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「日記本についてと、去年文フリで売った小説について」(日記:石川ナヲ、返事:柴沼千晴)

表現の間で揺れ動く思考を私も大切にしたいなと思いました

“まず日記をつけるリズムをつくること。そして個人的な日記を共有してみること”。そんなひそやかな試みを形にするべく、「日記をつける三ヶ月」というワークショップを「日記屋 月日」とme and youが開催しました(2022年9〜11月の全5回にわたり実施)。me and you little magazineでは、最終回でおこなった「ある人の日記を読み、別の誰かがお手紙を寄せる」という企画に参加いただいた方々の「日記文通」をお届けします。

日記をつけることは個人的な行為であるにもかかわらず、誰かの日記を読んでみると、他者であるはずのその人の感情や思考と、自分のそれが交差する驚きが生まれることもあります。わかりやすさを重視してならされた言葉ではないからこそ、そのときを生きる人たちの営みや世界のありようをより一層くっきりと映し出すこともあるかもしれません。今回は、ワークショップ参加者である石川ナヲさんの日記に、柴沼千晴さんがお返事を書いた日記文通をご紹介します。

※今回の「日記文通」は、me and youが隔週金曜日にお届けしているニュースレター「message in a bottle」(登録はこちらから)内で実施している企画をもとにしています。
※この記事は、「日記屋 月日」とme and youの「日記をつける三ヶ月」のワークショップで書かれた日記とお返事をほぼ原文ママで掲載したものとなります。

2022年9月11日(日)の日記/石川ナヲ

日記について考えてみた。
夫(という呼称自体に実は慣れてない)が、早朝から風呂に入ってるからか、その音で目が覚めたっぽい。それから寝床の中でいろいろ考える。日記本についてと、去年文フリで売った小説について。小説本は作り過ぎて、まだ冊子があるけど日記本が出来上がってくると、それと並べて売るにせよ配布にせよなんか抵抗がある。それは日記はいろいろやっぱりありのままに書いているところと配慮しているところがあり、小説の方は逆に結構赤裸々なところがあるからではないか、赤裸々なところをレトリックで埋めたという感じで、じゃあ、そこが小説としてどうもダメな点だったのではと気づく。
昔は、日記を、人に見せたり発表するあてもないから書かずにいた。食べたものや支払いのメモしか書けなくて振り返って何かが得られたなあと思うこともなかった。ただのメモだった。
日記は、わたしの場合、一人ではなかなか続かない。小説も人に見せる場(カルチャーセンター)があったから続いた。

昔書いた小説を読み返すと当時のことがよくわかって、なるほど、などと思えるようになった。でもそれはものすごく個人的なもので、だから小説としての出来がどうかと考えると、あまり好きな言葉ではないけど独りよがりな感じを与えてしまったのかもしれない。そうならないように一生懸命書いていたつもりだったけど……。
日記を売る、買う人がいる、というのが不思議だ、と思うけど、自分も買っている。それも文豪とかではなく市井の人の日記。植本一子さんの日記が好きだけど実は「かなわない」よりも、リトルプレスの方が持ちやすいということや、最近のものを読みたいというのもあり、そちらの方ばかり読んでいる。日記とリトルプレスは相性がいいのかもしれない。
me and youさんの活動を知って、性について思うことを書きながらも、消したのも、なんか本当に難しいテーマで一筋縄ではいかない気がしたからだ。
日記では、一緒に住んでる以上家族について完全に無視して書くのはなんだか不自然だし難しいと思う。その家族のことを考えると性や恋愛の話って書きづらい。小説のテーマとしてはそれも含めて書いてきたけど、中途半端でどちらにせよ、ちゃんと書けてないんだろう。日記といえば「食事」「料理」について書くと読み手としてウケがいいのは献立の参考にするからかもしれない、が、わたしの食事は参考にならないし、性と同じくらい書くのが難しい。

欧米のファミリー内にいるカップルは本当にずーっと性愛で繋がっているのだろうか、中国や韓国、台湾などはどうなんだろう、性についてあえて書くことはしなくて、話題にするのも個人的には難しくて、人に話す/話さないは別として、性があれば良いというわけでもなく、振り返れば、あれはただのアディクションだったのではとか、自己肯定感を得るためだったのではとか、人と繋がるための手段だったのかなとか、なんにせよ日記とはあまり相性よくない。でも小説はしばしば性がテーマになる。小説だからか、避妊については語られなかったり、あるいは突然妊娠してしまったりと、なんかそういう「性」がアイテムとして使われ(てしまっ)たり……。
性愛だけに限らず恋愛は、人の心を危うくさせたり、揺さぶるものだから、文学のテーマになりやすいし、描きたくなるし、書いてきたけど、本当はめちゃくちゃ個人的なことで、日記にすら書きづらいというか、自分のための日記なら書けると思うけど、どちらかというと、それ以外の日常を描きたくなる。と言っても、自分は何を食べたとか書くのも苦手で、それも省いていることが多い。日記本の人気のひとつは料理や食べ物についてだろうと想像はつく。自分のは大して参考にならないだろうとか、朝から餃子焼いて食べちゃったとか、いろいろ書くと、端的にいうと体型と結びつけられるから、それで出来ずにいる。ダイエット日記に徹しちゃえばいいんだろうけど、ダイエットというより一生続けないといけないことだから、一時的に食べるものを減らしても、リバウンドがあるし、そう簡単にはいかなそう。

家族をチームと書いてる方がいてわたしはその呼び名が好きで自分も使いたいと思う/と言って会社とかで、うちの家族が、の代わりに、うちのチームが〜と言ったら、みんな「??」と思うだろう。夫のことも「主人が〜」と話す方が社交辞令というか「御社/弊社」みたいなもんで、使っとけば便利というのもあるけど、一方で、人を傷つけたり、何でそんな古臭い言葉使うんだろうと思われたりもするだろう。「主人」という言葉なんて、人によっては実は便利に使ってて、一番わかりやすい例は、勧誘電話を断る時とかに使える。主人がダメと言ってます、などと。でもまあそれも嘘は方便といいつつ、もう時代遅れかなあ。考え始めるとめちゃくちゃ脱線してしまった。

me and youさんのサイト、スマホから見たら見やすいことがわかった。8月15日の日記を募集していたことを知る。自分の日記を読み返すとこの日、終戦記念日について書いたりは、してなかった。この日思ったかはわからないけど、終戦から(敗戦と書くべきか)77年と言われてもうそんなになってしまったのか、もっと語り継がれなくてはいけないことがたくさんあるけど最近は語られてるのかとか昔は「はだしのゲン」はみんななんらかの形で読んでたけど今は読まれてるのかとかそういうことが気になった。

追記。
ワークショップ、大変よかった。わたしから見ると、大変失礼な認識で申し訳ないけど、最初みんなキラキラした若い人の固まり感があった。でも一人一人ちゃんと人生があって、宗教っぽい表現に聞こえたらあれなんですけど(そもそも宗教が悪いことの象徴みたいに書くの、変かも……)、ご縁があってここにいるんだという気持と、ここに加われたことに改めてよかったと思った。
自己紹介のとき、「日記が好きな人、日記が気になる人は『人が好きな人』で、ここではみんながこうやってちゃんと話す人のことを向いてくれる」という話を聞いて、なんか急に泣きそうになった。
帰りに吉本ばななさんのおすすめする下北沢の台湾弁当屋さんでイートインすることができた。昨日小説「N ・P」について調べてるうちに発見した。明日下北沢だし、お昼に行ってみようと思った。そしてその通りにした。席数が少ないけど中で食べることができた。ちょっと量は多い。残せない性質なので、なんとか食べきった。(じゃあビールなんて頼まなくていいのに、というツッコミは無しで……)
 
かなり多いけどおいしい。スープもおいしかった。
(11/30、あらためて見るといまはこんなに食べられないと思った。たった三ヶ月前のことなのに!?)

みんな若いのに、しっかりしてて、えらいなあとおもいながら帰路に着く。若いからしっかりしてるのかも。今の時代、若者時代から、しっかりしてないといろいろ大変なのかもしれない。マルチな才能を求められがちだし。途中、渋谷で岡本太郎の絵画をしみじみ観た。でも半分は撮影して満足した感もある。

帰りに空いた電車の中でがっつり寝られた。図書館に予約した本を取りに行った。
自然自然と思いながら歩いていたからか図書館の横にある公園の樹々が台湾っぽいなあと思う。
「自然」を求めてたくさん写真を撮る。しかし花や草の名前がわからないものが多い。カタバミも日記を通して参加者の方から教えてもらった。市の管理する樹にはプレートがついてそうなのに付いてない。帰宅して夫にワークショップの話や図書館の周囲の自然について書きたいけど名前がわからない話などを喋る。
夫が、図書館の前に、一個、大賀ハスと名前がついていると言う。わたしもそれに気づいていて写真を撮っていた。もっともかなりしょぼい感じの「大賀ハス」でどれがそれなのかわからない。夫もあまりのしょぼさに写真を撮ったと言う。おー、同じものを違う時間に撮影しているとは! と思ってちょっと感激した。それで双方の撮った写真を並べてみる。ちなみに夫が図書館に行く理由は、単にわたしに頼まれて、自動車で本を取りに行ってくれているだけである……。あまりに暑いときは図書館に行く元気もなくて頼んでしまった。これからは涼しくなるのだから自分で歩こう……。
「大賀ハス」は千葉市の花で、天然記念物らしいのに無造作に置いてあって持ち去られないのか心配である。老夫婦(たぶん)が鉢を観て「おゆみ池のとは違うのか」といった話をしながら去って行った。ツイッターを観ていたら金川晋吾さんの「月報」があった。
同じようなgoogleドキュメントに書かれている。写真と文章がどれもすごい良い。

NHKで”染紅”変貌する香港を観た。取材に応じている人が捕まらないのか心配しながら観た。
たった2、3年でこうも変わってしまうとは。観はじめたのは中国語が聴きたいのと今の香港が観たくて観た。香港は長年行っていない。「恋する惑星(重慶森林)」が大好きで、(返還前に)親との家族旅行で行ったとき香港の街をひとりで歩いたことを思い出す。ひとりで映画館に入り、中国語もわからないのに、観て笑った。中国語を勉強し始めたのは4年前くらいで、ゆっくり勉強してHSK3級くらいで止まっている。中国語のリズムが好きだ。ただ広東語は全然わからない……。中国本土にはじめて足を踏み入れようとしたときにCOVID-19が猛威を振るいだしてその旅行はかなわなかった。昔のように安くで行けるようになる日が来るのならいいけどもう難しいのかもしれない。中国語の勉強にもお金と時間がかかる。いまは創作方面にシフトした(もどってきた)。4年前は台湾にはまって、創作よりそちらのほうが楽しかった。香港の番組を観て思うことがいろいろあるけどうまく言葉にできない。自由や民主がなくても生きていけるとか経済の恩恵が大事とかそういう感じに香港がなっていて人々の気持ちを表現するすべがなくなっているように見えた。それでもまだ自由はあると話してはいたけど、そうなのだろうか。たくさんの逮捕されたひとはどうなったのだろうか。番組を観ながらも中国や香港らしい背景やディテール、部屋のインテリアに目が行く。中国(香港や台湾含めて)の現在の生活文化にどうしてかわからないけど強烈に惹かれる自分がいる。2年くらい前に期待を込めてパスポートを更新したのにまだ使えそうもない。(この日記に)写真をはれるので、それにしばらくハマったけど本にする時の画素数について考えると難しいなあと思う。写真に頼りすぎないように気を付ける……。

お返事/柴沼千晴

石川ナヲさんへ
日記でなくてはならないもの、小説でなくてはならないもの、どちらも書くのは自分に他ならないけれど、表現の間で揺れ動く思考を私も大切にしたいなと思いました。
性愛や家族(と日記)について、書かれていたことと近いかもしれない感覚が私にもあり、でもその書けなさを書くということも日記のひとつなのかな、と今は思ったりします。台湾や香港のお話もいつか聞いてみたいです。ここにいるのにここではない場所にも行けそうな石川さんの思考の足跡に導かれて、一筋縄ではいかないことを書いたり話したりしたい、と感じたワークショップの空気を思い出しました。「日記を好きな人は話す人のことを向いてくれる」話、私が忘れてしまっていたことを、覚えてくれていてありがとうございます。

石川ナヲ

会社員の傍ら、文学フリマ東京で「フラクタル山羊座ロンド」というサークル名で活動している。昨年より日記屋月日のワークショップ等がきっかけで日記をつけ始めた。第三回日記祭や文学フリマ等で日記本(三冊)を販売する。
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柴沼千晴

日記や文章を書きます。2022年に、日記本のリトルプレス『犬まみれは春の季語』『頬は無花果、たましいは桃』をつくりました。
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第三回日記祭や文学フリマ東京で日記本(三冊)の販売を致します。是非来てください。

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