「7時だよ。起きて」としゃべる目覚まし時計の音で目が覚める。トーストを朝食にする習慣がない人が今日は食べたいと言うので最後の一枚を譲る。代わりにグラノーラに牛乳をかけて食べる。凍った車を温めるためにエンジンをかける。お隣さんが不燃ごみを出してるのが見えて、2週間ごとの回収日なことを思い出し、家に戻って準備する。ごみ収集カレンダーを念のために確認したら、「収集お休み」と31日の欄に書いてある。忘れたら困りそうな大きな荷物が玄関に置かれたままになってるのに気づく。まだ温まってない車に乗り込み、朝一番に家を出た人に届けに行った。
庭の白樫の木の下に動物の小さなフンがたくさん落ちてる。鳥かと思ったけれどきっとちがう。ポケットからスマートフォンを取り出して、ハクビシン、タヌキ、ネズミのフンをインターネットで画像検索する。どれも似ててどこかちがう。ここに越してきたのはこの季節で、8歳のときで、ある朝起きると雪が積もってて、見たこともない動物の足跡を見つけて跡を辿ったら、この白樫の下で途切れてた。見上げたら枝に何かがぶら下がってて目が合った。今日は何もいなかった。
近所の造園会社の人たちが銀杏の木を伐採してて、それを見て悲しくて泣いてしまった人を慰める。開店時間のスーパーに寄る。どの店員の人たちも、おはようございますと丁寧に挨拶してくれるから、おはようございますと返す。レジの人から、インフルエンザは大丈夫ですか? と聞かれる。大丈夫です、大丈夫ですか? 大丈夫です。
まだ10時すぎなのにお腹が空いたから、早炊き機能で米を炊く。昨日焼いたまま忘れてた鮭をグリルから取り出してレンジで温める。冷蔵庫からミニトマトを出して洗い、一昨日の余りものの野菜炒めときのこの味噌汁も温める。早めの昼食をとって食器を片付ける。そのままノートブックを出して、大学の授業で提出された最終課題レポートの採点と成績付けを始める。70人分くらいあるから1日では終わらない。課題はリバイバル公開中の『ゴーストワールド』を1000文字の言葉にすること。学生の人たちにとっては生まれる前に作られた映画。私にとっては学生のころに公開された映画。たまに届く、授業へのコメントが友だちに話しかけてるみたいな文章になってる人の書いたレポートは、友だちに話しかけてるみたいな文章だった。友だちに話しかけてるみたいな文章ですねとコメントを返したら、「褒められてるのか分からないですけどありがとうございます(?)」と丁寧語で返事が届く。今年度で最後になるかもしれないと最終日に伝えてたこともあってか、「もう学校で見れなくなるの残念です」とついでに書かれてる。動物園の檻の向こう側にいる自分をイメージする。このやりとりを公の場所での日記に書いてもいいですかと確認する。全15回の授業のうち、何回欠席すると単位を渡せないかの判断に自信が持てず、研究室に電話をする。同じく今年度でその大学を離れる予定の助手の方がすぐに出て、5回ですと教えてくれる。お話しするのもきっとそれが最後だった。
夜に家を出る予定があるから、早めに夕飯を作りはじめる。今日はシチューにする。野菜を炒めたあとに小麦粉とバターを足して馴染ませて、牛乳を少しずつ入れながら温めていく。頼りにしてるレシピがあって、いつもそこに書かれた手順で作ってる。牛乳を一気に投入して作った時に、どれくらいよくないことになるのかを知らない。米を研いで炊飯器のスイッチを入れてから近所の総合体育館に向かう。
K-POPダンススクールの見学をする。一面のガラス窓から夕日が差し込んでる。人生で一番くらいに感動したダンス公演は、ニューヨークのアルビン・エイリー・アメリカン・ダンス・センターでのこどもたちの発表会。レンガ造りの古い建物の、やっぱり一面のガラス窓から差し込む夕日を浴びながら、アジア系のこどもたちが忌野清志郎の曲に合わせて思う存分に踊ってた。それは2001年の2月で、私は毎日寒さに凍えながら、振付家の伊藤郁女さんと二人でマンハッタン中の小劇場にコンテンポラリーダンスカンパニーの売り込みをして回ってた。そのとき唯一声をかけてくれたのがジョナス・メカスさんだった。11月にアンソロジー・フィルム・アーカイヴスで予定してた公演は中止になった。ワールドトレードセンターに次兄は通勤してた。居間のこたつを囲みながら、テレビ画面にビルが写し出されるたびに、私は指をモニターに当てて、兄が勤めてるはずの89階の回数を数えた。数えきれないままにカットは変わっていった。2つあるうちのどちらのビルに兄がいるのかもわからないまま、順番に崩れていく様子を見つめてた。深夜の2時半を過ぎたころに電話が鳴り、母が受話器を取った。後ろにたくさんの人が並んでるからと、階段を1時間かけて降りて無事なことだけを伝えて兄は電話を切った。受話器を置いた後、ご飯を作ってあげなきゃとつぶやいた母は、アメリカへの渡航が再開されるとすぐにニューヨークへ向かった。目の前のK-POPダンススクールの先生は、あの年にニューヨークで見たこどもたちと同い年くらいかもしれない。誰よりも楽しそうに踊ってて、自分もそうありたいと思う。