東京から遊びに来た友人が、いくつか本を置いて行った。
その中に須賀敦子の『霧のむこうに住みたい』があった。
「留学中の話だから、参考になるかもよ」
この友人は、私がウィーンに留学していたときも、いくつか本をくれて、その中に石井好子の『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』と、向田邦子の『夜中の薔薇』があった。
思えばあの頃、言葉の通じない世界で、自分の中へ中へと潜っていた時間。
初めてエッセイを書いた。
いや、エッセイとは呼べないような、言葉の断片だったかもしれないが。
それこそ、遅れて慌てて書く、日記のようなものだったかもしれないが。
文字にする。
そのことを信じていないくせに、積もる言葉が心の中にある。
つくづく人というのは、多面的で、複雑で、割り切れない、面倒臭くて、愉快な生き物だなと思う。
自分ひとりを見ているだけでも、そう思うのだから。
日記もエッセイも嘘だ。
本当の出来事を書くというのと、本当のことを書くというのは、全く違う。
最近、世界は、言葉というのが、どんどん難しい。
好きなものを好きと言えない、おかしいことをおかしいと言えない、そんな世界が、ある。
いつの時代も、その時代なりにそうだったのかもしれないが、今は今なりに、変だし、私は怒っていると思う。
そもそも“世界”という言葉が、私にはわかっていないように思うけれど、それ以外の言葉が今のところ見つからない。
世界が私の外側にあると感じることもあるし、内側にあると思うこともあるし、重なっているなと気づくこともある。
そういえば、小説を出してから、1年が経った。
よかったね、小説という場所を見つけられて、と思う。
日記というのは、出来事を書き留めておくものなのか、心の風景を書き留めておくものなのか、いつもわからなくなって、続かない。
どちらも同じことなのかもしれないが、そう器用にできない。
他の人にとっては誰かに伝えるために書くものかもしれなくても、エッセイも小説も日記も、私にとってはどれも自分のためなのだから、そりゃ仕方ないようなあと思う。
そういえば、語学学校でも、器用にできないことが多い。
今度のスピーチテストでも、習っていない単語がたくさん出てくるテキストを書いてしまい、それを覚えるのに苦労している。
もっと簡単にすればいいのに。
先生や友達も、呆れている。
でも、自分のための勉強なので、これでうまくいかなかったとしても、知っていることや、言えることは増えるので、いいや。
文法や活用形を覚えるのも、みんなは“慣れ”だというけれど、私はいちいちいろんなことが気になってしまって、調べてしまうので、一向に勉強が進まない。
そのおかげでテストが上手くいかないけれど、まあそれも、自分のための勉強なので、いいや。
器用にできたら、すらすらと進級できたのかもしれないが、器用だったら、私は文章だって書いていないはずだ。
疑問や不思議がたくさんあるから、文章を書くのだと思う。