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創作・論考

『キャンディマン』の都市空間;「いつ誰に攻撃されるかわからない」不安をどこで誰が抱いてきたか?

連載:語る言葉のない声を響かせる/鈴木みのり

ジェンダーやセクシュアリティの視点、フェミニズム、クィア理論への関心から、小説、映画、芸術などについて執筆を行う作家の鈴木みのりさんの連載「語る言葉のない声を響かせる」。この世界のさまざまな構造の歪みや、偏りによって、なかったことにされてきた声なき声を、物語や日常の風景のなかから掬い、響かせる言葉の記録です。

ハイチ出身のラウル・ペックが監督した映画『私はあなたのニグロではない』の中で、ジェームズ・ボールドウィンが1948年にフランス・パリに移住したのは、いつ誰に攻撃されるかわからないような危険な状況では執筆に集中なんてできないからだ、という主旨のことが語られていた。歴史上のアメリカの人種主義によるブラックの人々への差別と暴力に関する映像や写真に、すでに亡くなったボールドウィンの未完成原稿 “Remember This House” と1970年代のメモや手紙から抜粋された語りが、サミュエル・L・ジャクソンの声によって重なる。その語りは、ジェンダーのありよう(gender modality)において持つマイノリティ性から、もう20年以上「いつ誰に攻撃されるかわからない」と思ってきて、ここ5年はさらにその不安が高まってきたわたしにとって、いくらか想像のつくものだと感じる。異性愛規範と白人中心主義が支配的な社会構造の中から、同性愛と民族・国家的マイノリティをめぐる表象、批評的まなざし、物語をいかに紡ぐかという、ボールドウィンの小説家としての実践に強い関心を抱いてきたこともあって、自分の書く手が止まるのもしかたないんじゃないか、と思えた。

『私はあなたのニグロではない』(監督:ラウル・ペック/2016年)

それで、わたしが思い出したのは、2021年にニア・ダコスタ監督・共同脚本、ジョーダン・ピール制作・共同脚本でリブートされた『キャンディマン』だ。『私はあなたのニグロではない』で使われているイメージのような、現在までアメリカで引き続く、人種主義によるブラックアメリカンの人々への差別の歴史を経由すると、そのB級ホラー的なキャンディマンの造形が暴力の被害者の象徴であるのだとはっきりわかる。

『キャンディマン』(監督:ニア・ダコスタ、2021年)

このリブート作品では、次の作品を期待されている現代の美術家である、若いブラックの男性が中心に据えられている。シカゴに住むビジュアルアーティストのアンソニー・マッコイは、創作に悩んでいて、次作のインスピレーションを求めて公営住宅地がかつてあったカブリーニ・グリーンという場所にリサーチのため訪れる。1992年のオリジナル版では主人公だった白人女性の大学院生ヘレン・ライルが、ブラックの人々が多く住む公営住宅地にまつわる都市伝説を調査していた場所だ。シカゴの都市計画の一環として、低所得者層の労働者が住む場所として築かれたこのエリアは、人種主義的な隔離政策だと批判されてもいて、現実に存在する。ジェントリフィケーションが進む以前には治安が悪い、汚いなどと白人中心的な主流社会からは敬遠されていた一方、ブラックアメリカンに対する蔑視や差別、腐敗した政治、警察からの暴力から自衛されるためのコミュニティだった。関心を向けられずにいたのに、再開発で高級化したその土地にマッコイが立つとき、静かで穏やかに見える。
 
 
アメリカの歴史において奴隷制の時代から、伝統的に、ブラックの男性に対して恐怖のイメージが執拗に植えつけられ続けてきた。映画史でも評価の高い『國民の創生』(D・W・グリフィス監督)のようなプロパガンダ映画などのメディアを通して再生産されたそういったイメージは、「危険な存在なのだから(攻撃してもいい)」という考えに結びつく。ブラックの男性を暴力的と見なす意識は、エイヴァ・デュヴァーネイが制作・脚本・監督したドラマ『ボクらを見る目』で、肌の色や民族・国家的ルーツとジェンダーという点から「白人女性への性加害者に違いない」という偏見によって冤罪にあった「セントラル・パーク5」を描かなければならないほど、現在にも根深く残っている。このドラマは、1989年にニューヨークのセントラル・パークで起きた、ジョギングしていた白人の女性が受けたひどい性暴力被害について、思い込みや決めつけによる警察のずさんな対応・捜査の結果、10代のブラックやブラウン(アフリカ系やラテン系)の男性5人が不当にも有罪判決にあった事実をもとにしている。冤罪が晴らされるまでのあいだに、10数年の刑期を経た者もいた。『ボクらを見る目』でデュヴァーネイが、終盤にブラックコミュニティにおけるシスジェンダー男性とトランスジェンンダー女性への暴力や差別意識を、ありえた物語として加えた脚色からも、このような視点がうかがえる。

こうした偏見や差別意識の延長線上には、同じくグリフィスが監督した『ベッスリアの女王』で、“男性が女性のものとされる装いをする”ことを通して性別移行をネガティヴなイメージをほのめかし、人種主義と、トランスジェンダー、特にトランス女性への嫌悪感情が重なり、差別意識を煽るイデオロギーがあるのではと、『トランスジェンダーとハリウッド 過去、現在、そして』(サム・フェダー監督)の中でも指摘がされている。

オバマ政権下の2016年に、教育における性差別を禁じる教育修正法によって、トランスジェンダーである学生が、自身のジェンダー・アイデンティティに基づく名前を使うことや、ジェンダー化されたロッカールームやトイレも利用できるようにと配慮を求められることになったが、トランプ政権に変わった後その方針が撤回されてしまった。また、オバマケアで対応されるはずだった、トランスの人々への医療による心身の健康のためのケアからも外され、軍務からも(その存在の問題は別個として議論されて当然だが)トランスの人々が除外されることになった。こうしたトランプ政権の政策は、キリスト教保守的なパターナリズムや極右思想を持つ人々に影響を及ぼし、トランスの人々の人権や生活を守るイシューが政争の具とされてきた。トランスの人々の生活実態を無視して、「女性空間に侵入する犯罪者予備軍」と見なす傾向は、ここ数年SNSを通じて、日本にも翻訳されて流入していると考えられる。トランプは、セントラル・パーク5が(不当にも)容疑者とされている段階の当時、複数の新聞に死刑や厳罰を煽る広告を掲載した。「女こどもを守るため」という大義名分で行われる、警察権力の強化や厳罰化が、非白人、特にブラックの男性を犯罪者予備軍と見なす偏見や差別意識が広まっている社会や、安価な労働力を生み出す工場化した刑務所の実態と結びつき、現代の奴隷制を維持している社会構造の問題(システミック・レイシズム)は、エイヴァ・デュヴァーネイが監督した『13th -憲法修正第13条-』で粘り強く解き明かされている。

『13th -憲法修正第13条-』(監督:エイヴァ・デュヴァーネイ/2016年)

キャンディマンも、ブラックの男性への白人女性加害予備軍と見なす差別意識と、厳罰化によって生まれたのだと、映画は示唆する。キャンディマンの都市伝説をリサーチし始めたアンソニー・マッコイは、カブリーニ・グリーンで出会ったコインランドリーのオーナー、ウィリアム・バークから「キャンディマンはハチの巣だ」と聞く。そしてバークは続ける。

“サミュエル・エヴァンズ。50年代の白人住宅暴動(1951年のイリノイ州の地域シセロでの人種暴動)で破壊された。ウィリアム・ベル。20年代にリンチされた。しかし、すべてが始まった最初のものは、1890年代のことだった。ヘレン(1992年版『キャンディマン』の主人公ヘレン・ライル)が見つけた物語で、ダニエル・ロビタイルの話だ。彼は裕福な家庭のために肖像画を描いて生計を立てていた。ほとんどが白人で、彼らは彼を愛していた。でも、どうなるかわかるだろう? 愛されたのは絵で、我々じゃない。ある日、彼は、シカゴの家畜市場で財を成した工場主の娘を描くよう依頼された。ロビタイルは当時の究極の罪を犯した。彼らは恋に落ちた。二人は恋に落ち、彼女は妊娠した。少女は父親に話し……そして……わかるだろう? 彼はロビタイルを追うために人を雇った。真昼間に彼をこのエリア(カブリーニ・グリーン)にまで追い詰めた。彼が疲れ果てて倒れたチェスナットの古い塔のあった場所のすぐそばで……。彼らはロビタイルを殴った。拷問した。腕を切り落とし、そこに肉吊りフックを刺した。近くのハチの巣を胸に塗りつけて、蜂に刺させた。そのショーを見るために群衆ができはじめた。大フィナーレだ。最後は火をつけて死んでしまう。しかし、あのような物語、あのような痛みは……永遠に続く。それがキャンディマン。ベルは本物だ。サミュエル、シャーマン、ダニエル・ロビタイル、みんな本物だ。キャンディマンは事実による象徴だ”

わたしがこのとき想起したのはエメット・ティルの死後の顔だ。1955年、シカゴからミシシッピー州の親類を訪ねていた14歳のティルは、白人女性に口笛を吹いたとその夫から因縁をつけられ、後日、大人の白人男性らに片目をえぐり出され、銃で頭を撃ち抜かれ、有刺鉄線で首に重しを縛りつけられて川に捨てられた。残忍な目にあった遺体の写真は、『13th -憲法修正第13条-』に映されていた。

キャンディマンの伝説に引き込まれたアンソニー・マッコイが描くブラックの男性の図像は、まさにティルのように、そして苛烈な暴力にあってきた名もない人々の歴史に連なるものだ。

バーグがキャンディマンは象徴だと話すコインランドリーのシーンのあいだに、映画は、マッコイのアトリエのシーンを挿入し、ポートレート群を映し出す。その絵を見ているのは、マッコイのパートナーで、ブラックの女性のブリアナ・カートライトだ。「見るものに解釈の余地がない。暴力の象徴を描写しただけ」と恋人に評されたマッコイは、「作品とのつながりを初めて感じる」と言う。
 
 
カートライトがキュレーターを務める現代美術のギャラリーでの、グループ展に出展されたキャンディマンの伝説をモチーフにしたマッコイの新作は、ミラーキャビネットのようになっており、そこを開くとブラックの男性たちのポートレートが飾られている。マッコイは、ギャラリーで作品を見た者からも「月並みな絵画」「駄作」「拾い物」「リサイクル品」、とまで言われてしまう。これは、まっすぐに現実を直視するような役割を芸術やエンタテインメントが担うべきか? しかし、差別という現実を無視した創作に、エモーショナルな歓喜や、これまで特定の人々を支配的な位置に置く規範的な美学を問い直すような力を備えられるのか? 社会に働きかける力や意図のないものに価値を置いて良いのか? といった問いに通じるエピソードだと思う。少なくともわたしは、そのような葛藤すら抱かない作家にも、芸術家にも、批評家にも信頼を置けない、と思った。マッコイは、アーティストとして、こうした葛藤に引き裂かれているのかもしれない。

ブリアナ・カートライトは、知り合ったばかりのシカゴ現代美術館のキュレーター、ダニエル・ハリントンから、その企画展について褒められる。「形のないもの」を取り入れるのは勇気がいることだと。しかし、カートライトは「ずっと、抽象主義の作品は感情を示すとされてきたけど、わたしは身体の造形(人物像)に焦点を当てたかった」と返す。マッコイが描いたブラックの男性のポートレートに対して「解釈の余地がない」と言ったカートライトがそう述べるとき、シカゴ現代美術館で行われていたのは、ブラックのファッションディレクターで美術作品も発表していたヴァージル・アブローの“Figures of Speech” (言葉の姿)だった。カートライトとハリントンが話す奥にはアブローの作品があり、「YOU’RE OBVIOUSLY IN THE WRONG PLACE」(あなたは明らかにまちがった場所にいる)という黄色いネオンの、「SLY」と「PL」の文字がジリジリと不安定に点灯していた。カブリーニ・グリーンだけでなく、世界中のさまざまな場所で、特定の属性・立場・状態である人たちが「ここにいてはいけない」と言われ続けてきた/いるという映画のテーマと、アブローの作品とが響き合って見える。また、カートライトとハリントンの存在は、女性が決定権を握るような立場に——ここでは展示を主導していくキュレーターに——なること、職業など選択肢を得るために学ぶことを女性やブラックの人々が、その両方である人々が遮られてきた歴史をも想起させられる。

アンソニー・マッコイが、ウィリアム・バークによってキャンディマンに仕立て上げられていくというのが、この映画の物語構造だ。アーティストという、みずからの優れた技能や既存の価値基準に適う美学的なセンスによって、資本を獲得し、生活をし、(今のところは)持続的に作家活動をできる立場のマッコイと、カブリーニ・グリーン出身でコインランドリーを営み、決して裕福ではなさそうなバーク。この対比は、単に「黒人」のあいだ/中にある階層を示すだけでなく、同じように差別に抗う立場であるはずの人々を、経済性という軸によって分断してきたという示唆ではないかとも思う。構造的な不均衡の解消とは、被差別属性を持つ一部の人々が経済的に豊かになったり、メディアで焦点を当てられたりすればいい、というだけの話ではない。資本や能力があり、比較的安定した人・安全に生活ができる人に権力や利益が流れ込みやすいということに相当気を配らなければ、マイノリティとして被害者になったり反差別側になる人々の中で、権力の道具(知識、言説、表現能力など)を持つ知識人や文化人といった人々にばかり焦点が当たり、さらなるマイノリティの人々の不可視がたやすく生み出される。

マッコイは、若くてお金のないアーティストが家賃の安い地域に移住すると、次に再開発の対象になり、高級化していくという矛盾を、白人女性の批評家フィンリー・スティーブンスから突かれる。一般的に都市では、偏ったジェンダー規範から解放されやすかったり、芸術や文化が豊かだったり、就学や就労の幅が広がったりするという点で、女性はもちろん、さまざまなマイノリティの人々にとって選択肢が増えて居場所を作りやすくなるという面がある。ただ、ベビーカーや車椅子では乗りにくい電車などのインフラ面の課題や、再開発などで高騰化した区画から貧困層が追いやられたり、それが女性はじめマイノリティだと治安の悪い場所に住まざるを得なくなったりもし、一面では語りにくいところもある。マッコイは、スティーブンスとはジェンダーの面では男性という特権層だとまとめてしまいそうになるが、伝統的には白人女性を脅かす存在と見なされてきたブラックの男性という立場であるし、また、経済性の面からは、バークのような人々を追いやってしまう面もある。そう考えていくと、マッコイとスティーブンスの会話が、非常に複層的だと感じられる。

このように『キャンディマン』からは、ささやかなやりとりであっても、現代的な複雑さの課題を示そうという試みがうかがえる。人間の反射的な感情を喚起する文化芸術・エンタテインメントの領域においてマイノリティについて表現すれば、自動的に「差別構造の改善に取り組んでいる」と解釈され、安易な納得を与えかねない危うさに抗うために。監督・共同脚本のニア・ダコスタと制作・共同脚本のジョーダン・ピールは、キャンディマンの都市伝説をよみがえらせる際に、ホラーというエンタテインメントのフォーマットと通じて、単純化できない現実の複層性やまだらな様子を描き出そうとしている、とわたしには感じられた。
 
 
2023年の2月にわたしは、京都での用事の前の昼間に、ウトロ地区にできたウトロ平和祈念館を訪れた。日本の植民地主義による朝鮮半島の人々への影響や、在日コリアンの人々が住んできたという地域や国の歴史を学びもせず、考慮もしない、偏見や嫌悪感情による放火事件があったのは2021年のことだった。放火された住宅の痛ましい痕跡は、祈念館から少し離れた場所にまだあったが、この春には住宅整備のために取り壊されるという。
『キャンディマン』のアンソニー・マッコイが、シカゴのダウンタウン、ゴールドコーストにあったカブリーニ・グリーンの公営住宅地があった広大できれいな土地に立っているように、わたしの立つ場所と、その地の歴史がなかなか一致せず、うまく焦点を結ばない。祈念館の展示から、在日コリアンの人々の中の世代差、地域差、ジェンダーによる立場や生き方の差なども想像する。日本の帝国主義による植民地政策の影響で、この地に労働力として扱われるように住み着いた、事実上そこに行かざるを得ない状況に追い込んだ在日コリアンの人々の汗、涙、血、炭火を使った焼肉、キムチを漬けるときのニンニクの匂いなどの食事といった文化と生活の、日々の積み重ねの上に、自分が今そこに立っていることがどういうことなのか、掴めなかった。

再開発で消えた建物とその上に建てられた祈念館の資料にふれ、地図の変遷を見て、屋上にまで登り、地域を眺めることで、やっとその地の歴史が洗い流されてしまいかねなかったのだという危うさに気づく。その日は暖かく、光も穏やかで、美しい日だった。

鈴木みのり

1982年高知県生まれ。ジェンダーやセクシュアリティの視点、フェミニズム、クィア理論への関心から小説、映画、芸術などについて“i-D Japan” “キネマ旬報” “現代思想” “新潮” “すばる”などで執筆。2018 年、範宙遊泳“#禁じられたた遊び”に出演。近刊に“‘テレビは見ない’というけれど” (共著/青弓社)、和田彩花と特集の編集を担当したフェミニズムマガジン“エトセトラ Vol.8 (特集‘アイドル、労働、リップ’)”。“早稲田文学増刊号「家族」” (筑摩書房)に短編小説を寄稿。

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『エトセトラ VOL.8 特集:アイドル、労働、リップ 鈴木みのり・和田彩花 特集編集』

発行:エトセトラブックス
価格:1,300円(税別)
発売:2022年11月30日(水)

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