ソフィ・カルの講演会に行った。初めて彼女の姿を見た。
カルの失恋体験による痛みとその治癒を、写真と文章で作品化した「限局性激痛」。この作品で私は彼女のことを知り、そこから様々な作品に出会った。初めて海を見た人の背中を映す映像作品「海を見る」、生まれつき目が見えない人に最も美しいものは何かと尋ねる「The Blind」。自分や他者の、不在と存在の隙間を丁寧に掬い取る作品の数々に、私は心を救われてきた。この世界のあらゆる痛みや美しさに、繊細に触れ直した気がした。
だから私は、ソフィ・カルの講演会があると聞いた時、真っ先に申し込んだ。そして出会ったことのない彼女が、いかに繊細な人物であるかを想像した。
しかし、講演会当日、壇上に出てきた彼女は、まるで、まるで……ラスボスみたいだった。緑のぴかぴかする靴の先端はとがっていて、色付きのメガネをかけていた。めちゃくちゃ口を開けて喋っていて、フランス語のことはよくわからないけど、多分ものすごくはっきり発音していると思う。その声は大きくて低かった。講演会のファシリテーターが「あなたには今ラブラブのパートナーがいますよね。今後の作品に彼の存在はどう寄与すると思いますか? これからどう展開されていく予定ですか?」と聞けば「他の人には関係ないことね」と、バッサリ。
私は、自分が無自覚のうちに抱いていた「繊細なソフィ・カル」像と、目の前でファシリテーターの質問をバサバサ切るソフィ・カルとのギャップに驚いてしまった。そして、彼女の繊細な作品は、逆説的に、彼女のはっきりとした強さに裏打ちされていたのだと発見(あるいは再解釈)した。自分の、あるいは他人の痛みに溺れることなく、それを作品という形にまで昇華させて、より多くの他者に開示していくプロセスは、それなりの強さがないとできないものなのかもしれない。その痛みに絡め取られてしまっては、「作品」という形を纏うものに到達し得ない。痛みからある意味で冷徹に距離を持って、徹底的に見つめることのできる気力があってこそ、彼女の作品は成り立っているのだ。
私自身、作家として、自分の作品と自分自身の性格とに矛盾を感じることがある。優しさや愛を作品で歌いながら、醜く傲慢な自分が日常で露呈すると、狼狽えてしまう。でも実はその逆説こそが、作品を作り続ける動機になるのかもしれない。そう考えると、私はソフィ・カルに、また新しい意味で救われた気がした。
講演会が終わって外に出れば、ようやく真っ当な寒さを得た街には、クリスマスの飾りがたくさんついていた。歓談する人々の間を縫いながら、私は一人の作り手として、何に、どう向き合うことができるかと考えた。私の内側は静かだった。