わたしがこのとき想起したのはエメット・ティルの死後の顔だ。1955年、シカゴからミシシッピー州の親類を訪ねていた14歳のティルは、白人女性に口笛を吹いたとその夫から因縁をつけられ、後日、大人の白人男性らに片目をえぐり出され、銃で頭を撃ち抜かれ、有刺鉄線で首に重しを縛りつけられて川に捨てられた。残忍な目にあった遺体の写真は、『13th -憲法修正第13条-』に映されていた。
キャンディマンの伝説に引き込まれたアンソニー・マッコイが描くブラックの男性の図像は、まさにティルのように、そして苛烈な暴力にあってきた名もない人々の歴史に連なるものだ。
バーグがキャンディマンは象徴だと話すコインランドリーのシーンのあいだに、映画は、マッコイのアトリエのシーンを挿入し、ポートレート群を映し出す。その絵を見ているのは、マッコイのパートナーで、ブラックの女性のブリアナ・カートライトだ。「見るものに解釈の余地がない。暴力の象徴を描写しただけ」と恋人に評されたマッコイは、「作品とのつながりを初めて感じる」と言う。
カートライトがキュレーターを務める現代美術のギャラリーでの、グループ展に出展されたキャンディマンの伝説をモチーフにしたマッコイの新作は、ミラーキャビネットのようになっており、そこを開くとブラックの男性たちのポートレートが飾られている。マッコイは、ギャラリーで作品を見た者からも「月並みな絵画」「駄作」「拾い物」「リサイクル品」、とまで言われてしまう。これは、まっすぐに現実を直視するような役割を芸術やエンタテインメントが担うべきか? しかし、差別という現実を無視した創作に、エモーショナルな歓喜や、これまで特定の人々を支配的な位置に置く規範的な美学を問い直すような力を備えられるのか? 社会に働きかける力や意図のないものに価値を置いて良いのか? といった問いに通じるエピソードだと思う。少なくともわたしは、そのような葛藤すら抱かない作家にも、芸術家にも、批評家にも信頼を置けない、と思った。マッコイは、アーティストとして、こうした葛藤に引き裂かれているのかもしれない。
ブリアナ・カートライトは、知り合ったばかりのシカゴ現代美術館のキュレーター、ダニエル・ハリントンから、その企画展について褒められる。「形のないもの」を取り入れるのは勇気がいることだと。しかし、カートライトは「ずっと、抽象主義の作品は感情を示すとされてきたけど、わたしは身体の造形(人物像)に焦点を当てたかった」と返す。マッコイが描いたブラックの男性のポートレートに対して「解釈の余地がない」と言ったカートライトがそう述べるとき、シカゴ現代美術館で行われていたのは、ブラックのファッションディレクターで美術作品も発表していたヴァージル・アブローの“Figures of Speech” (言葉の姿)だった。カートライトとハリントンが話す奥にはアブローの作品があり、「YOU’RE OBVIOUSLY IN THE WRONG PLACE」(あなたは明らかにまちがった場所にいる)という黄色いネオンの、「SLY」と「PL」の文字がジリジリと不安定に点灯していた。カブリーニ・グリーンだけでなく、世界中のさまざまな場所で、特定の属性・立場・状態である人たちが「ここにいてはいけない」と言われ続けてきた/いるという映画のテーマと、アブローの作品とが響き合って見える。また、カートライトとハリントンの存在は、女性が決定権を握るような立場に——ここでは展示を主導していくキュレーターに——なること、職業など選択肢を得るために学ぶことを女性やブラックの人々が、その両方である人々が遮られてきた歴史をも想起させられる。
アンソニー・マッコイが、ウィリアム・バークによってキャンディマンに仕立て上げられていくというのが、この映画の物語構造だ。アーティストという、みずからの優れた技能や既存の価値基準に適う美学的なセンスによって、資本を獲得し、生活をし、(今のところは)持続的に作家活動をできる立場のマッコイと、カブリーニ・グリーン出身でコインランドリーを営み、決して裕福ではなさそうなバーク。この対比は、単に「黒人」のあいだ/中にある階層を示すだけでなく、同じように差別に抗う立場であるはずの人々を、経済性という軸によって分断してきたという示唆ではないかとも思う。構造的な不均衡の解消とは、被差別属性を持つ一部の人々が経済的に豊かになったり、メディアで焦点を当てられたりすればいい、というだけの話ではない。資本や能力があり、比較的安定した人・安全に生活ができる人に権力や利益が流れ込みやすいということに相当気を配らなければ、マイノリティとして被害者になったり反差別側になる人々の中で、権力の道具(知識、言説、表現能力など)を持つ知識人や文化人といった人々にばかり焦点が当たり、さらなるマイノリティの人々の不可視がたやすく生み出される。
マッコイは、若くてお金のないアーティストが家賃の安い地域に移住すると、次に再開発の対象になり、高級化していくという矛盾を、白人女性の批評家フィンリー・スティーブンスから突かれる。一般的に都市では、偏ったジェンダー規範から解放されやすかったり、芸術や文化が豊かだったり、就学や就労の幅が広がったりするという点で、女性はもちろん、さまざまなマイノリティの人々にとって選択肢が増えて居場所を作りやすくなるという面がある。ただ、ベビーカーや車椅子では乗りにくい電車などのインフラ面の課題や、再開発などで高騰化した区画から貧困層が追いやられたり、それが女性はじめマイノリティだと治安の悪い場所に住まざるを得なくなったりもし、一面では語りにくいところもある。マッコイは、スティーブンスとはジェンダーの面では男性という特権層だとまとめてしまいそうになるが、伝統的には白人女性を脅かす存在と見なされてきたブラックの男性という立場であるし、また、経済性の面からは、バークのような人々を追いやってしまう面もある。そう考えていくと、マッコイとスティーブンスの会話が、非常に複層的だと感じられる。
このように『キャンディマン』からは、ささやかなやりとりであっても、現代的な複雑さの課題を示そうという試みがうかがえる。人間の反射的な感情を喚起する文化芸術・エンタテインメントの領域においてマイノリティについて表現すれば、自動的に「差別構造の改善に取り組んでいる」と解釈され、安易な納得を与えかねない危うさに抗うために。監督・共同脚本のニア・ダコスタと制作・共同脚本のジョーダン・ピールは、キャンディマンの都市伝説をよみがえらせる際に、ホラーというエンタテインメントのフォーマットと通じて、単純化できない現実の複層性やまだらな様子を描き出そうとしている、とわたしには感じられた。
2023年の2月にわたしは、京都での用事の前の昼間に、ウトロ地区にできたウトロ平和祈念館を訪れた。日本の植民地主義による朝鮮半島の人々への影響や、在日コリアンの人々が住んできたという地域や国の歴史を学びもせず、考慮もしない、偏見や嫌悪感情による放火事件があったのは2021年のことだった。放火された住宅の痛ましい痕跡は、祈念館から少し離れた場所にまだあったが、この春には住宅整備のために取り壊されるという。
『キャンディマン』のアンソニー・マッコイが、シカゴのダウンタウン、ゴールドコーストにあったカブリーニ・グリーンの公営住宅地があった広大できれいな土地に立っているように、わたしの立つ場所と、その地の歴史がなかなか一致せず、うまく焦点を結ばない。祈念館の展示から、在日コリアンの人々の中の世代差、地域差、ジェンダーによる立場や生き方の差なども想像する。日本の帝国主義による植民地政策の影響で、この地に労働力として扱われるように住み着いた、事実上そこに行かざるを得ない状況に追い込んだ在日コリアンの人々の汗、涙、血、炭火を使った焼肉、キムチを漬けるときのニンニクの匂いなどの食事といった文化と生活の、日々の積み重ねの上に、自分が今そこに立っていることがどういうことなのか、掴めなかった。
再開発で消えた建物とその上に建てられた祈念館の資料にふれ、地図の変遷を見て、屋上にまで登り、地域を眺めることで、やっとその地の歴史が洗い流されてしまいかねなかったのだという危うさに気づく。その日は暖かく、光も穏やかで、美しい日だった。