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創作・論考

『セイント・フランシス』と『シャープ・オブジェクツ』;ないものとされる血を描く

連載:語る言葉のない声を響かせる/鈴木みのり

ジェンダーやセクシュアリティの視点、フェミニズム、クィア理論への関心から、小説、映画、芸術などについて執筆を行う作家の鈴木みのりさんの連載「語る言葉のない声を響かせる」。この世界のさまざまな構造の歪みや、偏りによって、なかったことにされてきた声なき声を、物語や日常の風景のなかから掬い、響かせる言葉の記録です。

ここ数年よく眠れなくて、メラトニンを飲む機会が増えた。もともとは、何かの小説かエッセイで読んで、好奇心でiHerbで取り寄せるようになったのだった。物書きはじめ芸術やエンタテインメントに関わる人というと、昼夜逆転ぎみになるのが美談のように扱われたり、逆に、勤め人のように朝から夕方まで仕事をしているとストイックと見なされたり、いずれにせよ「朝起きて夜眠るのが規範的な生活習慣」とする一般的な価値観に合うか/ズレているかにさらされやすいと言えると思う。不当だ、とわたしは言いたいのだけれど、本題はそれではない。よく眠れないとは寝つきの悪さの話ではなく、6〜8時間ほどの睡眠時間の途中で尿意をもよおし、トイレに行くために起きてしまう頻度が年々高まっているということ。調べると、睡眠中に腎臓をコントロールするホルモンの分泌が低下し、夜間でも尿を作るようになる「夜間頻尿」は加齢にともなうらしい。

2022年に観た映画のベストのひとつ、『セイント・フランシス』のわたしにとってのクライマックスは、尿漏れについて語られるシーンだった。
『セイント・フランシス』は、主人公のブリジットを演じるケリー・オサリヴァン自身の、20代の頃のナニー(家庭訪問型の保育サービス)としての経験と、30代の妊娠・中絶の経験とをもとに執筆した脚本を、アレックス・トンプソンが監督した。ブリジットがナニーとして勤める家庭は、女性同士のカップルが女の子を育てている。ひとりは、家族の第二子の出産を控えるマヤで、ヒスパニック系であり、出産後は産後うつに苦しむ。もうひとりのアニーは、第一子のフランシスを産み、現在は会社勤めをする家計の担い手である一方、人種主義による差別を日常的に受けている。ブリジット自身も、大学を中退した定職についていない30代の女性として、規範からズレてるという目で見られ、時に見下されている。そんなブリジットがある日、時々セックスはするが付き合ってるわけではないジェイスとのあいだに妊娠し、中絶をして以降、性器からたびたびを出血するようになる。そのような話の中で尿漏れの話が出てくるのだ。

夜間頻尿だけでなく、ここ10年のあいだに膀胱炎など排尿に関する悩みが増えてきて、身体の変化の結果であるはずなのに、“自然なこと”と肯定するよりも恥の意識が勝ってしまっていたわたしは、こんな風に語っていいのか、自分だけの悩みじゃないはずと、この映画を通して思えた。尿道の短い身体、加齢による筋肉のゆるみ、膀胱のコントロールができにくくなることなどによって、尿漏れは中年の、特に女性に起きやすいのだそう。トイレに間に合わずに尿が漏れやすくなる経験は、きっとありふれている、なのに、語られにくいもの。

映画は主に妊娠、出産、中絶をめぐって、性に関する健康や人生の選択、同性間のカップル(レズビアン、バイセクシュアルの女性)と子育て、非白人のキャラクターといった、これまで映画やドラマなどでなかなか中心的に語られずにきたテーマを、属性やいち要素として記号化しない。見ている自分自身とも通じる属性や悩みを、日常のありふれたものとして絶妙なタッチで描き、「重くて厄介なだけの存在」ではないと感じさせてくれる。
ブリジット、マヤ、アニーの三人の関係性の絶妙な緊張感を保ちながら、民族的なルーツ・肌の色だけでなく、ライフコースや就労のキャリア、経済性の格差など、同じ女性の間における差異についても、ステレオタイプを少しずつズラすように描かれていた。バリバリ働いているように見えるアニーの弱腰の語りやマヤの姿は、人種的マイノリティのふたりがむしろ、独身で正規雇用についていない白人のフランシスのある種のロールモデルというか、今後どう生きていくかの可能性を示唆するようで、オープンエンドへの刺激にもなっていた。

映画『セイント・フランシス』予告編

異性愛規範が支える「夫がいて、妻がいて、子どもがいる」というイメージを、「当たり前」で「自然なもの」とする家族主義は、特定の人々、特に健常で中産階級以上のシスジェンダーの男性に利益やさまざまな機会を得やすくする特権を与える、家父長制の社会を再生産する。そんな不均衡な社会構造に加担するのは男性のみとは限らない。
2018年にHBOで作られたドラマ『シャープ・オブジェクツ』(現在は『シャープ・オブジェクト KIZU -傷-:連続少女猟奇殺人事件』としてU-NEXTで配信中)の、主人公のカミール・プリーカーは、そんな家父長制の社会構造や家族形態の内側に適応できず外に出たのだが、帰郷してトラウマと向き合うことになる。アメリカ南部・ミズーリ州セントルイスの新聞記者のカミールは、アルコール依存症と自傷行為から入っていた療養施設から退院後、二人の少女の殺人事件について書くために故郷の町ウィンド・ギャップを訪れる。カミールは、町の主要な雇用源である養豚場を所有する母アドーラが支配するウィンド・ギャップと家から距離を取るためだけでなく、自身の性暴力被害の経験もあって、適応できずに故郷から離れたのだった。
特に序盤は、カミールが車を走らせる現在のウィンド・ギャップの活気のない風景と過去の情景が継ぎ合わされるような演出によって、トラウマの霧に巻かれたりアルコールに浸されたりするような、催眠状態のような感覚に陥る。そんな退屈な景色に地方出身のわたしも見覚えがあった。気だるく停滞した時間にカミールの自傷行為や嘔吐がさしはさまれると、ハッとする。大人になってもカミールの中のある時間は、抑圧と痛みを経験した故郷に留まったままなのだと気づかされる。話が進むにつれ、カミールのみならず、アドーラも、父の異なるカミールの妹・アマも、規範のなかで抑圧されるにしろ力を握るにしろ、性をめぐる被虐的な経験と歴史の脈に置かれた女性として、欠落と排除をめぐって怒りと痛みを発露するドラマなのだと気づいていく。
人は生きていくために食べ物を口にし、栄養をとり、排泄し、そんなルーティンをとおして日常を再生産する。一方、カミールが嘔吐する、つまり食べ物を受け付けない・食べたものを戻してしまうとはどういうことなんだろうか。日常を拒否している、再生産の輪の外に自分を置こうとする意志の表れなのだろうか。こんな苛烈で酷い現実ならば、生きていたくないのだと、カミールは感じているのかもしれない。眠らずに夜中に抜け出し、酒を飲み、行きずりのセックスをしたり、いつの間にか車の中で目が醒めたりするようなやぶれかぶれは、カミールがそう見なされるように、社会不適合としての烙印を受けたり存在しないものとされたりする。自分が尊重されない、自分を構成する一部が抹殺されたと感じられるときの負担や痛みをわたしは自分のものとしても想像してみる。カミールのアルコール依存、向こう見ずなセックス、自傷行為、嘔吐は、その痛みよりももっと大きな痛みや違う過ちに包まれ、不統合のアイデンティティの危機を少しでもやわらげたり棚上げしたりするためなんじゃないだろうか。
アドーラは、娘たちに人形の家を買い与えているのだが、子どもたちはおもちゃではなく、自分の意志と感情を持ち、血の通った人間なのだから傷つくし、経血や排泄だってある、という現実とアドーラは向き合えずにいる、ということなのではないか。この人形や家は、家父長制を温存し、再生産しようとする母による子の支配の象徴という意味だけでなく、最後までサスペンスのモチーフとしても効いてくるので、ドラマの展開自体も気が抜けない。
『シャープ・オブジェクツ』は、女性や加齢に関して、『セイント・フランシス』とは違う語りにくさに鈍く気だるく重い光を当てる。それは、子どもを支配し、暴力を振るう母(親)も存在するということだ。母である人間を、「子どもを愛し、守る存在」としてのみ見なすのは、女性に対してそのような役割を期待する性差別の規範意識によるものだが、そんな考えを内面化している人は少なくないだろう。とりわけ、そんな規範意識を持って親になった女性が、次の世代の子どもたちを弱い存在として置くために母としての庇護の名の下に破壊的な行動に出るという、因習的な虐待のホラーの物語がこのドラマだ。ただし、フィクションとはいえ、母親による虐待をある精神疾患と安易に結びつけるような偏見を助長しかねない危ういニュアンスには注意したい。
ほかにも気になる点はある。架空の町ウィンド・ギャップが、南北戦争時代を再現して南部連合を誇る劇を上演するカルフーンの祭りを毎年催すように、アドーラの支配する町と家が白人至上主義の脈にあるという点と、人種主義による差別はジェンダーやセクシュアリティの政治と紐づいているという点を、ドラマは示唆している。その一方でブラックのキャラクターはほとんど出てこない。アドーラに従うメイドのゲイラ、カミールを支えようとする新聞社の編集長フランクの妻アイリーンといった、白人のキャラクターの補助的な役割にのみとどまる人物ばかり。2Pac“Dear Mama”やSnoop Dogg“I Love My Mama”といったヒップホップの曲が背景に置かれているものの、奴隷制の歴史が深く刻まれた南部の物語であるにもかかわらず、ブラックの人々の生にはほとんど関心が払われず、終盤かすかに立ち上がるマイノリティの生の可能性の芽は、残酷なかたちで摘まれてしまう。ひるがえって、『シャープ・オブジェクツ』は社会・政治・文化において保守的な地域における、特権階級の白人の女性の暴力性についてのドラマとして探求されているともいえる。現在のアメリカでも、家父長制の社会構造で主導的な立場にあり、人種主義による差別意識や女性蔑視を内面化した、過激な白人至上主義者の女性というのは存在するのだから。

『シャープ・オブジェクト KIZU-傷-:連続少女猟奇殺人事件』予告編

日本にも、特権的な白人性、つまり「日本人」として無徴でいられる日本国籍を持つ、健常で家父長的、分離主義的な女性やマイノリティである人々が、当然いる。そうした人々とどう付き合うかというひとつの可能性を、『セイント・フランシス』は提示してくれている。
生まれたばかりの子を連れたマヤは、フランシス、ブリジットと花火を見に行った際に、近所の白人の一家の母親からあるクレームを突きつけられる。ブリジットがかばい、マヤは「異なる意見を尊重するところを(子どもたちに)見せないと」と言う。特に女性(や女性と見なされる人々)に対して、保守的なジェンダー規範の正当性を疑わず他者にぶつけてくる人が目の前に、生活圏内にいたときに、どう折り合いをつけるか? これはわたし自身も常々考え続けていて、答えはなく、もちろん話し合ったり握手したりすらできないほど過激で、攻撃的な人もいるだろうから「隣人として話を聞く」がすべてにおいて通用しないだろうし、怒りがこみ上げてきたり、黙って離れたりするしかないときもあるだろう(そういった懸念も、最後のフランシスの入学の際のエピソードのオープンエンドに含まれている)。それでも、この「他者の存在を尊重する」というエピソードは、女性同士で家族を作ろうとするマヤに対するものであるものの、作品の外の現実、クィアな人々、とりわけトランスジェンダー女性、女性的なノンバイナリーやジェンダークィアの人々への苛烈な偏見の助長や煽りが過熱する、日本語のネット空間、ツイッターなどSNSにうんざりしていたわたしにとって、相手が分別や良心がないと感じられるときに、自分の倫理や思いやりを手放してはならないというマヤのメッセージに沁みるものを感じた。

鈴木みのり

1982年高知県生まれ。ジェンダーやセクシュアリティの視点、フェミニズム、クィア理論への関心から小説、映画、芸術などについて“i-D Japan” “キネマ旬報” “現代思想” “新潮” “すばる”などで執筆。2018 年、範宙遊泳“#禁じられたた遊び”に出演。近刊に“‘テレビは見ない’というけれど” (共著/青弓社)、和田彩花と特集の編集を担当したフェミニズムマガジン“エトセトラ Vol.8 (特集‘アイドル、労働、リップ’)”。“早稲田文学増刊号「家族」” (筑摩書房)に短編小説を寄稿。

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『エトセトラ VOL.8 特集:アイドル、労働、リップ 鈴木みのり・和田彩花 特集編集』

発行:エトセトラブックス
価格:1,300円(税別)
発売:2022年11月30日(水)

エトセトラ VOL.8│etc.books

『セイント・フランシス』

3月24日(金)〜
U-NEXT独占配信開始
DVD発売&レンタル開始

映画『セイント・フランシス』

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