ここ数年よく眠れなくて、メラトニンを飲む機会が増えた。もともとは、何かの小説かエッセイで読んで、好奇心でiHerbで取り寄せるようになったのだった。物書きはじめ芸術やエンタテインメントに関わる人というと、昼夜逆転ぎみになるのが美談のように扱われたり、逆に、勤め人のように朝から夕方まで仕事をしているとストイックと見なされたり、いずれにせよ「朝起きて夜眠るのが規範的な生活習慣」とする一般的な価値観に合うか/ズレているかにさらされやすいと言えると思う。不当だ、とわたしは言いたいのだけれど、本題はそれではない。よく眠れないとは寝つきの悪さの話ではなく、6〜8時間ほどの睡眠時間の途中で尿意をもよおし、トイレに行くために起きてしまう頻度が年々高まっているということ。調べると、睡眠中に腎臓をコントロールするホルモンの分泌が低下し、夜間でも尿を作るようになる「夜間頻尿」は加齢にともなうらしい。
2022年に観た映画のベストのひとつ、『セイント・フランシス』のわたしにとってのクライマックスは、尿漏れについて語られるシーンだった。
『セイント・フランシス』は、主人公のブリジットを演じるケリー・オサリヴァン自身の、20代の頃のナニー(家庭訪問型の保育サービス)としての経験と、30代の妊娠・中絶の経験とをもとに執筆した脚本を、アレックス・トンプソンが監督した。ブリジットがナニーとして勤める家庭は、女性同士のカップルが女の子を育てている。ひとりは、家族の第二子の出産を控えるマヤで、ヒスパニック系であり、出産後は産後うつに苦しむ。もうひとりのアニーは、第一子のフランシスを産み、現在は会社勤めをする家計の担い手である一方、人種主義による差別を日常的に受けている。ブリジット自身も、大学を中退した定職についていない30代の女性として、規範からズレてるという目で見られ、時に見下されている。そんなブリジットがある日、時々セックスはするが付き合ってるわけではないジェイスとのあいだに妊娠し、中絶をして以降、性器からたびたびを出血するようになる。そのような話の中で尿漏れの話が出てくるのだ。
夜間頻尿だけでなく、ここ10年のあいだに膀胱炎など排尿に関する悩みが増えてきて、身体の変化の結果であるはずなのに、“自然なこと”と肯定するよりも恥の意識が勝ってしまっていたわたしは、こんな風に語っていいのか、自分だけの悩みじゃないはずと、この映画を通して思えた。尿道の短い身体、加齢による筋肉のゆるみ、膀胱のコントロールができにくくなることなどによって、尿漏れは中年の、特に女性に起きやすいのだそう。トイレに間に合わずに尿が漏れやすくなる経験は、きっとありふれている、なのに、語られにくいもの。
映画は主に妊娠、出産、中絶をめぐって、性に関する健康や人生の選択、同性間のカップル(レズビアン、バイセクシュアルの女性)と子育て、非白人のキャラクターといった、これまで映画やドラマなどでなかなか中心的に語られずにきたテーマを、属性やいち要素として記号化しない。見ている自分自身とも通じる属性や悩みを、日常のありふれたものとして絶妙なタッチで描き、「重くて厄介なだけの存在」ではないと感じさせてくれる。
ブリジット、マヤ、アニーの三人の関係性の絶妙な緊張感を保ちながら、民族的なルーツ・肌の色だけでなく、ライフコースや就労のキャリア、経済性の格差など、同じ女性の間における差異についても、ステレオタイプを少しずつズラすように描かれていた。バリバリ働いているように見えるアニーの弱腰の語りやマヤの姿は、人種的マイノリティのふたりがむしろ、独身で正規雇用についていない白人のフランシスのある種のロールモデルというか、今後どう生きていくかの可能性を示唆するようで、オープンエンドへの刺激にもなっていた。