会いたい人が遠くにいる人へ
柔らかそうな手だな、と思う。
好きな人の手が冷たくなるのは嫌だし、目の前で泣いているなら私の手で拭ってあげたいし、その涙が私のせいじゃないかどうか気になった。繋いだままでいたかった。この世界で私だけが、君ともっと一緒にいたかった。
高校生の年頃の感情を描く作品を好んで読んだり観ることが多い。自分の気持ちを全く制御できないまま相手にぶつけてしまうし、相手の気持ちを聞いているようで結局自分にとって欲しい答えだけ求めてしまうし、そうやって帰り道に反省していたらまた勝手に謝りたくなって、どうしようもなく会いたくなる。これが目まぐるしい速度で移り変わっていくのが、少なくとも自分が通ってきた道だから、胸が苦しくなりながら共感してしまうのだった。
『君と私』のことはずっと気になっていた。それよりも前から、セウォル号の事件のことはもっと心に引っかかっていた。あの日あの船に乗っていたみんなは、一体どんな気持ちで、足元に溜まっていく水の冷たさを感じ、傾き続ける船体にいて、どれだけ怖かっただろうか。学生たちが最後に撮ったビデオを何度も見て脳裏に焼き付いている。彼女たちの生きた時間の前後を思い浮かべることは、離れた日本にいる傍観者であっても心が痛むので出来ない。
だからこのまま、フィクションでありますように、と願う。彼女たちの物語をフィクションとして受け取るどころか、まるで本当にふたりが存在したかのように私の肌に、心に、リアルに感じたからこそ、物語上ふたりが迎えたであろう未来の出来事が起こらなければ。そうだとしたら、彼女たちを待つ明日がどうなるか、私たちはすこしばかり夢見心地で想像していたことだろう。けれども私たちは知っている。笑顔で修学旅行に向かった学生たち、それぞれの人生の何でもない一日になるはずだった乗客たちが直面した、4月16日を。
チョ・ヒョンチョル監督そしてDQM撮影監督の手腕には感服しきってしまった。本当に素晴らしかった。セミを追いかければハウンが映り込み、ふたりは起き上がり、カメラはそれをずっと包み込むように捉える。現在ではない、確かな記憶であること指し示すかのように、鏡越しや窓外からふたりを覗く。やけに観葉植物の多い家と病院の休憩室、いつも通る道に無造作に咲く黄色い草花、ノートから光が湧いたような、夢幻的な太陽の反射。そんな映像の破片たちがあまりにも綺麗で、時に事実を忘れさせる。
主演の二人の呼吸も素晴らしい。お互いの言葉を聞き切る前に喋り出して被って訳わからなくなる様子だってずっと聞いていたくなる。こんなに自然体で、指先や前髪やら細部まで感情が乗って、役のまま動いて止まっていられるのが羨ましい。それを自由に発散させたまま収めてくれるカットの連続に喜びを感じた。心地いい笑い声が重なり、見つめ合い、ふたりの永遠が『君と私』という透明の宝箱の中で煌めいていて、私たちはそれを外側から見つめている。観終わっても気を抜いたらすぐ涙が溢れてしまって、他人事に出来ない感情が芽生えたようだった。
事件と共にこの映画は私の心に、何年も剥がせないシールのように残り、これからもずっと、あのセミが手を振り続けている。吐く息がだんだん白さを失って、太陽が暖かく感じてきた頃、何度でも思い出すことだろう。ふてくされずにまたひょこっと出てきてね、まだ振り向いていてね。
会いにいけないけれど、どうしても会いたい人が遠くにいる人へ、届いて欲しいと思う。


