『女の子たち風船爆弾をつくる』著者が、登戸研究所資料館へ
2024/10/9
友達と遊ぶこと、好きなものに触れること、おいしいごはんを食べること。そんな大切な日常が戦争で奪われてしまったら? いまもなお世界中で戦争が続いているなかで、私たちは何ができるのでしょうか。
5月に刊行された小林エリカさんの小説『女の子たち風船爆弾をつくる』では、青春を戦争時代に費やし、東京宝塚劇場で風船爆弾をつくることになった女学生たちの姿が描かれています。聞き手である私の祖母も、太平洋戦争の際に跡見女学校に通い、風船爆弾をつくっていました。小林エリカさんは祖母について母と私に聞き取りをしてくださり、物語に登場する実際に存在した少女たちの一人の「私」として描かれています。
こうした貴重な機会をいただいたなかで、今回は小林エリカさんと共に明治大学平和教育登戸研究所資料館に伺い、資料館で聞き取りなどを行っている塚本百合子さんとお話しました。登戸研究所資料館は、戦時中に風船爆弾などの秘密兵器の開発を行っていた建物を使用した、平和教育のための資料館。「口外してはいけない」ということから秘密裏にされ、戦後40年もの長いあいだ歴史として残されていなかった秘密兵器にまつわる事実が、かつて戦争に動員されていた若手研究者や市民の声によって明らかにされた経緯がある場所です。
大きな主語だと語られない物語、善と悪では語り得ない葛藤、綴られてこなかった女性たちの一人ひとり異なる声。そして、戦争のない社会に向けた具体的な実践についても、お二人の観点から教えていただきました。一人ひとりに話を聞き、その記憶を大切に手渡していこうとする強い思いを持ったお二人の願いをしっかりと受け取り、それをまた手渡していくきっかけが生まれたらうれしいです。
―エリカさんは放射能や戦争にまつわる歴史と誰かが生きてきた記憶を辿りながら、さまざまな表現方法で作品をつくり続けていらっしゃいます。そのなかで今回「風船爆弾」に着目したきっかけについてお伺いできますか。
小林:『光の子ども』や『マダム・キュリーと朝食を』などの作品で核の歴史を見ていったときに、風船爆弾の話が出てきたことがありました。アメリカがマンハッタン計画を進めていたハンフォード・サイトという施設の電線に風船爆弾がぶつかって電源が切れたせいで、復旧するまでに時間がかかり、原爆の開発が3日遅れたのではないかと言われていたそうです。もう一つ個人的な話としては、私はカトリックの小学校に通っていたのですが、シスターが戦時中に東京宝塚劇場で風船爆弾をつくっていたという話を保護者会でしてくださったことがあると母から聞いて。それでぱっと繋がって、これは私が何か書かなければいけないのでは、と思いました。
―それで、全国でつくられていたという風船爆弾のなかでも東京宝塚劇場で行われていた出来事に着目されたんですね。
小林:私は東京育ちなので、有楽町や銀座、東京宝塚劇場の辺りのことも、雙葉・跡見・麹町女子などの学校も身近なものでした。電車で制服を着ている子を見ていた学校で、80年前にはそんなことがあったんだと驚きました。でも、東京宝塚劇場で行われていたことを調べたいと思うときに、かつて雙葉高等女学校の女学生として風船爆弾づくりに動員されていた南村玲衣さんが、ご自身の手でまとめられた私家版(※1)しかまとまった資料がなくて。これはぜひ調べてみたいと思って、書き始めるよりだいぶ前の段階から明治大学平和教育登戸研究所資料館館長の山田朗さんにお話を伺いに来ていました。風船爆弾に関する本や資料は全国に数多くあるけれど、ここでわかったこともたくさんあって。本当にお世話になりました。
塚本:早い段階から来てくださったのを私も覚えています。
小林:そのときに、東京宝塚劇場ではないけれども、と手渡してくださった、資料館でおこなった「延岡高等女学校アンケート」など、すごく大事な証言を教えていただきました。
―明治大学平和教育登戸研究所資料館は、戦前に旧日本陸軍によって開設された「秘密戦」を担った研究所の建物がそのまま使用されています。終戦とともに研究所が閉鎖されたあとに、跡地の一部を明治大学が購入したとのこと。その後、どのような経緯でこの資料館が開設されたのでしょうか。
塚本:1990年を境に、明治大学の中に残っていた登戸研究所の建物が新しい校舎へと建て替わっていきました。その頃、「このままだと、ここに登戸研究所があったという痕跡が一切なくなってしまう」と、市民やかつて登戸研究所で働いていた方たちから危機感を覚える声がだんだんと集まり、調査を通じて関連資料も集まってきていたんですね。
その後、いろいろな思いがあったけれども戦争に動員されてしまった当時若手の研究者だったOBの方々からの要望書が、明治大学の学長宛に出されたんです。2005年のことでした。「ここは理工学部と農学部という理系のキャンパスで、かつての自分たちと同じように志を持った若手の研究者たちがいるけれど、この子たちが自分たちと同じような思いをしてほしくない。理系のキャンパスの中に登戸研究所の建物があることには、大きな意味がある。自分たちはすべてを話すし、すべての資料を明治大学に渡すので、この建物を残し、さらには登戸研究所の展示をしてもらって、平和教育や科学教育にぜひ役立ててほしい」といったことが書かれていました。大学がその思いを受けとめて、つくることになって。この話を思い返すと、うるっとします。
小林:その強い想いと行動に胸が熱くなりますね。
塚本:そうして、2010年に登戸研究所資料館ができました。そこには、やっぱり渡辺先生の力もすごくあると思います。
―登戸研究所資料館の渡辺賢二先生は、法政大学第二高等学校で働いていた頃から、平和教育学級の一貫で川崎を地道に歩き続ける活動をされていたそうですね。
塚本:1986年頃からずっと活動されていたと伺いました(※2)。川崎で市民による自主学習グループが立ち上がっていて、参加者の市民から「この辺で一時期、稲がまったく育たなかったことがあったんだよ」という情報が寄せられたそうです。そこから調べ始めたところ、いま明治大学がある場所に登戸研究所という施設があったらしいとわかって。その頃は建物は残っていたものの、何の研究所だったのかはっきりとはわかっていなかったんです。
小林:稲が育たないということは、何か毒薬のようなものが漏れていたということですよね。
塚本:そうですね。それで、市民・高校生・教師がフィールドワークで明治大学にやってきたら、動物慰霊碑の後ろに「陸軍登戸研究所」という文字があり、そこで存在を認識したということでした。その後、渡辺先生は「もしここで見学会を何回かやったら、当時研究所で働いていた人たちが来てくれるかもしれない」と思い、見学会を実施し続けていたそうです。ある日、「僕、実はここで働いていたんだよね。言っちゃいけないって言われていたから、いままで誰も言ってなかったけど」と話す方が本当にいらして。点と点が繋がり、日本国が当時行っていた秘密戦のことがわかっていきました。
―エリカさんは風船爆弾をはじめとした秘密戦の存在を知ったとき、どのように感じましたか?
小林:資料として読んではいたのですが、一番びっくりしたのは、私家版で本をつくられた南村玲衣さんにお話を伺ったときのことです。南村さんは、戦後40年経ったとき、街で本屋さんのショーウィンドウに風船爆弾に関する本が並べられているのを見たときに、初めて自分が何をつくっていたのかわかったそうです。そのことを『女の子たち風船爆弾をつくる』に書いたら、「私も本屋さんのショーウィンドウで知りました」という他の方のお話も聞きました。40年間も、自分がやらされていたことが、なかったことにされていた。青春の大事な時間をかけてやらされていたことを、そんなにも長いあいだ、知らされないことがあるんだと衝撃を受けました。
それまでは、私は、歴史というものは教科書にすべて書かれていて、たとえば国会図書館だとかどこかに行けば、戦争に関する事実がすべてわかるものだという思い込みがありました。でも、その40年間、教科書どころか、どんな歴史にも書かれていない事実が存在していた。もし渡辺さんが行動してくださらなかったら、なかったことになっていた、歴史から消されたままだったんだ、と気づいた瞬間に、本当に戦慄しました。歴史は偉い政治家だとか、専門家だとか、だれかに任せておけばいい、だれかが記録してくれる、というものではなく、一人ひとりがつくっていくものなんだ、とあらためて実感しました。
―エリカさんは「書かれていなかったとしても残っているものが必ずある」ということを活動のなかでずっと大切にされているので、この場所との強い繋がりを感じますね。
小林:大文字の歴史、要は教科書に書かれるような歴史には、政治家だとか軍の男の人の名前ばかりが書かれています。けれど、その時代にだって、人間の半分は女で、女が生きていました。風船爆弾をつくった女の子たちの名前が刻まれることは、これまでなかった。でも、私はその一人ひとりがすごく尊い存在だと思うし、それを書き留めたいし、もっと知りたい。塚本さんのような方々がこれまでお話を聞き取って残してくれて、それを私がいま見ることができるという奇跡に感動します。
私がこの作品を書き始めた頃には、お亡くなりになったりお話できない方もいたりして、お会いできた卒業生の方はとても少ないんです。それでもこの本を書けたということは、誰かが書き残してくれたものや、誰かが記憶していてそれを話してくれたもの、そういうものたちが、手渡されて今にまで残っていて、それを、私に手渡してくれた人がいたから。それは、誰かがその人やその事実を大切だと思ったという証拠でもあって、本当に尊いことだなと思っています。だから、これまで長らく聞き取りや、資料の保存をつづけてきてくださった、塚本さんはじめ、資料館のみなさまの存在に感謝しきりです。
塚本:ありがとうございます。お話をしてくださった方の協力がなくてはできないことですから、資料館の使命として丁寧に残していかなくてはいけないと思っています。いま、聞き取った証言を文字起こしする作業をみんなでやっているところでもあって。いまはまだ証言を内部資料としてしか扱えてないのですが、これから公開することになったら、何かの色付けをせず、あるがままに伝えていくことが絶対に必要だと思っています。
特に、人に言ってはいけないとされていた「秘密戦」の証言なので、いわゆる戦争の体験に関する証言ともちょっと違う繊細な部分もあります。人間関係ができていくなかで「この資料館だったら」とポツリと話してくださるような、その温度感も伝えていけたらと思っていて。そこにいた人たちのいろんな葛藤や気持ちも一緒に受け止めてもらえるような公開方法を探したく、それがこの資料館の責任だと思っています。
小林:本当に、この場所があることが意義深いです。いまの世界や社会、政治を前にすると「何も変わらないんじゃないか」と一人で無力感を感じてしまうことも、私は多いです。でもこの建物にくれば、そうじゃないことを思い出せるのがすごいなって思います。こうして現実に歴史を動かせたし、それも誰か上の偉い人がやろうと言ったからやったのではなくて、一人ひとりが語ってきて、一人ひとりが聞いてきた積み重ねだと思うと、なんて凄い場所なんだろうと思って。
塚本:そうですね。渡辺先生や資料館をつくろうとした人たち、「この資料館だから」と資料をくれたり話してくださった方々の思いは絶対に消しちゃ駄目だなと思って。その強い気持ちだけはみんなで持って、この炎を消さずに必ず守っていきたいなと思います。
―塚本さんは2010年に資料館ができてから14年間ずっと登戸研究所資料館で働いているそうですね。
塚本:以前は新聞博物館で働いていて、そのときにこの資料館の準備室で働いていた知人からのお誘いで働くことになりました。小さい頃から祖母に戦争体験の話を聞いていて、高校生くらいから戦争と平和に関われるようなことをしたいなとずっと思ってきて。秘密戦にまつわる博物館はいままでなかったので、つくりがいを感じています。さっき小林さんも仰っていたように、自分が思っていた歴史と異なる部分があることにまず驚きました。
―小さい頃からおばあさまに戦争体験のお話を聞いていたんですね。
塚本:祖母は東京に住んでいたのですが、大事にしていたピアノの楽譜を「敵のものだから」とドイツ語のもの以外すべて取られてしまったことにずっと怒っていました。自分の日記まで取られてしまったそうです。仲がよかった男の従兄弟たちも、みんな兵隊に取られて帰って来なかったことや、音大で4年間学べるはずが戦争で繰り上げになって卒業させてもらえなかったこともよく話していて、祖母は戦争のことを憎んでいました。
祖母から「原爆が投下されて被害を受けた」という面についてはたくさん聞いていましたが、ここで学びながら働き、事実を知っていくなかで、被害も加害も両方あったことがわかっていきました。例えば、小さい頃に731部隊(旧満州に拠点を置いた日本の部隊で、人体実験の結果をもとに生物兵器の開発をしていたことで知られる)のことを初めて知ったときは、それに携わった人に対して憎しみや怒りしか湧きませんでした。ただ、この仕事を通じて非人道的なことに関わってしまった人たちのお話を「一人の話」として聞くなかで、戦争というものは人をこんなにも葛藤させるのだとわかりました。話してくれたこと自体が尊く、糾弾すべきはその人ではないということを、誤解のないように資料館に来てくださる利用者さんたちに伝えていかなければと、働くなかで強く思っています。
小林:たとえ戦争が終わっても、何十年間も人に話すことができない心のわだかまりや葛藤を抱えるんですよね。こんなにも人生に影響を与えるのだということを、私も証言を一つひとつ追っているなかで感じます。
塚本:戦争って、体が傷ついたわけではなかったとしても、心に重いものを抱えてしまうものなんだと私もお話を聞くなかで感じます。
―一人ひとりの物語があるはずなのに、「男たちが戦争に行って、女たちは泣きながら帰りを待つ」といった固定された語りで、大きな主語で綴られた「戦争の話」に触れることがとても多いですよね。『女の子たち風船爆弾をつくる』の音楽朗読劇を観たときに、制服が着たかった、この校舎に憧れた、といった感情を当時の女学生たちも当たり前に持っていたということにはっとしました。私の祖母も風船爆弾をつくりながら、きっとこんな気持ちを抱えていたんだと、自分のことのように思えて。塚本さんは『女の子たち風船爆弾をつくる』をどんなふうに受け取りましたか?
塚本:女の子たちそれぞれの目線が生き生きとしていて、私だったかもしれないし、お友達だったかもしれない、「自分がここにいる」と感じました。資料館で史実を勉強していると、「何年にこうだった」と書かれた資料は数多く読むのですが、陸軍の軍人など男たちの目線で書かれているものだけなんですよね。『女の子たち風船爆弾をつくる』では、目線も女の子ですし、「1940年はクリスマスで楽しかった」「1941年にはクリスマスのお祝いができなくなった」というように当時の空気が書かれ、あの女学生たちはこういう思いで風船爆弾をつくっていたんだということが生々しく伝わってきて。涙なしには読めない作品だと思いました。
小林:ありがとうございます、とてもうれしいです。奇遇にも塚本さんも、この記事を書いてくださっている万季さんも、それぞれのおばあさまのお話からこの場所に辿り着いたんですよね。私も『女の子たち風船爆弾をつくる』を書く中で、何度も祖母のことを思い出しました。私の祖母は高等女学校どころか、尋常小学校しか出てないから、文字をきちんと書くことができなかった。だから、祖母の話というのは、私に話してくれた、口づたえのことだけしか残っていないんです。文字を書けなかった女性も、当時とても多かったはずです。そういうふうに女の人が語ったことが何も残されずに消えてしまうのはよくあることですが、残されなかったからといって大事でないわけではないと私は信じたいです。それぞれの祖母の語りが私たち一人ひとりにとっては、いま生きている私の人生を大きく左右するほど大事なものなのだと、声を大にして言いたいと思います。
―『女の子たち風船爆弾をつくる』では「女だからといって決して無力ではないと信じたかった」という言葉が何回か出てきます。エリカさんはその言葉についてどんなふうに捉えていらっしゃいますか?
小林:この本を書きながら、「当時の女性たちはどれだけ存在意義を認められずに生きていたんだろう」ということを考えていました。当時は男女平等が定められていなかったので、女性は家のものとされていて、父親の決めたことに従わなければいけなく、結婚したら夫のものになるしかなかった。例外はありますが、女性は戦争で死んだとしても兵士として靖国神社に名前を刻まれる存在ではなく、名前さえ残らないのが当たり前だった時代です。国のため、誰かのために役に立ちたい、自分の価値を認めてもらいたいと頑張るのはすごくわかります。いまだって、私にも、そういう気持ちがある。でも、頑張れば頑張るほど、戦争に人殺しに加担させられてしまう、挙げ句、戦後にはその頑張りをことごとく裏切られていく過程を目の当たりにしたときにすごくショックで。弱い立場であればあるほど、大きなものに加担しなければ生き延びられない現実を悔しく感じました。そして、いまなお、女性たちが生きる現実が、そこと地続きであるということも、決して過去のことではないということも、はっきりとわかりました。
万季さんのおばあさまが、亡くなる直前まで枕元に大切に女学校時代のサイン帳を置いていらしたのですよね。初めは「なぜだろう?」と私は不思議に思っていたんです。私自身は自分の女学生時代を振り返るようなこともあまりなかったし。でも、当時のことを考えてみると、高等女学校の時代というものが、女の子にとっては本当に最後の自分自身の時間だったのだ、と思い至りました。女の子は、ひとたび学校を卒業したら、親が決めた結婚をして、夫のもの、婚家のものになるのが、あたりまえなのだから。自分で新しい友達をつくるとか、自分のやりたいことをやったり自分の時間を持つ、そんなことは大概は不可能だと、みんな知っている。そんな貴重な女学校時代なんです。その大事な時間を奪われたうえに、それが何だったか知らされず、さらには自分が関わったものによって人を殺していたかもしれないと聞いたときの絶望は、私には想像し得ないことだと思いました。
―サイン帳、大切に置いてありました。祖母は亡くなる前に膠芽腫という脳の病気で記憶が朧気だったのですが、入院していた部屋で「ごきげんよう」と跡見に通っていた頃の山の手言葉で話していて。音楽朗読劇で「ごきげんよう」という言葉を聞いたときに、たった一言で祖母のことが思い出されて、涙が溢れました(※3)。いま振り返ると、女学校時代のことが色濃く残っていたから、亡くなる前にあのような話し方をしていたのかもしれないと感じます。祖母は、風船爆弾について話したがったというよりかは、ぽろっと漏らすような感じで母に伝えていたそうなのですが、塚本さんが聞き取りのなかで感じられたことについてもお伺いしてみたいです。
塚本:そうですね。私がお話を伺ったのは高崎や愛媛の名門校の高等女学校に通っていた方が多くて、そうした作業に関われたことを誇りに思う方がすごく多かったです。「私は勝つと思ってやって、何も後悔してない」とキリッとおっしゃる方もいらっしゃいました。生きているだけだと名前も何も残らず、戦争でも最前線に立つことはできないけれども、この兵器をつくることでもしかしたらアメリカを攻撃できるかもしれないとプライドを持っていらっしゃった。
―そうなんですね。初めはこんなことやりたくない、嫌だなと感じていたとしても、社会のムードや国が発するメッセージや教育によって、徐々に悪いことだとは思えず、いいことだと思えてくるということが、資料館を見るなかでも伝わってきました。その事実に対してどんなふうに考えたらいいのかが本当に難しくって。
塚本:わかります。私もこのことを聞いたときに衝撃的だったんですけど、きっと、ここでモヤモヤするのがいまの私たちに必要なことなのかなって。そうやって当時といまの感覚の違いを考えることが必要だといつも感じています。
―同じ状況のなかにいても、一人ひとりの捉え方は本当に違うものだということなんですね。
塚本:違いますね。風船爆弾づくりにプライドを持っていた方もいれば、「軍人さん同士のやり取りが腹立つ」という声や、「ただ早く帰りたい、おなかすいたと思っていた」という声もあります。やっぱり人それぞれなんですね。ただ、何人かにお話を伺うとき、80歳を超えていても集まるとぱっと17歳くらいの姿に戻るんです。お互いのあだ名で呼び合って少女時代に戻ったようで、その姿を見るのがすごく好きでした。
小林:空襲のなか、東京宝塚劇場で風船爆弾の作業をしながら「野ばら」を歌っていた話や、雛祭りをしていた話も、いじめもえこひいきもあったとも、聞きました。戦争に動員されるとわかっていたけれど、受験もあったんですよね。
塚本:戦況が悪くなっても、日常があったし、未来を持っていたんですよね。聞き取りをしていて、戦争だからといってみんながずっとつらかったわけではないことを知りました。最初は戦争のムードはなかったけれど、1944年あたりから一気に暗くなっていくんですよね。この本でも、楽しくてキラキラした青春も描きながら、戦争でだんだんと変わっていく姿が丁寧に描かれていて、身につまされました。
小林:自分の高校時代のクラスのメンバーを思い出しても、戦争の捉え方は全然違うだろうなと思って。もし自分が東京宝塚劇場にいたらどうだったかを考えていたのですが、すっごく頑張って張り切っちゃうタイプなんじゃないかと思ったんです。頑張れないクラスメイトがいたら責めてしまうようなタイプ。そう考えたとき、一筋縄に全員こうだったとか、いい・悪いと裁くことは、無意味だと感じました。
―エリカさんは「これが善で、これが悪」と二つに分けるような描き方をされないですよね。人間誰しもどんな環境で生きてきたかによって、どういった考えに至るかはわからないものだと私も感じます。『女の子たち風船爆弾をつくる』では「私」という一人称でさまざまな女の子たちが語りますが、同じ場所にいながらも一人して同じ人はいない、それぞれの声が聞こえてくるようでした。
小林:自分自身を振り返っても、例えばすごく役に立ちたいと思う気持ちもあれば、同時に面倒くさい気持ちもあったりして、自分の気持ちでさえ単体で捉えられないですよね。これだけ大勢の人がいて、これだけのことが起こっているときに、「かわいそうな女の子たち」のような単体では絶対にまとめられないと何度も考えました。「戦争の中の少女」が語られるとき、「無力で弱くてかわいそう」といった語り方が多かったけれど、そうした状況でも自分の意思があるということは、自分の子供時代を振り返ればわかることですよね。こうなりたい、こうしたいという思いがあったなかで、たまたま兵器づくりに参加させられる、あるいは逆に、何かの被害で死んでしまう。そのことを丁寧に書きたいと思ったんです。
『チェルノブイリの祈り』や『戦争は女の顔をしていない』を書いているスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチが『セカンドハンドの時代』(松本妙子訳)の中で、「わたしは、火のついた松明を持った歴史家ではなく冷静な歴史家でありたい。裁くのは時代にまかせましょう。時代は公平です、でもそれは近い時代ではなく、わたしたちがいなくなった遠い時代。わたしたちの愛着のない時代です」と書いていたのを、私は心に刻んでいて。戦争というと、こんなひどいことをしたとか、こんなひどいことをされたとか、善悪のフィルターを通して見てしまいそうになることが多いけれど、私はそこに生きていた一人ひとりをただひたすら書きたいと思いました。
―『女の子たち風船爆弾をつくる』の本の最後には、すごい量の……。
小林:気合の資料、気合の脚注(笑)。
―気合の(笑)。この作品は物語ではありながら、全部、事実に基づいているそうですね。
小林:そうですね、本当はフィクションとして風船爆弾のことを書こうと思っていたんですけど、東京宝塚劇場の風船爆弾に関する資料が南村さんの私家版しかないと知ったときに、これから調べたいと思った人はどうするんだろうと考えて、資料にもなるように整えたいと思ったんです。
塚本:素晴らしいですね。
小林:でもこんなに脚注がある小説も、こんなに参考文献がリストになっている小説もないので、本当によく編集者の人も許可して、好きにやらせてくれたなあって。ページ数も取るし、脚注ってすごく大変なんですよね。一個直しがあったりするとページがずれるし……だから本当に異例のことなんです。
でも、今回小説を書くときに、私自身が書いたというよりは、誰かが書き残したものを手渡されたという気持ちがどうしても強くて、それは書き残した人の努力であることをきちんと明記したいと思いました。「私」という主語で書かれている内容は、どれも資料に基づいて書いたそれぞれの一人ひとりということだし、いつ誰がどんなふうに聞いて書き残した話なのかを記したくて。誰かが大事だと思ったから記録して残していたものだと思うと、それを手にしたことの奇跡を感じます。
塚本:本を読みながら、そのときどういうカルチャーがあって、どう思っていたかを私ももっと丁寧に聞きたかったなと感じました。もしおばあちゃんやひいおばあちゃんがご存命のお孫さんとかがいたら、「当時はどうだったの?」と聞くためのツールにもなるなと思って。私ももしまだ祖母が生きていたら、この本を開きながら聞きたかったなと思いました。
―この本では、戦時中だけではなく、戦後どう生きていったかというところにも焦点を当てています。祖母は戦後、ドレスメーカー学院で学んだあとに結婚して子供が生まれ、夫が死んで未亡人になって、それからコサージュをつくるアトリエを立ち上げるのですが、母と一緒にエリカさんに話したなかで、そうした内容も作品に織り込まれると思っていなかったので、物語のなかに祖母が生きているようで、母と読んで心から感動しました。
小林:「戦争は終わって平和になりました」と戦争が終わるところで映画や本などが終わってしまうのを、これまで多く見てきました。自分自身も「戦後は、男女平等で民主主義の新しい時代が始まってよかった」と、戦争が終わってまるで新しく別の時代がはじまったかのような教育を受けてきた。でも、戦争が終わっても、一人ひとりは生き続けなければいけないし、だれかが防空壕を埋めなければならなかったし、だれかが瓦礫を片付けなければいけない。そんなときに万季さんのおばあさまのお話を聞けたのもすごく大事なことでした。
かつて、風船爆弾の和紙を張り合わせたのと同じ手で、こんな素敵なコサージュをつくられた。そして亡くなった旦那さまの遺体を引き取るために、クウェートへ行った話を伺い、衝撃を受けました。かつて東京宝塚劇場に学徒動員されていた女の子が、将来、クウェートへ行くことになるなんて、私は、想像できただろうか、と。しかも、その旦那さまが亡くなったのは、8月16日だったというのですから。戦争というものが、どんな影響を及ぼすのかというのは、計り知れません。
―クウェートで石油の仕事をしていたときに、終戦記念日の夜に同僚と戦争の話をして盛り上がり、翌日心臓発作で亡くなったと母から聞きました。祖父は母が学生の頃に亡くなったので、私は会ったことがないのですが。
小林:自分の想像だけでは書けない、自分の想像を遥かに超えた現実がある。自分がこれまで、いかに戦争というものを狭量な視点でしか捉えていなかったのかと思い知らされました。
塚本:戦争はそこで終わりじゃなくて、続きがあって、いまに繋がっているんですよね。過去のことだと線を引くのではなく、その後こうやって生きてきた人たちがいるから、私たちもいることを思います。
―歴史の授業で「日独伊」という言葉は習いますし、ホロコーストやヒトラーのことも習うけれど、日本もまさにそのヒトラーが率いていたドイツと共に帝国主義を突き進んでいたことに対して、あまり実感を持って受け取れていなかった感覚が個人的にはあって。この物語でも満州や朝鮮の話が出てきますが、日本が植民地支配を進めていた事実に関しても、しっかりと学んでこれなかったことを悔やんでいます。この本では、事実としてあったことと共に、その時代を生きていた人々がどう受け取っていたかが丁寧に語られていますね。
塚本:一般的に近現代史は最後に習うので、戦争に行って、戦争が終わって、憲法ができていま、と駆け足で習う感じでしたよね。テストでいい点を取るために単語を覚えることしかしないから、その周りにどういった背景があったかまでは覚える余裕がない教育を受けてきたと感じていて。私もここで働くまでわかっていなかったことがたくさんありました。
小林:私もそのことをすごく考えていて。8月に放送される戦争の番組や、子供時代におばあちゃんやおじいちゃんから私が聞いたことは、空襲の中を逃げるとか、食べ物がなくて芋を食べるとか、そういうことばかりでした。それは、戦争の中のハイライトかもしれません。
でも、例えば、私の父は当時ハルビン(現・中国東北部の黒竜江省。当時の満州国にあり「極東のパリ」と呼ばれていた)で子ども時代を過ごしています。そこにあるのは、日本本土よりもずっと「いい」暮らしです。宝塚歌劇の少女たちも戦争末期に慰問公演で満州を訪れるのですが、満州へ行ったら本島にはもはやないような食べ物、羊羹なんかもたくさんある。ジンギスカンや新鮮なフルーツでもてなされたりする。そういう話を読んだときに、植民地ってこういうことか、と思いました。「植民地」と聞くと、私はこれまでヨーロッパがアジアに対してしてきたことばかりをイメージしていたけど、日本も同じことをやってきたんだ、ってはっきりと自覚しました。占領する側の人間であること、つまり日本人というただそれだけで、自分が上の立場に立ったような優越感を抱くことができる。みんなが日本語を喋ってくれて、喋れない人のことは馬鹿にしてもよくて、日本人だというだけでちやほやされて、相手が自分に合わせてくれる。それが侵略であり、占領であり、植民地をもつ、ということなんだなという実感を持ちました。
―いい暮らしを求める欲求は、誰しもが持ち得る可能性があるものですね。
小林:けれどその「いい」暮らしというのは、だれかの犠牲、侵略の上にしか成り立たないのです。でも、それでもやっぱり、「食べ物がいっぱいあって嬉しい」「いい思いをして楽しい」「ちやほやしてもらいたい」というような気持ちって、自分も持ってしまうかもしれない。もし自分が「満州へ行けば、本土にいるよりもずっといい暮らしができて、お手伝いさんもつくよ」と言われた日には、何かすごく得したような気持ちになって、そちらの方にたやすくなびきかねない。そんな私自身の中にある貪欲さとか、ずるさまで理解しないと、見えてこないものがある、戦争のことをわからないのではないかと、私は思うんです。
塚本:たしかに、戦争の話を聞きに来てくれた皆さんを喜ばせたいということで、戦争の悲惨さのハイライトだけを話してくれますよね。伝えていこうとされる方も無意識のうちに取捨選択されるから、私たちと同じような日常があったという話は残っていきにくいんだなと感じました。
小林:そうですね。ある方から、その方のお母さまが五族協和(満州国のスローガンだった、「満州族、漢民族、蒙古族、朝鮮族、日本民族が、満州国で協力して国づくりをおこなっていこう」というもの)の演劇を小学校の学芸会でやったとき、漢民族の役をするために、お兄さんの学生服を後ろ前に着て衣装にした、という話を伺って。なぜその方がその話を聞いたかというと、初めてその方が小学校の学芸会を行うときに、衣装の話になって、お母さまが自分の子ども時代の話を教えてくれたというのです。そういう話は、教科書には載らないし試験にも出ないけれど、なぜか心に残ったとか、そんな気持ちや、ディテールが、私はすごく大切だと思っています。
―あらためて、社会の構造がもたらしていたものの大きさを感じます。
小林:戦争の中でも、強い立場と弱い立場があると思っています。首都圏の高等女学校に通っていた子たちは裕福でしたし、先生やご両親が国や軍にコネクションがあったりもするので、動員先もあまり過酷ではないように配慮されていたのではないか、というような証言もありました。同じ風船爆弾づくりにしても、一方、地方である小倉陸軍造兵廠ではヒロポンらしきものを与えられて不休で働かされたり、過労で死んでしまう子たちもいたといいます。立場が弱い人たちは、さらに過酷な学徒動員や労働に駆り出されているでしょう。また、学校へも行けず、書くことのできない立場の人ほど、その記録さえ残らないことも多かったのだろうということも、ひしひしと感じます。ただたまたま生まれた場所や家、立場の強弱が、戦争というもの中ではよりいっそうその強弱が際立ち、命さえも左右される、ということをしばしば考えました。
塚本:生まれた年がたった1、2年違うだけでも、大きく異なりますよね。姉妹でいつまで学校に通えたか、英語の授業があったかが異なったという話も聞きました。戦争が終わった後に取り戻すために勉強したんだという方もいて。私の祖母もそうでしたけど、あと2年生まれるのが遅かったら、あるいは早かったら、大学に4年間行けたかもしれなかった。その年に生まれたばかりに、自分の望むような生き方や学び方ができないということがあって、格差が生まれるんだと思って。でもそれって、いまにも通じることですよね。就職氷河期で就職難に苦しんだ人もいれば、いろんな働きどころがある時代を過ごした人もいる。コロナ禍だってそうですよね。時代によって社会的弱者が生まれてしまう。
小林:宝塚歌劇も、当時から入るのが大変な倍率ななかで入学して稽古もしていたのに、舞台に一度も立てないまま戦争に動員された少女たちがいます。戦後、宝塚大劇場がGHQから宝塚のものに戻ってから初めてロケットダンス(舞台の端から端まで一列に並んで、足を高く上げて踊るダンスのこと)を踊ったときの姿を『女の子たち風船爆弾をつくる』の表紙の絵に描きました。でも、宝塚に戻れたのは、全員ではありません。戦争で死んでしまった子たちもいるし、家の事情で宝塚に戻れない少女たちもいたんです。
塚本:そうしたこともちゃんと記録に残るって、すごく大きなことですよね。そうじゃないと、本当に消えていってしまうことですし。
小林:やっぱり、「なかったことにはしないぞ!」という気持ちになりますよね。一つひとつの大切なエピソードを聞いたり、資料を出していただいたりしたら、やるしかない。
塚本:絶対なかったことにはさせない、と思っています。いろんな方の想いを受け取るたびに、私が生きている限りはやっていきたいし、私が死んだ後も絶対に続いていかなければいけないようにしないとって。
―5月までここで行われていた企画展『日本が戦争になったときー軍拡の時代と秘密戦ー』も興味深く拝見しました。いまも世界中で戦争や虐殺、侵略が起きていて、日本も軍拡の流れがあるなかで、「戦争が本当にいやだ」という話をすることが増えているように感じます。ただ同時に「日本は戦争とはいまは無縁で、戦争は遠い国で、あるいは過去に起きていたもの」という印象も日本に強く残っているように感じていて。世界中の戦争がなくなり、日本が戦争に加担しないために、私たち一人ひとりに何ができるのかということについて、言葉をいただけたらうれしいです。
塚本:ここに訪れる子供たちからも「平和にするためにはどうしたらいいか」とよく聞かれるんですね。私自身も「お友達を愛する気持ちが平和に繋がるよ」と言われてきたし、昔は「お友達に優しくしましょう」「いじめないようにしましょう」と言ってきました。でも、いまはこれは子供だましだなと思っていて。暴力を奮うこともいじめもしてはいけないことだけれど、嫌いなら嫌いだと思っていていい。個人の感情はどちらでもいいと思っています。
いまは、平和にするための方法は、「戦争や平和のことを話せる人をたくさん増やすこと」だと思っているんですね。知らないうちに話しにくい雰囲気が生まれてしまうので、話すことができる味方をいっぱいつくっておく。太平洋戦争が起きた当時は、話しにくい雰囲気が固められていって、国の問題点について話せないだけでなく「戦争はよくないよね」さえも言えない雰囲気ができあがって、そこからみんなが戦争に加担していったと知りました。話しやすい雰囲気をつくって、集団で声を上げられるように味方をつくっていこうと、周りの人たちとやっていっているところです。
小林:来年は、戦後80年です。これまで日本が80年のあいだ直接的な戦闘による戦死者を出していない、ということは本当に誇るべきことだと思っていて。それを誇ると同時に、私たち一人ひとりが、それをひきつづき守り続けていかなくてはいけないものだと感じています。
一人ひとりが祈るだけでは手に入らない、「平和をつくる」ための方法をもっと学んでいかないといけないですよね。長い間当たり前に平和があるように思うかもしれないけれど、それは決してあたりまえのことではない。この平和を保つために、一人ひとりがやってきたことの結果なのだと思うんです。この資料館をつくった方をはじめ、市民の方々がたゆまぬ努力をしたから守ることができているもので、いま、私たちは、その奇跡の上に立っていることを意識しなくてはと思っています。声を上げ続けてくれた人たちがいるからこそ、いま、この平和があるということを、もっと讃えたいし、共有していきたいって思うんです。
塚本:私もそう思います。憲法9条があるから大丈夫とずっと思っていたけれど、実は9条を変えようという動きは、いまだけではなくずっとあるんです。それを私たちの先輩方がずっと声を上げて食い止めてきたから、この平和が守られてきたんだと思ったときに、その思いを無駄にしてはいけないと感じていて。いま、その世代の方がいなくなろうとしているときに、私たちにかかっていると思います。ちゃんとやらないと先輩方が守ってきたものがあっという間に変わってしまうという意識をまず持たなきゃ、って。「たくさんの人たちが未来の子供のために守ってきてくれていたんだ、ありがとう」という気持ちがあります。
小林:偉い人だとか、政治家がなにかすることも大事かもしれないけれど、学校や、家、近所から、一人ひとりが努力を続けてきてくれたことの大事さも計り知れません。風船爆弾について調べれば調べるほどそのことを身にしみて感じています。だからこそ、一人ひとりの力を称えたいし、私たち一人ひとりは決して無力な存在ではない、とはっきり言い切ることができます。私自身も、そんなひとりになりたいと思っています。
―登戸研究所資料館という場所の存在が、まさに市民一人ひとりの絶え間ない努力によって変化していけるのだと実感できる場所ですよね。戦争反対と思いながらも、自分には何ができるんだろうと途方もなさをつい感じてしまうのですが、今日のお話を伺って、生きている一人ひとりの努力で憲法9条が守られてきたことを讚え、私たちの世代がしっかりと受け継ぎ、自分なりのやり方でもっと広げていく努力をしていきたいと思いました。
小林:もし周りと話せなかったとしても、ここに来ればいいですよね。世代間での交流ももっと増えてほしいですし、次につなげていくアクションが増えていったらいいなと思います。
塚本:そうですね。この場所で働けてよかったなと今日はあらためて思いました。私も努力を続けていきたいと思います。みんな、ここに集合しましょうね。
小林:がんばりましょう。本当に心強いです。迷ったり、心が折れそうになったら、ここに来ます。
※1:『風船爆弾 青春のひとこま 女子動員学徒が調べた記録』(著:南村玲衣/2000年)
※2:「明治大学平和教育登戸研究所資料館 館報 第6号 第 10 回企画展少女が残した登戸研究所の記録 ―陸軍登戸出張所開設 80 年―」記録 記念講演会「少女が残した登戸研究所の記録・『雑書綴』発見秘話」 「私の街から戦争がみえた」 ―登戸研究所に勤務した少女との出会い―」に詳しく記載されています。
※3:祖母の話について、詳しくはme and youの「だれかから聞いたことのある戦争のはなし。24人の声」記事内の「東京で風船爆弾をつくった祖母の話、母から聞いた海軍にいた祖父の話」にて記載しています。
小林エリカ
1978年東京生まれ。作家・マンガ家。
現在、東京在住。著書は小説『女の子たち風船爆弾をつくる』(文藝春秋)、『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』(筑摩書房)、『トリニティ、トリニティ、トリニティ』『マダム・キュリーと朝食を』(第27回三島由紀夫賞候補、第151回芥川龍之介賞候補)(共に集英社)『最後の挨拶 His Last Bow』(講談社)他。“放射能”の科学史を巡るコミック『光の子ども1,2,3』、アンネ・フランクと実父の日記をモチーフにした『親愛なるキティーたちへ』(共にリトルモア)など。
テキストをモチーフにインスタレーションも手掛け、個展に「わたしは しなない おんなのこ/
交霊」(Yutaka Kikutake Gallery、東京)、グループ展に「りんご前線 — Hirosaki Encounters」(弘前れんが倉庫美術館、青森)、「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」(2019年、国立新美術館、東京)他。
近年は、ミュージシャン寺尾紗穂との朗読歌劇『女の子たち風船爆弾をつくる Girls, Making Paper Balloon Bomb』などシリーズの脚本も手掛けている。
塚本百合子
1980年生まれ。明治大学平和教育登戸研究所資料館特別嘱託学芸員。幼少期より祖母から戦時中の話を聞いて育つ。その経験から戦争について考え、伝える活動に携わりたいと志す。2010年より現職。登戸研究所関係者への聞き取りを通じ、その思いを若い世代にどう受け継ぎ伝えていくかを日々模索中。2024年11月からは企画展「風船爆弾作戦と本土決戦準備―女の子たちの戦争」を開催予定。
プロフィール
書籍情報
明治大学平和教育登戸研究所資料館
開館日時:水曜~土曜・10時〜16時 入館無料
住所:〒214-8571 神奈川県川崎市多摩区東三田1-1-1 明治大学生田キャンパス内
【期間限定公開】特別対談「『女の子たち風船爆弾をつくる The Paper Balloon Bomb Follies』をめぐって」 小林エリカ×山田朗
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