目覚めたときに、今どこにいるのかわからないと思ったが、自宅だった。いつも通り寝室で寝ている。起きたときに場所も時間も一瞬わからなくなる朝がときどきある。雨が窓を叩く不規則な音が聞こえていて、昨晩これを聞きながら眠ったことを思い出した。雨が降るベストの時間帯は夜だと思う。毎日、夜毎に雨が降って、陽が上がったら止むと楽。そういう惑星もあるのだろうか。
仕事に出かけるときになると既に雨は止んで地面だけ濡れていた。
登院すると、入院中の患者さんの一人が最期の呼吸に変化していた。数日前から昏睡に入り、少しのまばたきや頷きだけが意識の状態の合図だった。顎が持ち上がり、呼吸と呼吸の間隔がたっぷり開き、今か今次の呼吸が出るのか、それともこの人の呼吸は終わってしまったのか、と待っているとため息のようなそっとした吐息がやっと現れる。苦しそうにも見える呼吸だが、もう苦しさは手放している状態であることを我々は知っている。家族の人を呼んでもらい、病院に向かってもらう。その間に他の患者さんの様子を診察して回る。
最期の呼吸のサインが出ても、すぐに呼吸が止まるわけではない。半日くらいそのまま保って静かに呼吸し続ける人もいる。患者さんとは、元気な時に呼吸が弱っても侵襲的な延命治療を行わない約束をしていた。家族にも、いつどうなってもおかしくないことを伝えている。なんとか家族が来るまで保ってくれればいいが。
しかし間もなく、看護師から「先生、」と声をかけられ、家族が到着する前に呼吸が止まってしまったことを告げられた。
家族が到着したあと、向かっておられるあいだに穏やかに息を引き取られたこと、呼吸が止まったときに命が終わったというわけではなく、呼吸が止まってから心臓が止まり血の巡りが完全に止まるまでは少し時間がかかっていて、その間ご家族を待ち続けておられたであろうことをお話しして、ご家族の前で逝去の診断のための診察をする。「がんばったね」「ありがとう」と家族は声をかける。死亡診断書に死亡診断の時刻を書く。
なんだかそのあとやることが多くて朝作って持ってきた昼の食事が食べられず、お茶だけを飲んだ。
ダ・ヴィンチニュースで自分が連載しているエッセイの更新日で、お昼に更新を確認して告知のツイートをした。春で浮き足立った文章を書いたことの自覚があり気恥ずかしさから「筍あるある100個書きました。」と入力してリンクを貼ってポストした。ふざけている。ふざけない方がいいのはわかっている、でもただただふざけてしまう。
気づいたら夕刻になっていて、会議に出て、病棟を見回って、カルテをもう一度見て、早めに病院を出た。昼が食べられなかったのでお腹が空いていた。しかし、もう自炊のための力は残されていなかった。
神田猿楽町のムンド不二に夕飯を食べに行った。さっと茹でたうるいとあまどころのマヨネーズソース、マゼンタ色のビーツのポテトサラダ、かぶと葡萄とフェンネルのマリネ、筍と春野菜の炒めもの、フェンネルのコフタをたのみ、すべて一人で食べた。特に筍と春野菜の炒めものは素晴らしく、新筍、スナップエンドウ、菜の花、そら豆、パプリカ、ズッキーニ、玉葱の炒めもので、テンパリングされて香りの染み出したクミンシード、コリアンダーシード、マスタードシード、カレーリーフ枝のオイルがうすい膜になって野菜たちにまとわりついていて、それぞれの野菜の味とスパイスが豊かにひとつひとつ調和してチカチカ口の中で光った。体温が上がり、目の下だけにごく細かく霧吹きで噴いたようにうっすら汗が浮かぶ。
食べていると他のお客さんが来て、彼ら自身の未発表らしきレコードを取り出し、店主に頼んでプレーヤーで流し始めた。清らかなピアノが混じったノイズミュージックでなんとなく耳が気持ちよかった。
帰宅してから曽祖父の日記にとりかかった。最近、実家の書斎にあった明治生まれの祖父の日記を毎夜拾い読んでいる。今読んでいる部分は、曾祖父が戦後過ごした外国での抑留日記だった。曾祖父は満州で技術者として家族と暮らしていたが、戦後に家族を先に日本に引き揚げさせ、単身で3年抑留生活を送っている。その日記は昭和22年正月の記録。終戦昭和20年の8月15日から505日が経過した日の記録。
一 抑留生活三年目の元旦
臨時政府は二〇号合宿舎の私と五十嵐博士に又二一号合宿舎の黒川氏と速水博士の以上四人に特別優遇者として元旦の祝いにメリケン粉を銘々宛に三斤半送り届けて来た。私と五十嵐博士はこの二人分のメリケン粉を二〇号合宿舎全員の元旦の食膳に提供した。そして同宿の諸君と相談の結果、元朝の銘々の食膳に乏しいながら明太魚一尾と支那酒を添え、錦州団の取って置きの白米を炊いてもらうことにして、同宿の看護婦一同に調理の一切を託した。看護婦一同の喜々藹々とした協力で乏しいながらも心豊かな祝膳の用意が軈て調った。
そこで、午前九時に同宿者十七人全員一室に食卓を囲んで異境・長白での元旦を祝って離散した家族達や家郷の肉親に互いに思いを馳せてその健在と多幸を祈り合った。<略>
その内に支那酒も底をついて祝膳が終るや早くも花札賭博が例によって幾組も景気よく始まった。そうした雰囲気に堪え難い私と博士は早々自室に舞戻って又々諸君と隔絶した二人の生活に入った。(*️)
この頃の曾祖父は3年目に入った抑留生活からどうやって脱出し帰国するかを考え続けている。一人で、ときに賭け事を同じように嫌った<博士>や信頼できる口の堅い同宿者たちに相談しながら。曾祖父がいたのは恐らく今の中国の少数民族が住む朝鮮族自治区にあたる、北朝鮮との国境を有する街であったようだった。中共軍(中国共産党軍)政府は技術専門職の在留日本人を長期に抑留しようと引き揚げに制限をかけ、いつまでも切望しながら国に帰れない日本人が大勢いた。曽祖父は国境を密かに越えて日本人抑留者の着ているものを買いに街に来ていた朝鮮人に軍用貨物列車の輸送担当のソ連兵の買収を仲立ちさせる計画を立て、何度も宿舎を出て山に潜入し情報を集め、また宿舎に戻ることを繰り返しながら画策している。ときに、他の抑留脱走者が地の果てまで追われ捕らえられ、中共軍に処刑された報告を受けながらも、動揺する周囲の日本人を見てただじっと黙っている。日記の中の曽祖父は不遜だ。絶対に生きて家族と再会する、それができることを疑わないというぐらぐらと煮え立ったような情熱だけを持っている。外国人は買収して利用するし、現実から目を背け賭け事や呪いに興じ酒を飲んだくれている日本人たちを正月から冷めた目で見ている。ように日記には書かれている。そこまで読んで日記を閉じ、終わりにした。
曽祖父の物語の結末を私は知っている。脱出は成功し、日本で彼は101歳まで生きた。本当は私も、今さら目覚めたときにどこにいるかわからないなどと言っている場合ではない。いるべき場所にいるのであればそこがどこなのかはわかっていなければならないし、そこがいるべき場所ではないのなら、ぐらぐらと煮えるような気持ちを持って抜け出す必要があるのだろう。