自分と誰かとの重なりと圧倒的な隔たり
『君と私』は主にセミの視点で進む。もうひとりの主人公ハウンは、家族も出てこないし、なぜSNSを通して知らない誰かと会うのか、靴下の踵が破けているのかも明示されない。そこから何かが想像できる、けど推測の域を出ない。
他人の人生も、その辛さも喜びも、わたしたちには想像しきれるわけがないという限界から、この作品は逃げていない。
死と喪失、悼みと記憶、呼びかけ、自分と誰かとの重なりと、圧倒的な隔たり。これらはセウォル号事件のような不条理な事故で亡くなった人や喪った人が置かれている立場や、ジェンダーやセクシュアリティのマイノリティが置かれている状況とも響き合う。なぜハウンは自分の辛さをセミに話せなかったのか? それでもセミとの時間が充実して見えるのはなぜなのか?
セミはセウンだったかもしれないし、セウンは他の同級生の誰かだったかもしれないし、消えた犬かもしれない。その示唆は、校庭にいる生徒たちから、カメラは教室内の生徒たちを映し、そして鏡のなかのセミを捉えるファーストカットからある。このように、エピソード、セリフ、映し出されるさまざまは、極めて精緻な技術によって配置され、リアルな「日常」に見えて、まるで浮遊する神話や夢のようでもある。
この映画は、会社組織や政治判断のガバナンスの不備によって多くの被害者を生んだ、セウォル号事件という「社会問題」を真っ向からも、不条理な悲劇としても描かない。その距離感が、観客ひとりひとりの想像を刺激し、他者の存在が自分を抱きしめてくれるものだと感じさせてくれる瞬間に、胸打たれる。


