かつてあった過去だけどでも途方もなく《いま》
カメラで撮られる写真や映画は、《かつて あった いま》だと授業で聞いた。わたしはこの言葉が好きで、それはすごく示す範囲が小さくて、個人的な感覚を表す言葉な気がするからだ。映画『君と私』は《かつて あった いま》が《かつて あった いま》をうつしだしている。カメラの前に立った俳優がだれかのかつてあったいまの記憶を身体に顕現しているように見えて(たくさんの / ひとりの)、物語上の二人にとってもあの1日はかつてあった過去だけどでも途方もなく《いま》である。そういうかけがえなさ。記憶や記録、本当のことは一人一人のなかにあって、それらをスクリーンという《いま》に登場させることは、再演することは、本来不可能なはずなのに、不可能なはずだからこそなにかを届ける必要があると想像する。それがフィクションの役目だから。その中で、人ひとりの膨大な広がりは確実に全員ぶんあるということは事実で、それを上映するという希望がある。個人が大きな物語に収束されない、そういう意味でのカラオケ、バス、キーホルダー、いぬ、鳥、光。わたしたちは忘れたくないしどうにかこうにか大事に持ち合わせたい。抱きしめたい。し、抱きしめられたい。
好きな人は好きだし、好きだから好きだし、それ以降のこととかわからない時があって、だからうまくいかなくて、そういう日があって、相手への気持ちと自分の気持ちの主体と客体がいれかわってごちゃごちゃになって自分がゆらぐ愛とか、ちいさいことが気になって結果的に大きなことになるとか、ぜんぶありふれてなくて、ひとりひとりで、そういう存在がたしかにこの世界には複雑にあらわれている。この映画を見ている時、わたしはわたしの複雑さを思い出せた。


