同性婚法制化までのアンビバレントな歩み。『台湾ホモナショナリズム』トークレポ
2024/9/2
「アジア初の同性婚法制化を実現した台湾」は、同性婚のできないアジアのクィアにとってはとても希望的な存在として映ります。しかし、性的少数者のなかにも様々な差異があるなかで、 “台湾=LGBTユートピア”という像には、果たして何の問題点も含まれていないのでしょうか。そういった問いを立て、一枚岩ではない揺れ動く台湾の実相と、いくつもの性/生の現在地を、22人の性規範から外(さ)れた人(※1)へのインタビューを通して浮かび上がらせたのが松田英亮さんによる『台湾ホモナショナリズム 「誇らしい」同性婚と「よいクィア」をめぐる22人の語り』です。
「台湾ホモナショナリズム」とは、例えば同性婚を実現させることで、台湾をアジアにおいて例外的に同性愛に寛容な場とし、異性愛規範は維持したまま、文化的な優位性を特徴付けることに寄与しているのではないかという問題を指摘する概念です。
『台湾ホモナショナリズム』の関連イベントとして、台湾に滞在経験のある3人を招いたloneliness books主催のトーク『台湾 と、ホモナショナリズム と』が、新宿2丁目のcommunity center aktaで開催されました。
台湾人の母を持ち、日本、台湾、アメリカで育った『台湾ホモナショナリズム』著者の松田英亮(胡英亮)さん。台湾の新北市出身で、歴史教育を研究されているファン・ユーシャン(黃昱翔)さん。そして、台湾の大学院に通っていた“集まるクィアの会”主催の燈里さん。台湾で少しずつ異なるクィアシーンや社会運動に関わっていた3人が、それぞれの視点から台湾におけるクィアの連帯や不可視化されている問題などをお話しした様子を、イベントレポとしてお届けします。
小さい頃から主に日本語と中国語の言語環境で育った英亮さんは幼い頃から何度も台湾に行っていましたが、長期で滞在したのは台湾の大学院に通っていた1年間だといいます。ユーシャンさんは新北市で育ち、2018年に沖縄に来るまではほとんどの期間を台湾で過ごしました。また燈里さんは台湾の大学院に通い、その後現地で仕事をしていたため5年ほど滞在したそうです。
クィアコミュニティとの関わり方が少しずつ異なる3人の、コミュニティとの出会いや関わり方が話されました。
燈里:3人とも何かしらの形で台湾のクィアコミュニティ、クィアシーンに関わってきたと思います。例えば『台湾ホモナショナリズム』だと、英亮さんは22人の「クィア」の人にインタビューしているんですよね。ただ全員バックグラウンドがバラバラ。クィアのコミュニティでも、特に周縁化されやすい人たちを意図的に選んでインタビューをされていたと思うんですけど、どういう人に出会ったのか教えてもらえますか?
英亮:そうですね。22人のうち、半分ぐらいが非シスジェンダーの人たちでした。必ずしも本人がトランスジェンダーだというふうに自認しているわけではない人もいらっしゃいますが、流動的な人や、非二元性別(中国語でジェンダーノンバイナリー)を自認している人たちもたくさんいます。
私が台湾に行く前の2016年、2017年に調べたときには、台湾でノンバイナリーという言葉は中国語でそこまで使われていなかったと思うんですよね。それから2019年くらいにノンバイナリー系の団体が発足して、初めて台湾でトランスマーチが行われたときにその団体の人たちと偶然道端で会って仲良くなりました。他には大学や台湾同志ホットライン協会(※2)というボランティア団体の人たちとか。台湾にはBDSM(ボンデージ、ディシプリン、ドミナンス、サブミッション、サディズム、マゾヒズムを指す)を実践する人たちの集団が結構いろんなところにあったので、そのコミュニティの人たちにもインタビューをしました。
あとはセックスワーカーの人や親がモルモン教徒の人、クリスチャンの人や、台湾原住民のバックグラウンド持っている人、そして外省人。外省人というのは、1945年以降に大陸から来た人って言ったらいいんですかね。外省人のルーツを持っている人たちも、いろいろな側面でちょっと発言しにくい場面があるのですが、そのルーツに向き合いながらインタビューに答えてくれた人もいて。台北はいろいろな人にすぐ会える感覚が個人的にありました。
燈里:台湾は小さいし、クィアコミュニティが結構繋がっていますよね。そういう人たちに会うために本当にいろいろなクィア関連のイベントに行かれたと本の中に書いてありましたが、例えばどんなイベントに行かれましたか?
英亮:女書店という、台湾大学の近くの古くからある素敵な本屋さんが、フェミニズム関連の本を扱っていて。そこに結構アクティビストの人たちも集まっているので、よく通っていました。あと台湾は、アートと組み合わせたクィア系のイベントをやることも多いので、そのようなイベントに友達と一緒に行ったり。調査のときには、必ずしもコミュニティに入っている人たちだけじゃなくて、3分の1くらいはコミュニティに属しているわけではない人たちにもインタビューするように心掛けています。そういう人たちの中には、運動とか政治とか私は一切やりたくないみたいな人もいますね。
燈里:周りにバレたくないという思いから、クィアシーンは夜に発生することが多いです。新宿2丁目も300軒ぐらいのゲイバーがあると思うんですけど、台湾も1990年代にゲイバーやゲイクラブがすごく増えました。外に出て集まる場としては、そこが最初のゲイ・クィアコミュニティだったのかなと私は理解しています。
台湾はいまだにクィアパーティーが毎週末あるので、クィアの人たちがクラブに集まっています。もともと、アメリカに住むブラックのクィアの人たちが現在のハウスやテクノ、ディスコあたりの音楽の土台を育ててきた歴史があります。台湾もそれを受け継いで、夜はそういう音楽で踊りつつ、ドラァグのショーがあったりボールルームが開かれたり。私はそこで初めて、台湾のクィアコミュニティの人たちと会って踊り明かしたのを覚えています。
燈里:ユーシャンさんは昼と夜、どっち派でした?
ユーシャン:もう完全に昼ですね。ゲイバーに行ったこともそんなにありません。
燈里:ユーシャンさんは、どんなところに行って、どのようにしてクィアと関わっていましたか?
ユーシャン:沖縄に行くまでは、台湾同志ホットライン協会で活動をしていました。その団体が結構大きくて、ボランティアだけで450人ほどいました。そのなかには、いわゆる同性愛のことだけじゃなくて、トランスジェンダーやエイズの運動をするグループもありました。私は性権グループというものに所属していて、青少年の当事者の居場所作りや、性教育をどう訴えれば保守派に反対されずに若者たちに届くかなどを考え、活動をしていました。
燈里:同性婚法制化に向けて、かなり多数の市民団体が貢献しましたが、ホットライン協会もその中の一つです。ユーシャンさんは、特に同性婚法制化に関して、ホットライン協会で何か関わったりしました?
ユーシャン:同性婚に関してはホットライン協会ではない別の組織で、2018年の国民投票のときに一番活動していました。
燈里:2018年に国民投票で同性婚反対派が大勝したことがありました。反対派が「同性愛は病気だ」みたいな、すごく差別的なキャンペーンを広告やバスに貼ったんですけど、それが大成功してしまいました。そのときにいろいろな団体が、駅前で当事者の若い子たちが一般の人たちに顔出しで直接訴えかけるという運動をして、それが当時すごく話題になったんですよね。大きな運動の一つだったと思います。
英亮:当時、自殺者も増えましたね(※3)。「台湾ってそんなにフレンドリーじゃなかったんだって思った」と言っていた人が結構いました。あとは「台北の中で、コミュニティや当事者の中でがんばって熱くなっていただけで、実際に反対派の人数を数字で見たときにショックだった」という声も多く聞きました。
燈里:クィアのクラブ界隈で、その事件の後にみんなで集まってパーティーをして、公園に行って酒を買って話すという、すごく絆の強いクィアコミュニティがあったんです。そこでみんなが言っていたのが、やっぱり自分は何もわかってなかったというか、いつも似た思想の人と、同じ世代の人と話しているから絶対同性婚ができると思っていたけど、確かに自分の親とか上の世代を考えてみると、そんなに現実は甘くなかったと。でも、そこでもう1回やってみようという話にもなって。
ユーシャン:私も含めて、あの時は周りの人たちはみんなLINEグループで家族とバンバン喧嘩してたんですよ。例えばおばあちゃんが、「(同性婚が可決すると)みんながHIVになる」みたいなとんでもないビラをもらってきて。
英亮:HIVを持っている人へのスティグマはすごく強まったと思っていて、かなりひどい状況でした。私も親戚から同性婚に反対する署名が回ってきました。
燈里:当時、テレビとかで「うちの息子がゲイで、それのせいでエイズになって死にました」みたいなのが流れていたんですよ。家族の絆を大切にする台湾はそれに煽られて、もしかしたらうちの息子も死ぬのかもしれないと感じて、反対票にとり込まれてしまったのかなと思いますね。私の理解では、あのとき反対派に取り込まれた人たちって実はもともと特にどちらの意見でもない人たちが多かったのかなと思います。すごく反同性婚とか、すごく差別的だったというわけではなく、なんとなく偏見のようなもやっとしたものを持っていて、迷っていたところに同性婚反対のプロパガンダがすごく効いたんだと思います。ひどい状況だったからこそ、家族の中でうまくいかなかったとしても、みんな親を説得しようとしていたんだと思います。
英亮:私は2017年に台湾で「同性婚を認めていない民法の規定は憲法違反ですよ」という最初のニュースが出た時は、アメリカの大学に留学していました。アメリカ国内で同性婚に違和感を持つ、また婚姻制度に違和感を持っているクィアの人たちや、UndocuQueerと呼ばれる書類を持たない、“不法滞在”とされてしまうクィアの人たちにインタビューをしていて、人種や移民、トランスジェンダーなどの視点を入れた調査をやっていました。卒論を書いている時に台湾のニュースを聞いて「動いているぞ」と思いましたね。
燈里:黒人でありレズビアンであることをオープンにして教育と執筆に携わってきたベル・フックスという方がいますよね。アメリカにおいてブラックフェミニズムを提唱し、交差性、インターセクショナリティの概念を掲げてきました。英亮さんはその考えを研究として取り扱ってきたのではないかと思うのですが、それが今回の『台湾ホモナショナリズム』にもつながってるんですか?
英亮:そうですね。自分自身もどこに行っても居心地がフィットしない感覚を持っていた中、アメリカでブラックフェミニズムに触れて、すごいすっとくるものがありました。インターセクショナリティの説明をすると、例えば公民権運動で「黒人の権利を」と言ったときに、そこに含まれているのは男性の黒人たちで、「フェミニズムの運動をしましょう」と言ったときに、そこに含まれてるのは白人の女性たちになってしまっていた。「そうしたら黒人女性の権利ってどうするの?」という話です。つまり、ジェンダーと人種などの二つの軸を交差させたときに、それまでとは異なった文脈が生まれてくる。そこにフォーカスを当てるための議論や、可視化させるフレームワークですね。
燈里:ユーシャンさんはフェミニズムやクィアスタディーズとどのようにして出会いましたか?
ユーシャン:私は大学ですね。学部生のときに社会学をやっていたんですけど、当事者として勉強したい、エンパワーされたいという気持ちからいろいろと授業を取っていました。そこで知ったのは、台湾の女性運動は90年代から始まったんですが、LGBT運動が女性運動と共に歩んだ歴史があるということです。トランスヘイトが今世界的にとても酷くなっているのは皆さんもご存知だと思いますが、日本でもX(旧Twitter)とかを見ていると、女性運動をやっている先生がトランスヘイトをしていることがあります。しかし、自分が知っている限り、台湾では「女性たちのために、トランス女性の権利を制限しましょう」と言うフェミニズムの学者は多分1人もいないと思います。一般の人はもちろんいますけどね。
80年代後半まで続いた蒋介石による長い独裁政権の中で、政権に反対する人を本当に立場問わず捕まえて殺す時代がありました。女性運動やLGBT運動は90年代から、民主化の動きの中でのさまざまな人の権利を大事にする運動として、30年も一緒に闘ってきました。そういう意味で、自分も含めて台湾のLGBT運動の人たちがフェミニズムの理論を大事にする部分はすごくあるのかなと思います。
燈里:台湾は1980年代後半まで戒厳令というものが独裁政権によって敷かれていました。集会の自由や表現の自由など、権利が一切なくて。政府にちょっと歯向かうようなことを言ったり書いたりすると、軍法の下、一審制の裁判で多くが死刑になるような時代がすごく長かった。
戒厳令は1987年までで、私は1990年代の初めに生まれているので、私のちょっと上の世代は戒厳令が終わってから生まれた世代です。社会運動は1990年代から花開いたんですが、私の考えでは、その時にインターセクショナリティの考えでいろいろな社会運動が進んでいったんじゃないかなと思います。原住民の権利、環境問題、ハンセン病の人たち、クィアの人たち、女性運動。友達によると、「台湾は人口が少ないから、社会運動が分かれると2、3人しか集まらない。だからみんなでやるしかない」って。
「ホモナショナリズム」という概念は、9.11同時多発テロ以降のアメリカの「LGBTフレンドリーな態度」を批判する形で、ジャスビル・プアによって提唱されました。9.11以前もアメリカ国内でのイスラム系への嫌悪は存在していましたが、テロによって高揚したナショナリズムと手を取る形で「イスラム=敵」という図式が確固たるものになりました。
そこでイスラムを倒すための口実として使われたのが「同性愛者に寛容なアメリカ」というナラティブです。「ホモフォビックで女性に抑圧的なイスラム」に対して、二項対立的に「同性愛者に寛容なアメリカ」を設定し、国家・文化的に優位に立とうとしました。しかし、この時にアメリカは共同体としての異性愛規範は維持したまま、例外的にゲイに寛容な国家として自身を構築していきます。このような新たな形のナショナリズムを批判するために、プアは「ホモナショナリズム」を提唱します。もともとはアメリカの文脈で使われていたホモナショナリズムが、次第にイスラエルとパレスチナの文脈でも使われるなど、現在ではアメリカに留まらず広く使われる概念となっています。
台湾においても、同性婚が法制化し「台湾は中国と違って自由で先進的な国です」というナラティブが使われるようになったことで、それを「台湾ホモナショナリズム」と呼び批判するべきではないかという議論が生まれました。英亮さんはそれに対して「たしかに批判すべき面はありつつも、台湾と中国の関係性はイスラエルとパレスチナの権力構造とは異なるため、アメリカやイスラエルの文脈をそのまま当てはめることはできない」と言います。
燈里:「ホモナショナリズム」という概念は、今までアメリカの文脈、またはイスラエルとパレスチナの文脈で語られてきたと思いますが、イスラエルは他の国を植民地化していますし、アメリカもイラクを侵攻しています。その点、台湾はいつも植民地にされてきた側だったんですよね。台湾は、台湾人としてのアイデンティティを取り戻したいという若者がすごく多いなと感じますし、中国から未だにいろいろな介入を強く受けているなかで、そこから離れる生存戦略の一つとして「台湾はあの中国とは違って国際的で進んでいる」と差をつけようとしてるんですよね。
それはもちろん理解できるし、それ自体に何か言うことはできないのですが、ただそこには問題も含まれてるんじゃないかというのが英亮さんの指摘です。具体的な問題として、みんながあまりにも蔡英文や民進党を肯定してしまって、批判的に見られなくなっていたり。クィアが直面している問題も、同性婚だけじゃ解決できていないものもたくさんあるのに、他の問題はなかったかのようにされていたり。あとは中国のフェミニストとの連帯もできなくなっていますね。
英亮:この本を出したときに読まずに「台湾もすごいプロパガンダをしてるんだね」と言われたことがあって、「ちょっと待って」と思いました。日本の人たちはこんなにも台湾に旅行に行っているにもかかわらず、「台湾と中国、何が違うの?」「中国語喋るんだ! あ、台湾語だったっけ」と言われることもよくあって、台湾のことをあんまり知らない状況があると感じます。その中でホモナショナリズムという言葉に対して、台湾のクィアの人たちがナショナリズムと結託しているみたいに日本やアメリカの視点で100%批判してしまうと、台湾の文脈をちゃんと読めてないかなと思います。
燈里:日本でナショナリズムといえば「愛国」あるいは「右翼」みたいな印象を受けると思うのですが、台湾の文脈においてナショナリズムや「台湾らしさ」「台湾人とは」と語られるときは、日本とは文脈が違うんですよね。そこを分けて考えることが大切かなと思いました。
ユーシャン:台湾は、民主化運動と一緒に「台湾ナショナリズム」というものが形成されてきたところがあるんです。そして「台湾ナショナリズム」は、どちらかというと人権を重視するとか、いろいろなマイノリティの問題に関心を持っているという感覚なんですよね。
例えば、1990年代にフェミニズムやクィア理論が台湾に導入されたとき、一部の研究者の論文では、LGBTの人たちが同性婚を通して異性愛規範に入ろうとすることは問題があるんじゃないかと言われていたんです。結婚をして家庭を作って一人前だという異性愛規範を解体するのではなく、自ら進んでそこに入っていくことに対する問題意識です。弁護士団体が実際に同性婚法制化の草案を作っていたときも議論の一部としてありました。LGBT運動をやっていた人たちの中では、運動のアジェンダとしてまずは同性婚を推進すべきなのか、もしくは推進せずに婚姻制度自体を変えるべきなのかというモヤモヤがあったと思うんです。そのなかで、まずはクィアの人の権利を守るために同性婚を実現するという流れがあったんです。ただ、それが日本では報道されません。
英亮:同性婚の議論では、今ある婚姻制度はそのままに、同性カップルにも同じように適用して平等にしたいという立場の人や、今ある婚姻制度を改革したいという人、また婚姻制度を完全に解体するべきだという立場を取る人など、さまざまな立場の人がいました。最初の方に出てきた草案の中には、二者間に限らない共同体でケアをし合う人たちに対する保障を考えたものも挙がっていたのですが、やっぱりいろんな案の中では難しいと判断され、今の形になったという流れがあります。
燈里:日本で台湾の同性婚が報じられるときに、「法制化しました」ということだけが報じられて、法制化するまでがどういう道のりだったのかは全然共有されていないですよね。いろんな議論やアンビバレントさを抱えながらも、それでも権利としての婚姻の平等を目標として多様なクィアの人たちが連帯して、社会運動をやってきた。ちなみに、国民投票で大惨敗したのに法制化できたのは、結局最後は法の力で閉じたからですよね。世論よりも権利の方が重要なので違憲判決が出て、論調はとりあえず置いといて法として保障するという形を実現しました。
英亮:ただ、台湾の同性婚は異性間の結婚と完全に同じだと思っている人もいるかもしれないんですけど、法制化された2019年当時は、養子や国際同性婚などに関してかなり制限がありました。例えば、台湾と相手国両方に同性婚の権利がないと国際同性婚はできませんでした。また、東南アジアなどの国の人々との結婚は、異性カップルでも婚姻に際して面談が求められます。一方の国が同性婚を認めていない状況に加え、さらに別の法的な困難を抱えており、当時国際同性婚はできませんでした。台湾人と東南アジアのカップルは結構多いので、そこに対するピアサポートのグループもできました。
現在、それらの国の人たちとの結婚は可能になったのですが、いまだに台湾人と中国人は結婚ができません。これには両岸人民関係条例と呼ばれる別の法律が壁となります。なので、台湾と中国の性的少数者のカップルには、置いてかれた、後回しににされたという感覚がかなりあります。よく日本で「台湾は誰でも結婚ができる」と書いてあるのは、事実としては間違っています。
私が2019年から2020年にインタビューした際は、ちょうど台湾と日本の国際同性婚について議論されている時期でした。とあるインタビュイーの人が「前は中国人と付き合っていたけど、それだと同性婚ができないから、今後は同性婚がある国の人としかデートしないようにする」と言っていて。結婚しうる身体とそうでない人という形に、今までなかった序列のようなものができる、その規範がふっと見える瞬間にインタビューをしていました。
燈里:この本で得た知見の一つとして、東南アジアの人たちに対する、またはムスリムの人に対する偏見があります。台湾はインドネシアやフィリピンなどの東南アジアから出稼ぎに来る方が多く、その人に対する偏見がありますよね。
英亮:国際同性婚でも東南アジアからの移民が健康保険を濫用するんじゃないかとか、移民がHIVを持ち込んでくるという偏見がありますね。
ユーシャン:日本の技能実習生の問題をいろいろご存知だと思うんですが、台湾は1990年に、多分日本より早い段階で外国人労働者を入れたんですよね。そのときの制度的な差別はもっとひどくて。例えば、自由に雇用主を変えることはまず許されません。仲介手数料がたくさん取られたり、パスポートが雇用主に取られたりなど、今の日本の技能実習生に関わる問題は、台湾ではもっと早い段階でたくさん起こっていたんです。改善されたものもあれば、改善されていないものもあります。
英亮:本の中でも少し言及したんですけど、ベトナムルーツがあることをずっと隠しながら生きてきた人もいて。日本から台湾に来た人たちには「台湾人は外国の人に優しい」みたいなイメージがあると思うんですけど、それは欧米と日本など、特定の人たちに対してということが多いんです。
一方で、すでに台湾ではクィアと移民労働者が連帯しているなと思います。東南アジアとクィアの問題を連携させたコミュニティなども出てきていますし。クィアの話と移民の話を二つに分けてしまうと、両方のアイデンティティを持った人の話がこぼれ落ちてしまいます。そこをなんとか手を繋いでいけたら。硬い手の握り方じゃなくてもいいんですよ。ゆるくなったり、たまに離してまた繋げたりでもいいと思います。
ユーシャン:デモなどをするときは、相互に「応援するよ」っていう声明を出すことがあります。移民労働者の人たちにはイスラム教やキリスト教の人もいますが、「自分たちの宗教ではなかなか支持できないけど、台湾に来てから自分たちもマイノリティの立場を感じたので、同じマイノリティとして、自分の信仰と少し違っていたとしても権利は支持できる」と言っている人がいました。そこで連帯を感じられましたね。
あとは、同性婚法制化の運動や移民労働者などの他の運動も含めて、やっぱり社会全体として政治的な議論をすることを嫌がらないし、若者が関心を持ってるんですよね。「こういうことも社会問題だよね」ということが見えやすい島なのかなと思います。
燈里:それは本当に思いますね。みんなが積極的に社会や政治の話をしています。例えば、誰かが移民問題をやっていて、その話を友達にしたら「じゃあ今度デモ一緒に行こうかな」とか、「ここのアナキズム団体が講座やるらしいから、みんなで行くか」みたいな感じで、カジュアルにいろんな問題や運動に繋がっている感じはありました。
英亮:親は「デモ行ったら捕まるから行かないでよ」っていう感じですけどね(笑)。
燈里:やっぱりね、戒厳令時代の厳しい記憶があるから。当時は隣人が反体制派に関わってるらしいと通報して、実際に捕まってしまうこともあったと聞きます。周りで監視しあっていたということから、公に政治の話をしにくい空気があったと思います。戒厳令が終わって、たった30年ほどですごく大きく変わったと思います。
日本では、同性婚法制化のニュースを含め、台湾の政治や社会運動の力強い側面を多く目にし、そこに羨ましさを抱くこともあります。しかし、台湾の歴史を辿る上で日本の統治時代を抜きにして語ることはできません。憧憬の眼差しを送るたびに、Akariさんの「台湾はいつも植民地にされてきた側だったんです」という言葉の輪郭が浮かび上がってくるようです。また、台湾における煌びやかな権利の影にはまだ解決されていない問題もあります。そのような問題を日本からの歓声でかき消してしまわないように、台湾の人々が歩いてきた道のりや議論をきちんと見ていきたいと思いました。
イベント後、松田英亮さんが修論として文章を書いてから本の形にするまでの一年間でも同性婚にまつわる法律がどんどん変わっていったと話していました。トークの中でもさまざまな時代の説明が出てきたように、とても短い間に大きな変化が起こっているのだということを実感します。関わってきたコミュニティが少しずつ異なる3人がそれぞれ出会った変化とそれに呼応する人々の様子をお話ししてくれる、とても貴重な会でした。
※1……台湾の当事者たちは自身のことを中国語で「同志」と呼ぶことが多い。欧米の枠組みで捉えると「クィア」な人々であるとも言えるが、本人たちの言葉を尊重し、「私がインタビューをした人全体の総称に限って」は「性規範から外(さ)れた人」や「性的少数者」などと表現している。(英亮)
※2……台湾同志ホットライン協会:台湾にある最大手の当事者団体。「同志」とは、中国語圏で、狭義では同性愛者(男性同性愛者が想起されやすい)、広義では性的少数者の総称の一つ。もともとは4つの別々のクィア団体で、それぞれ権利運動や教育活動、労働問題に焦点を当てていた団体などが合体し、台湾同志ホットライン協会として1998年に発足。1989年に高校生の同性カップルの子どもたちが親にばれて自殺未遂をした事件が団体発足のきっかけとなった。ネットがない時代に、同じ同性愛の人たちに電話で相談に乗ってもらえるという形でサービスを開始し、その後、活動内容もボランティアの数も多様さを増していき、全国支部ができるまでに至った。(燈里)
※3……台湾のニュースチャンネル「三立新聞網」によると、「国民投票後、同志の自殺が9人、自殺未遂が2人、いじめが23件あり、『選挙が終わり、暴力社会は沈静化しなければならない』と悲痛な面持ちで語った」とある。(英亮)
松田英亮(胡英亮)
1996年香港生まれ。日・米・台で育つ。独立行政法人職員。国際基督教大学卒。一橋大学大学院社会学研究科修了。カリフォルニア大学アーバイン校、國立台灣大学院留学。専攻:ジェンダー・セクシュアリティ、クィア、社会学、人種・エスニシティ等。『ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた』(明石書店)出版に携わる。『国境を越えるためのブックガイド50』(白水社)共著。劇団バナナ劇団員。
ファン・ユーシャン(黃昱翔)
台湾・新北市出身、東京在住。戦争と平和に関する展示やイベントの企画、日中翻訳・通訳、高校生の台湾修学旅行の事前学習の手伝いなど、いろんな活動をちょっとずつやっている。
燈里
1992年茨城県出身。翻訳者、執筆者、コミュニティ・オーガナイザー。「集まるクィアの会」主催。
プロフィール
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