいにソートしていく。
6時間の没入のあいだ、ぼくはとり五目のおにぎりひとつだけで駆けぬけて、合計14匹のニジマスを釣り上げた。初場所にしては上出来だろう。6時間パスを返却したあとたばこを吸っていると、じゅんやさんととんかつさんが池の中をのぞきこんでいる。なんでもじゅんやさんが手元でラインを切られてしまった50センチは越える大物が、彼の赤いルアーを口元につけたまますぐそこを悠然と泳いでいるらしかった。それを見つめる背中から、くやしさと誇らしさのようなものがふんわりただよっている。
我ながら、ずいぶんとうまくなったものだと思う。でも不思議なことに、充実感とともに喪失感のようなものが湧きはじめていることに気づいた。明日は名古屋で用事があるから、車で三島駅まで送ってもらう。ロータリーで下ろしてもらったあと、3匹だけ持ち帰ることにしたニジマスを大事に抱えて新幹線に乗り込み、これは絶対初心者喪失の不安だな、と思う。
生涯ベストエッセイスト5に入る詩人・平出隆のエッセイに「絶対初心者マーク」というものがある。『ウィリアム・ブレイクのバット』に収録されているこのテキストに記された「絶対初心者」という概念を、はじめて読んだ時からずっと大切に思ってる。
1980年代にアイオワ州で自動車免許を取得した平出さんは、その後長く車に乗ってこなかった。それでも国内で車を持って乗ろうとした時、初心者マークをつけることに違和感を得た。はたして自分は初心者なんだろうか。そう思いながらひさしぶりに運転席に乗り込むと、やることの順番やチェックすることがとっちらかっていてもたつく。やむなく数回初心者マークをつけたが、外すことにした。その理由が「初心者ではなく絶対初心者を宣言したくなったから」だという。
ではあらためて、絶対初心者とはなにか。それは、初めてのときだれもが抱き、そこからはだれもが忘却していくばかりのあの全身的おののきを、生きものにとっての絶対的根元的始原的快楽として保存し、けっして忘却せず、これを運転席でいつでも、のど飴かなにかのように簡単に取り出せる状態に置いておきながら上達していく、みずから選ばれしドライバーのことである。──といったことになる。
平出隆『ウィリアム・ブレイクのバット』(幻戯書房)P149,P150
はじめてのどきどきを構成するする大切な要素に、この「全身的おののき」がある。
技術的上達を無意識に成長曲線の上に放置していると、しだいに怠惰な慣れがやってくる。上達は歓迎だけど、怠惰な慣れは招きたくない。意識しなくてもできることが増えたぶん、そいつは「全身的おののき」を引き換えに持っていってしまうのだ。
だからそれを、のど飴のように簡単に取り出せる状態に置いておくこと。
この「簡単に取り出せる状態」が肝心なんだと思う。世界の広がりの手前、まだ何も知らないまま立っている時の、あの愛おしい畏れとおののきをいつまでも味わい直しながらスキルアップしたい。
魚を陸にあげて眺め、そして〆るとき、夕暮れのひかりを乱反射させる鱗をきれいだなと感じながら、目が気持ちわるいと思う。暴れまわる命の脈動に焦りながら脳天にナイフを差し入れるとき、目をそらしたくなる。はやく動かなくなってほしい。申し訳ないし、こわいから。神経とエラを切断すると真っ赤な血が溢れ、指の間からゆっくりとこぼれ落ちる。命が消える瞬間すっと体色が変わる。そのとき「ごめんね」と思いながら、安心してしまう。その安心の勢いのまま肛門からナイフを刺し入れ、腸からエラまでの一連の流れをにが玉を潰さないようていねいに引き抜く。そして頭を落としてしまえば、それはもう魚というよりはひとつの食材だ。命が素材に変わってしまって、もうなにもこわくない。
釣り場には忘れたくないことがたくさんで、それを永遠に初心者として味わっていたいのだ。