─穂村さんはよく「驚異(ワンダー)」と「共感(シンパシー)」という言葉を使われていて、短歌というのは「驚異」を重視する表現であるとお話しされています。「共感」が優位になる今の時代に、穂村さんは共感をどのように見つめていますか?
穂村:さきほど、今の共感の質には「方舟感」がベースにあるんじゃないかという話をしましたが、世代によってズレも感じます。例えば、会社を一つの世界としてとらえると、未来を考えたときに、なんらかの変化をしないと生き延びられない業界や企業がある。でも、そこに50歳の人と20歳の新入社員がいた場合、50歳の人には「あと10年保てば」みたいな気持ちが多かれ少なかれ存在していて、変化できない状況があると思うんですよね。でも、20歳の人にとってその態度はありえないですよね。会社や国なら、だめになったとしてもよそに行けるかもしれないけれど、地球より外には行けないわけで。それが公共性や倫理観に対する眼差しのすごくコンシャスな印象に繋がっているのかなと想像していて。
─一方で「驚異」についてはいかがですか。
穂村:逆風ですね。例えば、荻原裕幸さん(1962年生まれの歌人)が80年代につくった<どこの子か知らぬ少女を肩に乗せ雪のはじめのひとひらを待つ>という歌は、当時は孤独な青年と少女の交流を描いたリリカルな歌とみなされていたけれど、今だと「やばい人」っていう見え方の変化が生まれてしまう。
─事件性があるのではないか……と。
穂村:でも、「お隣の少女の親に許可をもらって肩に乗せる」だと、この短歌は成立しないんですよね。どこの子か知らない少女と2人で、降るか降らないかわからない雪を待っているところにワンダーの根源がある。<盗んだバイクで走り出す>という尾崎豊の“15の夜”の歌詞も、もともとは盗んだ側に共感する歌として、ルール違反がワンダーの扉になる、表現の特権性の次元で歌われていたけれど、あるときから「盗まれた方はどうなるんですか?」という眼差しの方が強くなってきました。歌のなかで盗んだバイクで走り出したからって実際に盗むわけじゃないし、それでいくとミステリーはどうなっちゃうんだ、という合意が、表現の特権性が失われた状況では、困難なんです。
そして今まで話したようなケースであれば僕も一応説明可能なのですが、例えば同性愛が文学のなかで神話的に描かれていた時代があって。僕たちはかつてはそれに憧れて読んでいたけれど、今は神話的に描くことで、現実の世界での性的マイノリティの人たちへの眼差しが固定化してしまうのではないかという意見が強くあります。当時は、現実的な言葉では世界を動かすことが困難だという空気感があったから、文学のなかではその困難を逆転させて神話的に描くことでぎりぎりの表現を成立させていたけれど、今は現実の世界が動こうとしてる時代だから、そこに超越的なワンダーを求めてはいけないだろうと言われれば、確かに、と思う。一方でその神話的な世界像に憧れていたリアルタイムの気持ちは、今も自分のなかに残っているというきびしさがあるんです。
─そこには葛藤があるのではないかと思うのですが、そうした状況に対して穂村さんは表現を行ううえで、どのように向き合われていますか?
穂村:恐怖ですね。自分の過去の作品でも、これは大丈夫なのか? 大丈夫じゃないだろう? と思ったり。たぶん、私はもともと他者に対して非常に鈍感なんです。自分にとっては、他者が未知性の塊であり、ワンダーの大きな根源であることは確かです。だから、本当は他者が無限に怖い。今もそういう感じはかなり強いし、ワンダーはコントロールできないものというイメージが僕にはあって、それなのに他者の足を踏んではいけないということを考えると、どうすればいいのかわからなくて、一歩も動けなくなってしまう。例えば恋愛や結婚のようなパートナーシップは、どちらか一方ではなく当事者同士さえOKであれば、どんなに異様な合意だって成立し得えてしまいますよね。
me and you野村:ワンダーにもいろいろな位相があるのかなと、お話を伺っていて思ったのですが、驚きって、知らなかったことや、新しい世界を見ようとするときに発生するものという側面もあると思うんです。例えば変化を恐れ、誰かにとっては都合のよい現状維持を行うことは、誰かにとっては絶望的な停滞につながるかもしれません。そのとき、新しい世界を開くようなワンダーを手放してしまわず、誰かの足を踏まないような形で、こわごわとワンダーを探し求めていくこともできるのではないかというのは、わたしたちがme and youをやるうえで仮説として思っていることで。穂村さんは「わからない」という言葉をすごく使われるじゃないですか。穂村さんの作品や発言を見ていて、その「わからない」は手放しに理解を放棄する「わからない」ではないのではないかと想像するのですが、「わからない」と言うときに、穂村さんはどのような思いがありますか。
穂村:「自分はわかっている、知っている」ということを前提にした振る舞いに対する不信感みたいなものがあって。そういう気持ちがあるからかもしれないけれど、「わかってる人」とか「良い人」とか「正しい人」と思われるのって怖くありませんか? 僕はどんなひどい失敗をして失望されても、あの人なら有り得ると思われるマイナスの期待値をもっていたいと思っています(笑)。物理法則のような根本的な摂理にかんしては神様の初期設定というか、どうしてそうなのか、我々にはほぼわからないわけですよね。ワンダーの源って、「自分は知らされていないのに、前提としてそういうことになっている」という摂理みたいなことなんです。短歌の短さや、断片性、暗示性、象徴性もそうですが、ライフハックや断定的なものとは逆の、全貌が見えないものへぎりぎりのアプローチだと思う。未知性への強い憧れが僕にはあって。そもそも世界と自分の関係性ってそうでしょう。神様に相談して合意したわけじゃないのに、気が付いたらここに存在していて、一方的に時間の流れのなかに叩きこまれている。僕は、そこで時間の流れに抗おうとするときに、例えばアンチエイジングみたいな現実のルールを了解したうえでの対処法をとることでいいのかという疑問があって。神様を説得できれば、そもそもの時間の約束事が変わるんじゃないかと、いまだに思っているところがあるんです。