私の机の前には、引越しのたびに大切にはがして、新しい部屋の机が決まったら、いのいちばんに壁に貼ってきた、いくつかのイメージがある。
一つは、ダニエル・シュミット監督の映画『書かれた顔』のワンカットで、東京湾で大野一雄が踊っている姿だ。大きなレースの帽子をかぶりお化粧をした大野一雄が、柳の枝のような腕を、夕焼け空に伸ばしている。ベンヤミンにアウラという概念があって、文明が芸術を複製し続けて失った「一回性」のようなものを指すが、大野一雄のか細い腕は、夕焼けに沈む東京湾の空と同化して、まさにすぐ消えてしまうかげろうの、瞬間の輝きのように見える。
シュミットの映画魔術に感動して、場面のワンカットを壁に貼っている私は、まさに複製をしているのだが、この複製画像が、大野一雄のダンスを目前にした記憶をよみがえらせる。大学に入ってすぐの4月、映画研究会の担当教授が大野一雄を大学に呼ぶというので、なぜか私が花束を渡す係を言い渡されたのだ。入学したばかりで事情もなにもよくわからなかったが、壇上で花束を受け取ったその人は私より小さく、本当に枝のように細かった。そのときの、頼りないようでいて、底に果てしない強靭さを湛えた姿を、ありありと思い出す。
それから、ほとんど連関しているといってもよいが、「揺らめきながら全体が成立している」とだけ書いたピンク色の正方形の付箋も机の前に貼ってある。これは、たしかマルグリット・デュラスの言葉で、15年ほど前に本から書き写したのは覚えているのだが、引用元の本の題名が書いていない。今回どの本か探したけれど、わからなかった。ほぼ全作品を捨てずに本棚に並べているのは、デュラスと津島佑子くらいなのだが。
付箋と対になるように、デュラスの映画『アガタ』の一場面が貼ってある。曇った窓ガラスがざっくり割れて、窓の手前に古いサイドテーブルが置いてある。テーブルの上のすすけたガラス瓶に、朝陽だろうか、薄い太陽が当たっている。ただそれだけの写真なのだが、割れた窓の向こうに、デュラス作品でたびたびあらわれる狂気におかされた女の気配がする。窓外に何かが写っているわけではないのだが、曇ったガラスが、窓辺に声を響かせる狂気の女を幻視させる。
デュラスだけは、20代のころから引越しのたびに一冊も手放さず本棚に並べていると書いたが、それがなぜなのか、実は自分でもよくわからない。ときおりデュラス特有の性愛の密度とか、男性が女性にむける欲望の濃度にムッときて、むせてしまうような気持ちになる。それは、女性の会話がすべて「〜わ」「かしら」という語尾に訳されており、そこに透けて見える、女性が男性に暗に求める保護や、下手に出ることの喜びのようなものに冷めてしまう、とも言えるかもしれない。時代によって、一つの小説が色を失うこともあるのだということを知った。
しかし、デュラスにはそれに勝るだけの、尽くせぬ興味がある。今回その在り処を、再読してあらためて発見した。それは「狂気にとらわれる女」ということだったのだと思った。
窓の向こうの狂気に囚われた女は、『インディア・ソング』『ラホールの副領事』『愛』と、たびたび作品に登場するデュラス文学にとって重要な登場人物だ。もう一人デュラス文学にとって重要な女性がいて、それはアンヌ=マリー・ストレッテルという。アンヌ=マリーは、『インディア・ソング』でも主人公になり、映画ではデルフィーヌ・セイリグが演じ、周囲の男たちをのきなみよろめかせる、高貴な色香がただよう女性だ。狂気の女は、アンヌ=マリーにつきまとう存在として現れる。早朝、空が白み始めた時間あるいは夜中に、女はマリーと男たちとの情事を目撃しに、窓辺にやってくるのだ。
狂気の女のイメージは『インディア・ソング』『ラホールの副領事』では「女乞食」や漂流者として描かれ、『愛』では妊娠中の女となり、もっと抽象的な亡霊のごとくになって、デュラスのなかで変奏していくのだが、その初源にあたるのが『ロル・V・シュタインの歓喜』だ。この作品で描かれるロルという婦人は、その後、狂気の女となってゆく人物なのだ。人の情事をのぞき見る彼女に、そもそも何があったのか。
実は大学時代、ロルに似ていると言われたことがある。仲が良かった仏文学科の友人で、彼女とその彼といまは哲学科の助教になった同級生と4人で、ドゥルーズの『ベルクソンの哲学』の読書会などをしていた。会うたびごとに、彼女はなぜかロルを私に重ねて『ロル・V・シュタインの歓喜』 を読んでいると言っていた。
今回再読して、ロルはむしろ、私の母によく似ていると思った。精神を失調させがちな母。大学時代の友人は、きっと私のなかにも蜘蛛の巣のように糸を張っている、発病の予感のようなものを感じたのではないかと思う。私のなかの母に似た部分というか、つねに恐れとしてある病の予感のようなものを、私に透かし見たのではないかと気づく。
描写されるロルの見た目や姿などではなく、繰り返し書かれる離人感のようなもの、現在にいるけれども、なぜか白昼夢にいるようで現実感がないところが、おそらく似ているといわしめた部分ではないか。
彼女からすると私は、哲学科に残ると言っていたのに、卒業前にいきなり見知らぬ年上の人と結婚して、予定していた大学院進学を突然やめてしまった人物としてきっと電撃的に映っていただろう。普通は人がよく考え、準備して行うであろう結婚とか、就職とかそういう現実的なことを、なんだか上の空で、誰にも相談せず、沈黙したまま決断してしまった。そういう印象を持っただろう。
現実界での選択の烈しさは、実は私の現実感のなさに比例していて、決断の大胆さは、私の命を保つ手段であったことを、たぶん彼女は見抜いていた。
『ロル』をあらためて読み直して、この物語は、やはり深く狂気の物語だと思った。狂うことのなかには、現実を遠くからのぞくような様態がある。現実をあらかじめ失われているものとして眺めること。あのころの自分も、現実があらかじめ失われているような、リアリティのなさを抱えていて、だからこそどんな選択もできてしまい、それは他人から見れば、いつでも自暴自棄に見えただろう。
『ロル』の物語を説明していなかった。『ロル・V・シュタインの歓喜』というタイトルは原題を「Le Ravissement de Lol V. Stein」という。訳者によると、Ravissementは歓喜という意味だが、喪心とも訳せたという。ロルにとっては歓喜と喪心は同じことを指すので、歓喜を選んだとあるが、あらためて読み終えた印象は、会話の途中で言葉が途切れ、深い中断のあと霞のなかに消えていくようなロルの「放心」、行動の途中で空を見つめどこかへ意識が浮遊してしまう「喪心」の印象が、非常に強かった。
ロルは女学生だったころ、婚約者がいた。しかしビーチで行われた舞踏会で、婚約者はマリー・ストレッテルという年上の女性に心を奪われ、二人はロルの目の前で飽くことなくダンスをし、そのままダンスホールを去ってしまう。婚約者はロルを捨てたのだ。その後ロルは発狂したとあるが、その詳細は語られない。物語は、ロルが音楽家と結婚して3人の娘をもち、S・タラという街に数十年ぶりに帰ってくるところから始まる。S・タラーー。デュラスが生み出したこの架空の街は、海辺にあり、いつも風が吹き、砂をさらう。海であるが、「死」でもあると語られる街。S・タラの存在は、私がデュラスを読み続ける強い吸引力にもなっていて、デュラスの登場人物の演劇的なふるまいを成り立たせる、ストップモーションをかけられたような漂泊の場所だ。
このS・タラに帰ってきたロルは、一見病はおさまり、バランスを保っているように見えるのだが、ほどなくして女学校時代の親友、タチアナの逢引をのぞくようになる。タチアナとは、婚約者の裏切りのダンスを、ロルが心を失いながらじっと見守っていたとき、ずっとロルの隣にいた人物だ。タチアナはいま、不倫の恋におぼれている。
ロルは偶然出会ったタチアナの跡をつけ、彼女が愛人と逢引の場所にしているホテルにたどり着き、二人をのぞき見はじめる。ライ麦畑に腰をおろし、遠くに見える二人の部屋の窓を眺める。ときおりタチアナや愛人の男性が、裸で窓辺に立ったり、タチアナの髪を愛撫しているのが見えたりする。その数時間を、ずっとライ麦畑に座って見つめ、ときおりそのまま眠ってしまったりする。ロルの横でライ麦が風で揺れ、夕日が黄金色にかがやきだす。おかしな行動であることには違いないのだが、なぜかロルの姿は無邪気で、どんな欲望にも絡めとられない無垢な透明さがある。読者は、ロルが病から明けたのかどうか、わからなくなる。
やがてタチアナの愛人は、そんなロルを愛するようになる。愛人はタチアナといるホテルの部屋から、ライ麦畑に腰をおろしているロルの影を感じ、覗かれていることを意識しながらタチアナを愛し、真実彼はライ麦畑のロルを、遠く、不在のロルを愛しながら、タチアナを愛する。
そうすることで、タチアナも含めてこの三人は、いつまたロルが発狂するのか、いつまたロルの精神が崖から転がり落ちるのか、発狂の予見全体を生きている。ロルがまた狂気にとらわれるかもしれない、その不安な未来への影、確実に来るであろう、いやもうすでに来ているのかもしれない、病の予感そのものがうごめきだす。
狂うことで生きようとする女たち。それは前作『マザリング』で書いた、精神科病棟にいる女性たちのことでもある。私はかねてよりずっと、「狂気の女」に魅了されている。
いま私の母の手首にはばんそうこうが貼られている。それは一緒に旅行に出た先のホテルで、カミソリを持ち出して切ろうとしたからであり、私は見ておらず、外に出たときにやったらしく、そもそもホテルのカミソリでは深く切れないだろうから、嘘かもしれない。ばんそこうの下を、私は決して見ようとしないし、その話題にも触れない。
祖父母と両親とともに、毎年夏に行っていた海辺のホテルがある。ロビーには大きな皮のソファがいくつも並んでおり、すべて海辺の窓に面していた。さんさんと陽が注ぐサンルームからは、相模湾がかげろうのように、なぜかぽっかり浮かんでいるように見えた。S・タラは、あのホテルの海辺を思い出させる。
結局私は、こうして過去にさかのぼり、まだ思い出したこともない一場面を、記憶のなかからひろって生きていくのだろうか。いつ精神が崩壊するのか、いつその飽和が解かれるのか、誰も知らないし、わからない。そのわからなさを、ただ待つように。