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創作・論考

Miu Miu「女性たちの物語」21『Shangri-La』;欲望と祝福のブルックリン

連載:語る言葉のない声を響かせる/鈴木みのり

ジェンダーやセクシュアリティの視点、フェミニズム、クィア理論への関心から、小説、映画、芸術などについて執筆を行う作家の鈴木みのりさんの連載「語る言葉のない声を響かせる」。この世界のさまざまな構造の歪みや、偏りによって、なかったことにされてきた声なき声を、物語や日常の風景のなかから掬い、響かせる言葉の記録です。

「1850年から1948年のあいだ、カリフォルニア州では異人種間混交禁止法によって、異人種が混合する婚姻が禁じられていた。アメリカがフィリピンを植民地化した後の1900年代初頭に移住してきたフィリピン人を含め、異なる人種とされるグループ間の婚姻は認められなかった」

そう書かれた字幕の後、寝転んだ白人の農夫に半透明の女の姿が重なる。大恐慌時代のカリフォルニア、次のシーンで半袖の赤茶けたワンピースを着たその女の上半身を真正面からカメラが捉え、罪の告白が始まる。日没後も収穫の手伝いをしていたとき、いっしょに働きはじめて一年になる農夫の顔が星明かりに照らされて、衝動が抑えられなくなった、服を脱がせたくなった。そう欲望を吐露する。女は、顔立ちからしてきっと、字幕で示唆されていたフィリピン人の移民だろう。

こうして始まる短編映画『Shangri-La』を、わたしは今年の初夏にブルックリン美術館のホールで観た。ブルックリン美術館では毎月はじめの土曜日の夜にイベントが催され、6月のそのイベントの一環として企画された「センシュアル・シネマ」で、ウォン・カーウァイ監督の『ブエノスアイレス』とこの短編が併映されていた。主人公のフィリピン系の女性を演じるのは監督のイザベル・サンドバル自身。罪の告白であるはずなのに香気が匂い立つように話す女性の、まっすぐ向けられたカメラにやや顔も身体も傾けて話す姿、ときどきアップになる唇、妄想なのか現実に起きたことなのか曖昧な夜の光のなか重ねられる身体の一部のカットの挿入のため、恥の意識が焼きつけられているようで緊張感が通底する。

その禁忌と官能が入り混じるムードから、わたしはカーウァイの2000年の映画『花様年華』を想起していた。すると、上映後のトークが終わってから声をかけたサンドバルから教えてもらった、影響を受けた作品のリストのなかに同作があった。禁忌のムードは近いものの、汗の滲みが香るような『Shangri-La』と比して、『花様年華』の官能は窃視するカメラによって、1962年の香港(実際はほとんどがタイのバンコクで撮影されたという)が主人公たちにとっての監獄のようだ。『花様年華』はほとんど外界の風通しは感じられず、せまい共同住宅や密室のシチュエーションと共に、寄りのカットで緊密な圧迫を感じる。

人を愛したり官能的な感情を抱いたりすること、または特定の属性間での/属性の人へのそういった感情や欲望のみに対する禁忌の念が、異常なもの、低俗なもの、公然と語るべきではないものとして忌避され、ないものとする意識や、そういった意識を醸成する教育。こうしたムードが不問とされ続けることで、わたしたちの内から自動的に罪悪感が生成されるような規範となり続けるのではないだろうか、と考える。

『Shangri-La』のほうが開放感と自信に満ちていると感じられるのはどうしてか。禁じられた関係性について密かに語る女性のいる教会の告解室は、記憶上か空想上かの、アメリカ独立記念日の花火の夜空の下で語り合う、ロマンティックな恋人たちの親密さを祝福する空間へと変容していく。19世紀末のアメリカの農民の服から、現代のMiu Miu製の服(この映画はファッションブランド「Miu Miu」の短編映像企画「女性たちの物語」の21作目として撮られた)へと変わる瞬間の力が、風通しの良さに一役買ってるのかもしれない。

Miu Miu Women’s Tales #21 – Shangri-La

ブルックリン美術館の、ファースト・サタデーのイベントを教えてくれたのは、ニューヨークに移住した友人だった。ブルックリンのクラウンハイツにあるカジュアルなレストランでブランチを食べているときだった。

友人と書いたが、その人はわたしが20代のころ東京で一時期よく行っていた服屋のかつての店員で、SNSでつながっていて、久しぶりに再会したのだった。あのころのわたしは、髪を伸ばしたりばっちり化粧をしたりスカートにヒールを合わせたりするような規範的な女性性をまとえず、かといって男性として扱われたいわけでも男性的な振る舞いをしたいわけでもなく、ただこの身体と、そのいくつかの部位の形状を根拠に向けられる規範の眼差しがとにかく嫌でしかたがなかった。映画づくりと俳優を志していたものの、自分のような非規範的なジェンダーのありようの俳優も脚本家も監督も見当たらず、同性愛といっしょくたにされ、周りにも同じような人もおらず、どう生きていけば良いのかわからなかった。単なる自分探し、自己実現の悩みと認識され続ける経験から生まれる諦観と、誰かに伝わってほしい助けてほしいという期待の起伏に疲れ、どうすればよいのかわからない限界の中で、服は、自分を崇高な存在に高めてくれるような気がした。スーパーモデルのステラ・テナントに憧れて、ニューヨークに移住した友人のいた服屋で買ったジーンズにTシャツ姿でおしゃれを楽しんでいた。今となっては、そういう自分のありようを、性別二元論に収まらない、しかし他人から見たら男/女いずれかに見られてしまうことから逃れられない現実を否定もできなくて、ノンバイナリーとまで言えない、ジェンダークィアと規定できるけれど、当時の日本ではそういう言葉は見たらなかったし、実感の語りさえほとんど通じなかった。

10年近く会ってもおらず、店員と客の間柄だった相手に、わたしはそんなような話をしていたのだと思う。わたしはサラダにキョフテのプレート、友人はマフィン型でケールに包まれた卵のオーブン焼きとスイートポテトフライのプレートを食べながら。そこで、きっと興味があるんじゃないかな、と友人からファースト・サタデーのイベントを勧められたのだった。ブルックリン美術館は、2年前ブラック・ライヴズ・マターの再燃のとき、ブラック・アメリカンのコミュニティの中ですら迫害され、暴力に合いやすいトランスジェンダーの人たちの命/生活の価値を訴えるブラック・トランス・ライヴズ・マターの集会に15,000人もの人が集まった場所で、わたしはブランチの後に行く予定だった。

上映後、トークに登壇したサンドバルの姿を見ているだけで、わたしにも力が湧いてくるようだった。アメリカに渡り、英語と知性を駆使し、この人はジェンダーとエスニシティのマイノリティであっても生き延びられる道を探ってきた/いるのだろう。

『Shangri-La』の後に観た、サンドバルがアメリカで初めて撮った長編映画『Lingua Franca』も同様に、親密な人間関係、人種主義に基づく構造的な不利益、マイノリティなジェンダーを持つ者の肉体を通した生/性の欲望と祝福がテーマだと感じた。強さと官能を身体に投影しているように見える、農民の服装からMiu Miuのワードローブへと姿を変える『Shangri-La』の主人公が、自己を「戦士、王女、女神」と規定するように、脆弱な人々は想像力の力を借りて、自身を正常の枠の外に置こうとする社会の不均衡の、さらに向こうへと自らを飛ばそうと試みるのかもしれない。サンドバルはトランスジェンダーの女性であることを公表している。『Lingua Franca』の主人公オリヴィアもそうだと示され、トランプ政権下で進められた排外的な難民政策の影響を受けているような、偽装結婚でグリーンカードを取得しようとしており、現実的に生き延びる困難がうかがえる。一方、『Shangri-La』では主人公がトランスだとは明言も明示もされていない。しかし、サンドバルの肉体を通して演じられる19世紀のフィリピン系移民の女性からは、複合的なマイノリティ性を持つ存在としても読み取れもし、人種主義による差別にとどまらない、さらなる迫害の恐れ、暴力の予感が想像される。そのような緊張感は直接的には描かれないものの、風通しの良い『Shangri-La』の奥の日常にあるのではと想像すると、主人公が告白する親密さへの希求、官能の悦び、安全な関係性の価値は計り知れないものとして迫ってくる。

ただ、Miu Miuのようなハイブランドはもちろん、ファストファッションも含めた、欧米を中心とするファッション業界が経済的な後進国の特に女性を労働力として搾取してきた社会構造の問題に関心を持ってきたわたしに、わだかまりは残る。福祉的な再分配の課題を視野に入れたフェミニズムの議論と、新しく、輝く、気高い衣服やメイクアップの力で自分の価値が高まるように感じられる自分のことや、『Shangri-La』の主人公が「戦士、王女、女神」と規定される契機となることとを、どう折り合いをつけて捉えたら良いのかわからない。

帰り道、電車を乗り換えるベッドフォード・スタイヴサントのある駅に向かう途中、鏡張りのビルに写った、この春買ったばかりのチュールのワンピースをはためかせている自分を撮った。映画と、少しだけ交わしたサンドバルとの会話に浮かれ、夜更けだけど街灯もあってほの明るいと油断していた。地元の人々が歩道の両側にたむろしている間を抜けなければならない。何か声をかけられていると思ったけれど振り返らず、わたしは口角を上げて敵意がないことを示し、ただしこれ以上は隙を見せてはならないと道を進んだ。わたしはここではアジア人で、住人ではなく旅行客に過ぎず、声を発したらジェンダークィアを理由に攻撃されかねず、怒って言い返せる技術もない身だった。 『Lingua Franca』のオリヴィアも、ブルックリンのブライトンビーチをワンピース姿で歩きながら、誰を信じたら良いのかわからず身分の安定しない、そんな不安を、未来への希望と共に抱いていたのだろうか。

鈴木みのり

1982年高知県生まれ。ジェンダーやセクシュアリティの視点、フェミニズム、クィア理論への関心から小説、映画、芸術などについて“i-D Japan” “キネマ旬報” “現代思想” “新潮” “すばる”などで執筆。2018 年、範宙遊泳“#禁じられたた遊び”に出演。近刊に“‘テレビは見ない’というけれど” (共著/青弓社)、和田彩花と特集の編集を担当したフェミニズムマガジン“エトセトラ Vol.8 (特集‘アイドル、労働、リップ’)”。“早稲田文学増刊号「家族」” (筑摩書房)に短編小説を寄稿。

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『エトセトラ VOL.8 特集:アイドル、労働、リップ 鈴木みのり・和田彩花 特集編集』

発行:エトセトラブックス
価格:1,300円(税別)
発売:2022年11月30日(水)

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