2022年9月28日(水)の日記/白鳥菜都
母と同じくらいの年齢のおじさんたちが、ものすごく面白い仕事の話を聞かせてくれる。自分の会社の社長も、取引先の社長も、取材相手の職人も、よくわからないコミュニティで出会った20歳以上離れた友人も。その度に、「ああ、私は将来はかっこいい“おじさん”になりたい」と思う。大人の男性に「なりたい」という意味で憧れる気持ちは、どこかで終わるタイミングが来るのだろうかと思っていた。違った。会社に勤め始めてからその気持ちは増すばかりだった。
どこまで行っても憧れる先が“おばさん”ではなくて“おじさん”なのが、不思議でもあり、悔しくもある。今のところ私は“おばさん”になる予定なので、悔しいのだ。自分の40代、50代がイマイチ見えない。
ものすごく面白い“おじさん”たちは、(今のところ)優しい人たちだし、自分の特権性に気づいているし、その上で20も30も歳下の私に何かしら力を貸してくれようとする。私もそっちに行きたいのだけど、行けるのだろうか……。年齢と自分の努力だけでは乗り越えられない壁があるように感じてしまう。
今日も取材した“おじさん”がものすごく面白くてかっこよくて、悔しかった。